第2話:取材初日

午後5時すぎ。

陽が傾き、商店街のアーケードの下に夕焼け色の影が伸びる。


松倉は、手にしたタブレットをスリープにし、背負ったカメラのストラップを軽く締め直した。


「さて・・・今日の分は、こんなところかな」


東町の商店街を中心に、地元の小規模店舗を4件回った。

取材は順調。手応えも悪くない。


この調子で明日からも取材を進めていこう。


スマートフォンを取り出し、萩原にメッセージを送る。


「今日はこれで切り上げて、今から緒川のとこ行く。もう着いてる?」


すぐに「先に行って待ってる」と返事が返ってくる。


松倉はスマートフォンをしまい、ゆるりと歩き出す。


角を曲がった先に、夕日を受けた路地が一本、まっすぐ延びている。

ふと立ち止まり、振り返る。


誰もいない。夕暮れの道があるだけだ。


「・・・気のせい、か?」


商店街は何度も歩いたことがある。

だが、この道に見覚えがあるかと問われれば、自信がなかった。


・・・こんな道、あったか?


確かに、街灯が少なく、細い道が多い地区ではある。見落とすような路地も多い。

しかし、それにしても奇妙だった。まるで、地図に載っていないような空気感。


人工的な整備がされているはずなのに、妙にが漂っている。


何年もこの街で過ごし、何度もこの通りを歩いた。

それなのに、こんな場所を知らない。


その時、ぬるりと風が足元を撫でた。


見えない何かが、曲がり角の先へと駆けていくような感覚。

目には映らないが、気配だけが確かに残る。


「・・・気のせいだな」


眉を寄せてそう呟き、松倉は足を動かす。

追いかけるでもなく、逃げるでもなく。ただ、前へ。


それでも、背後の路地に気配が残っているようで、歩調は自然と早まった。


振り返ることなく、もう一度角を曲がると、さっきの路地は風景に溶けて、最初からなかったかのように感じられた。


しばらくして、沙月の食堂の灯りが見えてきた。


のれんが揺れ、焼き魚の匂いが鼻をくすぐる。


松倉はその匂いに包まれながら、ようやくいつもの感覚を取り戻した。


「・・・腹、減ったな」


夕暮れの橙色が店先の暖簾を照らしていた。

松倉が引き戸を開けると、店内から出汁のいい香りがふわっと迎えてくる。


「あっ、来た来た」


カウンター席の端に座る萩原が、小さく手を挙げた。

その前にはすでに、小鉢料理と中ジョッキが置かれている。


「先に飲んでんのかよ」


「待ちきれなかった。ちょっと暑かったしさ」


萩原はぬるく笑って、ジョッキを持ち上げた。

松倉もその隣に腰を下ろし、店の奥に目をやる。


「緒川、まだいる?」


「いるよー。ちょっと待ってて」


奥から声が返り、その数秒後、三角巾をつけた沙月が顔を出した。


「おつかれ。今日から取材だっけ?」


「そう。で、初日から4件回ったよ」


「へぇ、がんばってるじゃん。飲む?」


「うん、瓶ビールもらおうかな」


沙月が頷いて厨房に戻ると、萩原が箸で冷奴をつつきながら聞いた。


「どうだった?初日」


「まぁ、悪くない滑り出しかな。話も聞けたし写真も撮れた。地元とはいえ、知らない話もけっこうあった。面白いもんだな」


「じゃあ、今日の取材内容は後日まとめてくれたら、俺の方で記事テンプレに当てはめてみる。使えそうな写真とコメントももらえれば軽く動けるから」


「ああ、助かる。こっちも文案の下書き始めておくよ。・・・そういや、美橋の通販サイトの件で、なんかあいつからやたら細かいメールきてたな」


「ははっ。相変わらずだね・・・。でも、ちゃんと運営してるのはすごいよ」


「まぁな。ああ見えて経営者なんだから地に足はついてるんだよ、あいつ」


「松倉は明日もまた取材?・・・体力とか大丈夫?なんか変なとこ迷い込んだりしてない?」


「いや、そんなに大したことしてないから体力は大丈夫。言っても町内だしな。・・・まあ、ちょっとだけ変な道を見た気はしたけど」


「え?」


「いや、気のせいだよ。夕暮れだったし、景色がちょっと違って見えただけだと思う」


松倉は、さきほどの路地裏を思い出したながら言った。


その言い方に、萩原は一瞬だけ眉をひそめたが、深くは突っ込まなかった。


そこに沙月が瓶ビールとグラスを運んできた。

冷えたビールを注ぎながら、沙月がぽつりとつぶやく。


「旧校舎のときも、最初はそんな感じだったよねー」


「・・・」


三人の間に、一瞬だけ沈黙が落ちた。

だが、それを破ったのは、松倉だった。


「・・・それはそれ。今は仕事だ。初日の疲れもあったし、多少は緊張もしてたしな」


「そうだね。この仕事はきちっとこなさないと今後に関わるしね。がんばろう!」


と、萩原。


「そうそう。緒川食堂の取材もあんでしょ?私のとこは、無料で取材だって父は言ってたけど、しっかり頼んだわよ!」


沙月が冗談まじりに言うと、松倉がグラスを掲げた。


「じゃ、緒川食堂の繁盛と、俺たちの船出に」


「かんぱーい」


グラスが軽く鳴る。

それぞれの今を祝うように。


食事が運ばれ、二人はそれぞれ箸をつけながら、次の取材予定の話やスケジュール、どこまで萩原が作業を進められそうか、そんな仕事の打ち合わせを自然と始めていく。


グラスの中の泡が、静かに弾ける音が心地いい。


仕事の話も、今日見た少しおかしなことも、泡のはじける音と一緒に、夜の始まりに、やさしく消えていった。



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