第五章 還らず、祈り芽吹く

 布団に身体を沈めても、眠気はやってこなかった。

 天井の白が、やけに明るくて眩しい。


 わたしはスマートフォンを耳に当てたまま、

 無言の間を埋めるように、そっと吐息を落とす。


「……そっちは?」


《うん。アパート戻ってきた》


 電話の向こう、真人の声はかすかに熱を帯びていた。

 興奮でもなく、安心でもなく――

 どこか、名残惜しさのような。


《ちゃんとパトロールの人が一緒に来てくれて。

 部屋の中も異常なし。荷物もそのままだった》


「……よかった」


 思わず胸を撫で下ろす。

 彼の無事を確かめるたびに、

 わたしのなかの“何か”が、

 そっと戻ってきてくれる気がした。


《先生……》


 不意に、電話口から彼の声が柔らかく沈んだ。


《あの……今日、警察行く前に、実家と連絡とったんです》


「……うん」


《誘拐されかけたことも、

 今まで誰にも言えなかったことも――ぜんぶ話しました》


「……そっか」


 声が震えそうになるのを抑えて、静かに応じる。


《そしたら、“帰ってこい”って》


「……」


《“こっちは安全やから”って、何度も何度も》


 彼の口調が、少し遠くを見つめるように変わった。


 かすかに指先が震えた。

 言葉が心の奥に降りてくるたびに、

 かつての記憶の奥に眠る“何か”が、ざわめいた。


《でもね……俺、帰る気はないんです》


 言葉の切れ間が、ほんの一瞬。


《俺、こっちで夢があるし……

 何より、先生に会えたから。

 ――同じ村の人と、遠い東京で出会ったんですよ?》


 その言い方が、どこか子どもっぽくて、

 だけど、まっすぐだった。


「……偶然。たまたま、そうなっただけ」


《うん、たまたま……でも、それでも。

 俺にとっては、大きな意味だった》


 少し笑ったような息づかいが耳に届いた。


《こんな都会で、

 同じ空気の匂いがする人に会えるなんて思わなかった。

 それが先生で、よかった》


「……真人」


《なに?》


「……ありがとう。でも、わたしは先生だから」


 しばらく、沈黙があった。


 何かを飲み込むような気配。

 言いたい言葉が喉元まできて、それでも口を閉じる静けさ。


《……そっか。わかってます》


 真人の声が、少しだけ低くなった。


《でも、先生がいてくれた時間は、ほんとに宝物でした》


「“でした”って言わないでも。まだ、消えたわけじゃないでしょ」


 そう言いながら、

 自分が何を守りたくて何を遠ざけているのか、

 わたしにも、もうわからなくなっていた。


《先生》


「ん?」


《また明日も、声聞かせてください。

 会ってなくても、声だけで……すごく、落ち着くから》


「……いかんよ。子ども扱い、それ」


《じゃあ……“俺だけの先生”扱いで》


「なにそれ……」


 口元が、つい緩む。

 でもそれは、寂しさを覆い隠すための苦笑だった。


 電話の向こう。

 わずかにベッドがきしむ音。

 カーテンが風に揺れる音。

 隣にいるはずのない彼の生活音が、

 なぜかこんなにも胸を締めつけた。


 電話の向こう、真人の声がふっと変わった気がした。

 さっきまでの日常をなぞるような口調とは違う、

 何かを“確かめたがっている”ような、そんな声音。


「……先生、もし、俺が大人になっても、ちゃんと話してくれますか?」


「話すよ。何、急に」


 わたしは笑って返す。

 けれど、その先に続く言葉を――なぜか、心が待っていた。


「いや……もし、俺がもっとちゃんとした大人になったら、

 “選択肢”になれたり……しますか?」


「……それは、真人がちゃんとした“大人”になってから考える」


 冗談めかして返すつもりだったのに、

 言葉の端が、少しだけ震えた。


「まぁ、真人なら大丈夫。きっとすぐに、誰かいい子が見つかるよ」


 それは、突き放すような言い方だった。

 でも本当は、

“そうあってほしい”という願いと、

“できれば違ってほしい”という願いが、

 ぐしゃぐしゃに混ざっていた。


《そう……ですかね》


 それ以降、お互い無言の時間が続いた。


 その間、わたしは天井をぼーっと眺めていた。

 このあとわたしたちはどうなるのだろうか、

 そんなことを想いながら。


 すると、その空気を断ち切るかのごとく

 真人は明るい声でこう切り出した。


《ちょっと……いいですか?》


「なに?」


《俺……アイドルになるって話、しましたよね?》


「うん。してた。……進路相談のときにも」


 スマホ越し、ほんの一瞬の沈黙。


《あれ、本気なんです。本当に、なりたいんです》


 その声に、曇りはなかった。

 現実の脅威や、恐怖や、不安や、

 今日あった出来事をすべて踏まえたうえで、それでも“言える”声だった。


「……なんで、なりたいの?」


《んー……なんでだろうなあ。

 たぶん、誰かに見てほしかったからかもしれない。

 ほら、俺って昔から……地味で。

 目立つタイプでもなかったし、うるさいのも苦手で》


 彼の声が、少しだけ笑う。


《でも、小さいころにたまたま見たステージがあって。

 テレビでやってたライブ。

 すごかった。ひとりの人が、何千人を“幸せにしてる”みたいで》


《それが……羨ましくて、憧れた》


 わたしは、スマホを持つ手に、そっと力を込める。

 彼の声の中の“眩しさ”が、胸に刺さるようだった。


《俺も、あんなふうになりたいって思ったんです。

 誰かの記憶に、ずっと残るような人に》


「真人は、きっとなれるよ」


《……本気で、言ってます?》


「本気」


 スマホの向こうで、何かを考えているような間。


《……ファンクラブとか、できたら入ってくれますか?》


「え?」


《いや、笑わないでくださいよ。

 俺、ちゃんと“推し活”される側になれるかなって、ちょっと考えてて》


「それは……どうしよっかなあ」


 わたしは、からかうような口調を装いながらも、

 その問いが、どこかくすぐったくて、頬がゆるんでいた。


《えー、冷たい。せっかくの第一号候補だったのに》


 スマホ越しの笑い声が、わたしの部屋の静けさをやさしく揺らす。


「うそ、入るよ。一番最初に」


《やったね》


 喜んでいる彼の声には、年相応の子供っぽさがあって微笑ましかった。


《俺ね――》


 スマホ越しの真人の声が、一拍おいて、静かに語り出す。


《初めてライブを観たの、中学生のときだったんです。

 村の外に出たくて、ひとりで夜行バスに乗って。

 東京じゃないけど、県外のホールでやってた、小さいライブ》


《知ってます?席って、一番うしろだと、ステージちっちゃくて豆粒みたいなんですよ》


 笑い混じりの声。

 でも、その記憶のひとつひとつを、彼は本当に大事にしてるのが伝わってきた。


《でもね、豆粒みたいなのに、すごかった。

 その人、最初の一曲で、俺、涙出てたんです。意味もなく》


 わたしはスマホを耳に当てながら、息を止めるようにして聞いていた。

 鼓膜を揺らすその声の向こうに、見たことのないステージが浮かぶ。


《なんかこう……“ああ、この人がいてくれてよかった”って思ったんです。

 それだけで、生きてるの、ちょっとだけ肯定された感じがして》


《だから、俺も……そうなりたい。

 誰かにとって、“この人がいるから、もう少し頑張ってみようかな”って、

 そう思ってもらえる存在になりたい》


 わたしの胸に、ぎゅうっと何かが押し込まれる。


(なんで、こんなに――)


 息を吸うのも忘れそうだった。

 彼の夢が、ただの夢じゃないことが、痛いほどに伝わってくる。


《ファンの前で歌うときって、たぶん、自分ひとりで歌ってるわけじゃないんですよね。

 声も、表情も、ぜんぶ、届いてるかどうかなんてわからないけど――

 それでも誰かの“明日”に繋がるんだって信じて、やる》


《そんなふうに……なりたい。

 生きることに、理由を探してる人の、ちょっとした光になりたいんです》


 わたしは唇をきゅっと噛んだ。


 そんなこと、彼の歳で言えるなんて。

 たった十六歳の男の子が、

 こんなにもまっすぐに、誰かの生に責任を持とうとしてる。


 なのに、わたしは――

 そんな彼を、現実の重みに引きずり込もうとしてた。


《……ごめん、なんか、熱く語っちゃった》


「……ううん、いいよ」


 言葉が震えそうになるのをごまかすように、

 わたしはスマホをぎゅっと握りしめた。


「……真人の声、届いてるよ。ちゃんと」


《え?》


「うちに。……届いてる。すごく、強く」


 その瞬間、スマホ越しの空気が、ふっとやわらいだ。


《……よかった》


 わたしは黙って天井を見上げた。

 涙が溢れそうになったけど、こぼしたら、

 この夜が壊れてしまいそうで。


(――誰よりも、輝きたかったんだね)


 あのとき、文化祭で踊っていた姿。

 同じ教室のなかで、静かに光っていた笑顔。

 ぜんぶが、今ようやく“ひとつの夢”に繋がった気がした。


 けれど――

 だからこそ、わたしはこの子を、

“この夢を”、絶対に壊しちゃいけないと、

 心の底で、強く、強く思った。


 わたしが大人として、守らなければいけないと――

 このとき、初めて本当の意味で“覚悟”した。


《……先生、まだ起きてます?》


「起きてるよ。……真人こそ、明日学校だよ」


 真人の声は少し緩んでいて、

 布団の中で仰向けに転がっている姿が想像できた。


 眠れぬ夜に声を求めるような、その気配が、

 まるで子どもみたいで――

 でもそれは、もう子どもではなくなっていく手前の、不安定な輪郭だった。


 ふと、沈黙が落ちる。


 その間に、空気のトーンが、少しだけ変わった。


《先生、もう一回聞いてもいいですか?》


「……ん」


《……俺がさ、ちゃんと高校卒業して、

 大学も行って、……大人になったら、

 また、“向き合って”もらえることって、あるんですかね》


 その言葉に、

 胸の奥がきゅっと縮まるのを感じた。


 あまりにもまっすぐで、あまりにも無垢な問いかけ。


 それはただの冗談にも、

 ただの未来への希望にも聞こえなかった。


「……その時、真人がまだ“うち”のこと、好きだったらね」


 そう返すのが、精一杯だった。


 ほんの少し笑ってみせたけれど、

 その笑いは自分でもわかるほど、ぎこちなかった。


《じゃあ、覚えておいて。俺のこと、ちゃんと》


「……なにそれ、どっかのドラマみたいなセリフ」


 わざと茶化した口ぶりにしたのは、

 そうでもしないと心が持たなかったから。


「さっきも言ったけど、真人くらいの歳なら彼女すぐできるよ。

 きっと学校でファンもたくさんいるでしょ?」


《え、それ……褒めてます? なんか、すっごい雑に褒められてる気がする》


「うちのことは一旦、忘れて」


 一瞬の沈黙。


 その先に、真人の声が少しだけ小さくなった。


《……それ、聞きたくなかったな》


 そのトーンの落差に、胸がきしむ。


 言葉は正しかったはずなのに、

“正しい言葉”が、誰かの心を傷つけることもあると――

 わたしは、よく知っていた。


「……もう寝よ。明日、遅刻するよ」


《……はい》


 しばらくして、真人が言った。


《先生、俺ほんとに、ちゃんと大人になりますから》


 その言葉を、わたしは肯定も否定もせず、

 ただ目を閉じて、静かに受け止めた。


「……おやすみ、真人」


《おやすみなさい》


 通話が切れたあと、

 わたしはスマホを伏せたまま、動けなくなった。


 ◇


 ひとけのない暗がりのなか、

 白く細い指が、わたしの袖を引いた。


 誰?と問おうとした瞬間、

 声ではなく“水音”のような気配が胸の奥を打った。


 まぶたの裏に、茜色の空が広がる。

 それは現実の夕暮れではなく、

 どこか――血のにじんだ光を孕んでいた。


 気づくと、わたしは“あの場所”に立っていた。


 しん、とした森の奥。

 夏の終わりの、土の匂い。

 風が止まり、虫の音もどこか遠く、

 ただ、木々のざわめきだけが生き物のように耳を撫でていく。


 周囲には誰もいない。

 けれど、わたしの小さな手には、

 朱に染まった“布”が握られていた。


(……何これ?)


 夢の中でさえ、声は出なかった。

 でも指先は覚えていた。

 この布を――誰かに渡したことがある、と。


 遠くで、太鼓の音が鳴った。


「どん」ではなく、「ど、どん……」と不規則な、

 まるで鼓動のような音だった。


 空気が震える。

 風の通らない山の中、

 その音だけが“生きて”いた。


 やがて、ゆらゆらと――提灯の灯りが現れた。


 それは列になって、山の小道を進んでいた。

 赤子を背負う母、顔を隠した巫女、

 頭巾を被った男たち。

 みな、口を閉ざし、足音さえ消していた。


 その中心に、“あの子”がいた。


 顔は見えない。

 けれど、彼の輪郭だけは、はっきりとわかる。


 白衣を着せられ、

 細い足で、しずしずと歩いていた。


 その背中に、わたしの心が引き寄せられていく。


(だめ。行かないで)


 そう叫んだはずなのに、声は届かなかった。


 提灯の灯が、山の祠へ吸い込まれていく。


 音も、匂いも、記憶も――

 その背中とともに、すべて闇のなかへ沈んでいくようだった。


 わたしは走った。

 小さな足で、何かを止めようとしていた。


 でも足元の土が崩れ、視界が大きく傾く。

 そのとき、誰かが、

 わたしの手を強く引いた。


 ――目が覚めた。


 冷たい汗が背中に流れていた。


 夜明け前の部屋。

 外はまだ青く沈み、カーテンの隙間から光は射していなかった。


 息が荒い。

 喉が、渇いていた。


(……また、あの夢)


 わたしは、ゆっくりと起き上がった。


 枕元には水の入ったグラス。

 手を伸ばして飲み干しながら、

 心の奥でずっと“あの子”の背中を追いかけていた。


 ◇


 朝の職員室は、紙とインクとわずかな緊張の匂いがする。

 コーヒーの湯気が立ち昇る傍ら、誰かが欠席連絡を打ち込むキーボードの音。


 わたしは自分の机に腰を下ろし、

 プリントの束を確認しながら、小さく息を吐いた。


(……寝たのかな、あの子)


 あの夜の通話。

 言葉の端ににじんだ想いが、

 朝になっても、胸のどこかに微かに残っていた。


「おはようございます」


「おはよう」


 廊下ですれ違う生徒たちに声をかけながら、教室へ向かう。


 教室のドアを開けた瞬間、

 椅子を引く音、教科書を開く音、

 誰かの笑い声が空間に散っていった。


 その中に――

 彼の姿も、いつもの場所にあった。


 真人は、いつも通りの制服姿で、

 鞄を机に置きながら、ゆっくりと席に着いていた。


 けれど、どこか――わたしの方へ気配を向けていた。


 視線を向ければ、

 彼はわたしを見ていた。


 きちんと見つめるのではなく、“目が合うかもしれない距離”で、

こちらを伺うようなまなざし。


(……気のせいじゃないよね)


 そう思ったときにはもう、

 彼はそっと目線を逸らしていた。


「では、朝のホームルーム始めます」


 声を張る自分の表情が、

 どこか他人のもののように感じられた。


 プリントを配りながら、

 彼の机の上をそっと見る。


 ボールペンのキャップを、指先で何度も回していた。

 手が、ほんの少しだけ緊張していた。


(……何を考えてるの)


 聞けるわけもないその問いが、

 胸の奥で微かに跳ねた。


 彼の視線。

 言葉にはならないけれど、

 昨日の夜の“続き”が、まだここに残っていた。


「今日の連絡は以上です。

 では、一時間目の準備をしてください」


 チャイムが鳴り、椅子を引く音が再び教室を満たしていく。


 教卓に戻るその間。

 彼は、もう一度、わたしを見た。


 その瞳に宿っていたのは――

「答えを求める子どもの目」ではなかった。


 どこか、“待つことを知った誰か”のような、

 静かな熱を含んだまなざしだった。


(それでも……うちは、大人だから)


 そう自分に言い聞かせながら、

 わたしは教科書を開いた。


 彼の想いに、気づかなかったふりをするために。


 ・


 教室のカーテンが、ゆっくりと風に揺れていた。

 三時間目――現代文の授業は、静かな熱を帯びて進んでいた。


 教卓の前に立つわたしは、今日の教材を掲げて生徒たちに向けて話す。


「今日は、この短編小説を扱います。タイトルは“忘れられた約束”。

 主人公は、自分の“初恋の相手”との記憶を失ってしまった女性です」


 生徒たちがざわめく。

 誰かが「それってラブストーリーじゃね」と小声で囁く。


「ちょっと違うかな。ただの恋愛じゃなくて、

 “記憶”を失ったことが、その人に何を残したのか――

 そこがこの物語の主題だね」


 教科書ではなく、プリント教材にまとめられたその話は、

 あくまで“フィクション”だった。


 けれど、それを読み上げながら、

 わたしの中には、ある“景色”が浮かび上がっていた。


 わたしの目線の先。

 真人は静かに教科書を開き、ペンを走らせている。

 けれど、顔を上げたとき――彼の目が、一瞬わたしを見た。


(なんで……そんな目、するの)


 その視線には、

“何かを思い出そうとしている”ような、

 どこか自分自身を探るような色があった。


「じゃあ、まず冒頭を音読してくれる人。……真人くん、お願いできる?」


「はい」


 真人の声は落ち着いていた。

 けれど、その一語一語が、

 わたしの胸をじんわりと染めていく。


「――わたしは、その人の名前を、思い出せないまま生きている。

 声も、顔も、曖昧なのに、心のどこかが、まだ覚えてる」


 読み上げる真人の声が、

 まるで自分の内側から聞こえてくるようだった。


 真人の音読は、決して芝居がかったものではなかった。

 むしろ静かで、素朴な抑揚だった。


 けれどその“抑えた熱”のような声色が、

 どこか物語の行間と深く呼応していて、

 わたしの胸を――静かに、締めつけた。


 教室の窓の外では、薄曇りの光がにじんでいた。

 まだ昼を迎えきらない、白く鈍い空。


 教卓の前に立っているはずのわたしの意識が、

 じわりと、紙の活字の向こうに沈んでいく。


 ――記憶をなくした主人公は、

 ある夏の日の夢のなかで“見知らぬ少年”と出会う。

 けれど目覚めると、その面影はもう輪郭すら思い出せない。


 そのくだりを、彼が読み進める声を聞きながら、

 気づけばわたしの脳裏には、“あの景色”が浮かび上がっていた。


 赤土の細道。

 真夏の陽射しに照らされた、ひなびた神社の鳥居。

 朝顔が垣根に絡まり、風鈴が鈍く揺れていた。


 そして、

 そこにいた“誰か”。


 名前も顔も、曖昧だった。


 でも、確かに――

 わたしの手を取って、走ってくれた人がいた。


「危ないけん、こっちに来とって!」


 そんなふうに、幼いわたしをかばうような声が、

 確かに耳の奥に残っている。


 そのときの自分の小さな手のひらに残る、

 あたたかい指の感触。

 その手を、思わずぎゅっと握り返した記憶。


 その人は、わたしの“初恋”だった。


 間違いなく――


「先生?」


 ふいに名前を呼ばれて、わたしは弾かれるように教卓に意識を戻した。


 黒板のチョークの粉が、ほんのわずかに空気に舞っている。

 その向こうで、真人がわたしを見つめていた。


(……)


 彼の目が、何かを探っていた。

 わたしの思考の隙間に入り込もうとするようなまなざし。


「ごめん。ちょっと……考えてただけ」


 わたしはかすかに笑って、プリントのページをめくる。


「この物語の主人公は、初恋の人の名前も顔も思い出せないけれど、

 “そのとき感じた気持ち”だけが、はっきり残ってるのよね」


 その言葉を口にした瞬間、

 胸の奥で“何か”が微かにきしんだ。


(うちも……そうなんだろうか)


 忘れてしまった“彼”の顔。

 でも、まだ残っている“想い”。


 それが記憶の底にあればこそ――

 今もこうして、真人の言葉ひとつで心が揺れてしまうのかもしれない。


「……先生、なんか今日、優しいですね」


 真人の言葉に、わたしは反応が遅れた。


「えっ?」


「……なんでもないです」


 彼はそう言って、目を伏せた。

 けれど、わずかにほころんだ口元が、

 なにかを“わかってしまっている”ように見えた。


 ・


 チャイムが鳴って、生徒たちがわらわらと教室から出ていった。

 笑い声と椅子を引く音が重なって、やがて静けさだけが残った。


 黒板には、わたしが書いた文字の跡がまだ微かに残っている。

 “記憶”という二文字が、チョークのかすれで滲んでいた。


 わたしは、教卓に手をついたまま、深く息を吐いた。

 昼下がりの空気は重たく、

 なのに、どこか冷えていた。


(……なんで、今日に限って、こんな教材なんだろ)


 授業で取り扱った短編の主人公と、

 自分を重ねるつもりなんてなかった。


 なのに――


 わたしの中に、確かに“いた”のだ。


 顔はおぼろげで思い出せない。

 名前すら、忘れてしまった。

 でも、あの子の声と指のあたたかさと――

 夏草の匂いだけが、今も鮮明に残っていた。


 蝉が鳴く音を聞いて、

 わたしは振り向いた。


 そこには、神社の石段があった。


 赤い鳥居。

 ひび割れた狛犬。

 境内の隅でしゃがみ込んでいた幼い自分。

 そして、その前に――彼がいた。


「なんもしなくてええ。おれが守ったる」


 確かにそう言った。

 声が、記憶の奥から浮かび上がる。


 髪は少しだけ長くて、

 頬は日焼けしていて、

 笑うと、右の口角がちょっとだけ上がる。


(……こんな細かいこと、忘れてたはずなのに)


 風が吹いて、記憶のなかの草が揺れる。

 夏の日差しに、あの子の影がのびていた。

 わたしの手を引いて、どこかへ走っていく背中。


「……」


 現実の教室へ、思考が戻ってきたとき、

 わたしは自分の手が小さく震えていることに気づいた。


 無意識に、ペンを握る力が強まっていた。


 真人とは――違う。


 彼のまなざしも、声も、あたたかさも、全部違う。


 でもそれでも、

 なぜかあの記憶の中の“手のひら”と、

 真人の声が重なる瞬間がある。


(いかん)


 教室のドアが、カチリとわずかに鳴った。

 廊下を誰かが通り過ぎていっただけなのに、

 心臓が跳ねた。


(うちは……何を思い出してるんだろ)


 “忘れていた”ことが、

 いまこの瞬間、“忘れていたはずじゃなかった”と知る。


 そのことの恐ろしさと切なさが、

 胸の奥で、そっと脈打っていた。


 ・


 教室の時計が午後の終わりを知らせるように、秒針を乾いた音で刻んでいた。


 わたしは、最後のひとつプリントを束ねると、

 小さく息を吐いてから、教卓の脇を離れた。


 椅子を引く音。

 荷物をまとめる生徒たちのざわめきが、夕方の光と一緒に差し込んでくる。


 窓の外では、淡い橙が空を溶かしていた。

 照明をつけるには少し早く、

 でも目を細めなければ黒板が見えづらくなるような、そんな色。


「先生、さようなら!」


 生徒のひとりが手を振りながら出ていく。

 わたしは微笑んで、それに応えた。


 教室の隅。

 真人が、まだ席を立たずにいた。


 教科書を閉じ、鞄の中に収める仕草が、どこか遅い。

 わたしが見ると、彼もふとこちらを向いた。


 その瞬間、目が合った。


 何か言いたげで、でも言えなくて――

 そんな時間が、たった数秒。

 けれど、その“沈黙”はあまりにも雄弁だった。


(わかってるよ。言えないの、うちも一緒)


 わたしは何も言わずに、軽く会釈だけして踵を返した。

 それ以上、目を見てしまえば、

 あの記憶の“手のひら”と、

 真人のまっすぐな瞳が、重なってしまいそうだったから。


 昇降口までの廊下を歩きながら、

 ブラウスの胸元がやけにきつく感じられた。


 その中にある“教師”としての名札が、

 皮膚に貼りつくように、重かった。


 電車に揺られて帰る道すがらも、

 ホームのアナウンスも、車窓に流れるビルの灯も、

 どこか上滑りするように感じた。


 部屋に戻っても、なにひとつ変わらないはずの景色が、

 どこか遠く見えた。


 湯を沸かし、カップに注ぎ、ソファに沈む。

 テレビをつけても、ニュースの言葉が入ってこない。


(忘れたほうが、よかったのかな)


 村で出会った“彼”の記憶。

 顔も名前も思い出せないままなのに、

 心の奥に残るあたたかさだけが、今日ずっと疼いていた。


 そして――

 今、目の前にいる真人のことも。


 声も、まなざしも、あの頃とは違う。

 けれど、その優しさが似ている気がして、

 そこにすがりたくなる自分が、いちばん怖かった。


 夜が深まり、スマホの通知は一つも光らなかった。


(明日も、きっと“先生”でいないといかん)


 わたしは布団の中で、背を向けるように丸くなる。

 その背中に、誰の手も届かないことを、

 どこかで安心しながら――

 同時に、寂しさを噛みしめていた。


 名前の思い出せない“彼”にも、

 何も言えなかった真人にも、

 わたしは――ただ、背を向けていた。


 それが正しいかどうかは、

 まだ、夜が明けてもわからなかった。


 ◇


 梅雨入りが遅れているらしく、朝の空はどこかもやがかかったような淡い色をしていた。

 教室の窓越しに差す光も、湿気を含んで、肌にねっとりとまとわりつく。

 カーテンの揺れる音と、生徒たちの笑い声。それは、いつも通りの日常だった。


 わたしは教壇の前に立ち、出席簿を開いた。

 ページの手触りが、今朝はやけに重く感じられる。


「佐藤さん……いますね。椎名くん……はい」


 ひとつずつ名前を読み上げながら、手元の名簿がその“名前”に近づいていくたびに、喉がきゅっと締まるような感覚が強まっていった。


「……真人くん」


 呼んだその瞬間、胸の奥がひやりと冷えた。


 しん、と静まり返る教室。

 生徒たちが一斉に、気まずそうに顔を見合わせていた。


「真人くん?」


 もう一度、少しだけ強く呼んでみた。

 でも返事はなかった。彼の席は、ぽっかりと空いたまま。


 わたしの視線は無意識のうちに、スマートフォンの画面へと滑った。

 LINEの通知も、職員連絡にもまったく反応はない。


 胸がざわつく。

 昨日までの空気が、今朝だけ異質に感じられる。


「先生……今日、真人くん休みですか?」


「体調悪いのかな?」


 声が、次々にわたしの耳を打つ。

 教室のざわめきが、波のように押し寄せてくる。


「……わからない」


 かろうじてそう口にしたけれど、唇はもう乾ききっていた。

 足元がふわりと浮いたような感覚。息が詰まる。


 わたしの様子に、生徒たちが騒ぎ出すのがわかった。

 けれど、それを制する気力すら残っていなかった。


(どうしよう。何かが……本当に“起きた”)


 昨日までの会話を何度思い出しても、違和感なんてなかった。

 けれど、だからこそ怖かった。

 わたしが見落としていた“兆し”が、どこかにあったのではないかという恐怖。


「……すみません、少しだけ職員室に行ってきます」


 出席簿を閉じると同時に、わたしは立ち上がった。

 それ以上、教室にいるのが耐えられなかった。


 背中越しに「先生?」「どうしたの?」という声が聞こえたけれど、わたしは振り返らなかった。


 ――この胸騒ぎが、ただの杞憂であってほしい。


 そう願いながら、廊下へと足を踏み出した。


 誰かに見られている気配を振り切るように、

 わたしは廊下を早足で歩いた。


 教室のドアが閉まった瞬間から、胸の奥で膨らんでいたものが、膨張を続けていた。

 呼吸が浅い。脚が重い。

 けれど、止まるわけにはいかなかった。


(……何かが、起きてる)


 足音だけが響く通路。

 梅雨の湿気を含んだ空気が、シャツの内側にまとわりついてくる。

 蒸れたような匂い、掲示物がはためく音、生徒たちの遠い笑い声――全部、遠い。


「――先生!」


 その声が、背中を撃ち抜いた。


 呼び止められたのが誰かを認識するより先に、わたしの足が止まっていた。

 振り返ると、そこには――沙都がいた。


「沙都さん……?」


 彼女は、制服の襟元を押さえながら、走ってきたのか、肩で息をしていた。

 けれど、その表情は、いつもの彼女のそれではなかった。


 皮肉も、棘も、冷めた視線もない。

 むしろ、驚くほどまっすぐに、わたしを見つめていた。


「……やっぱり、何かあったんですね」


 その言葉に、わたしは眉を寄せた。


「……どうして、そう思うの?」


 沙都は一瞬だけ視線を伏せて、わたしの少し先――校舎の出口を見つめた。


「教室での先生の様子、あんなの、初めてでした。真人くんが欠席した瞬間に、顔が真っ青になって、出ていくなんて……。心配にならないほうが無理です」


 彼女の声は静かだった。

 けれど、芯があった。


(この子は……本当に)


 わたしは思わず目を伏せた。

 嫉妬とか、敵意とか、そんなものじゃない。

 沙都はただ、真人のことを――本当に、大事に思ってるんだ。

 その想いが、わたしには痛いほど伝わった。


 でも、すべてを話すことはできない。

 それは、大人としての責任であり、女としての……わがままの始末だった。


「……ごめんなさい。理由は言えない。でも――あなたに、お願いがあるの」


「……お願い?」


 沙都は目を細めた。けれど、口元はまだ、柔らかかった。


「わたしが今から、どうしても行かなきゃいけない場所があるの。だから――代わりに教室を、お願いできない?」


「……先生の代わりに、ってこと?」


「うん。あなたなら、できると思ったから。みんなを落ち着かせてくれるって」


 沈黙。


 一瞬、沙都の表情が揺れた。けれど、すぐに口を結んで、うなずいた。


「……わかりました。行ってきてください、先生」


 その目には、かつての挑戦的な光はなかった。

 ただ、静かに、真人の安否を気にかける少女のまなざしだった。


「ありがとう」


 そう言うと、わたしはもう一度だけ彼女に会釈して、足を踏み出した。


 沙都の姿が廊下の奥に遠ざかっていく。

 振り返ることはなかった。


 わたしは校舎の階段を駆け下りると、職員玄関を抜けて外に飛び出した。


 空はどこか色を失っていた。

 六月の下旬、本来なら青々とした葉が風に揺れる季節のはずなのに、わたしの目にはすべてが霞んで見えた。

 厚い雲が空を覆い、太陽の輪郭はぼやけ、湿った風が肌を撫でた。


(お願い……無事でいて)


 心のなかで何度もそう唱えていた。

 でも、“何が”起きているのかも、まだ掴めていない。

 ただ、胸騒ぎだけが、全身の神経を尖らせていた。


(まさか、また――)


 考えたくもなかった。

 あの夜、ネットカフェの個室で怯えていた彼。

 わたしの腕のなかで震えていた彼。


 あのとき、確かに守ろうと決めたはずだった。


(……あの子は、ひとりで上京してきた。家族も、頼れる大人もいない。わたしだけが、味方だった)


 住宅街を抜け、駅前の通りを走る。

 登校時間を過ぎて人通りの少ない街が、妙に静かで、逆に不気味だった。


 真人の住むアパートが見えたとき、胸が強く跳ねた。


(いるかもしれない。いや、いて――)


 わたしは息を整える暇もなく、足を止めずに階段を駆け上がった。

 指先に汗が滲む。

 ドアの前に立ち、チャイムに手をかけようとして、ほんの一瞬だけ迷う。


 ――なにも、起きていませんように。


 まるでおまじないのように、心のなかで唱えてから、そっと呼び鈴を押した。


 ……沈黙。


 わずかに風の音と、遠くを走る車のタイヤ音。

 何の反応もない。


 もう一度チャイムを押した。

 少し強く。指に力が入っていた。


「真人……っ!」


 わたしは思わず声に出していた。


 ドアの奥からは、やはり何の気配もなかった。


(そんな……)


 視界がぐらつく。

 膝が抜けそうになるのを必死で堪えて、わたしは鞄からスマホを取り出し、震える手で彼の番号をタップした。


 ツー……ツー……

 呼び出し音だけが、容赦なく続いていく。


(……出て、お願い)


 わたしの唇がかすかに震えた。

 まるで、教壇で何もできなかった自分を責めるように。


 ・


 呼び鈴は、沈黙のなかに吸い込まれるように鳴り響いた。

 二度、三度。

 それでも、何も返ってこない。


「……真人、いるんでしょ?」


 扉に耳を押し当ててみても、中から物音一つしなかった。

 息を殺して気配を探るが、テレビの音も、冷蔵庫のうなる音もない。

 まるで、初めから誰も住んでいなかったかのような、静けさ――。


(そんなはず、ない……)


 私は扉の前にしゃがみこんで、無意識に拳を握りしめた。


(警察は、“見回りを続けます”って……あのとき、確かに言った……)


 ――あれは、ただの口約束だったの?


 あの晩、彼が震える声で“攫われそうになった”と言ったとき。

 私が学校を飛び出して、あの子を抱きしめたとき。

 あの夜にした届出、そして事情聴取。


「しばらく警官が見回りをします」

「念のためパトロールを強化します」

「こちらで状況を把握します」


 あれほど“安心していい”と言われたのに、今ここには――誰もいない。

 アパートの敷地にも、周囲の通りにも、それらしい姿は見当たらなかった。


「どうなってるのよ……」


 低く、喉の奥で絞るような声が漏れた。


(もし……もし、ここで何かが起きていたとしたら……)


 ガチャ。


 背後から不意に音がして、私はびくりと肩を跳ねさせた。

 振り返ると、管理人室から小柄な初老の男性が顔を出していた。


「何かご用ですか?」


 私は立ち上がり、できるだけ落ち着いた声で問いかけた。


「すみません。この部屋の、真人くんのことで……今朝から連絡が取れなくて、もしかして彼が外に出る様子、見ませんでしたか?」


 管理人は小さく首をかしげた。


「いやあ、昨日の夜……24時前かな? なんか、部屋の前でちょっと話し声が聞こえたような……」


「……話し声?」


「うん、正直よく聞き取れなかったんだけどね。低い男の人の声が複数と、あとは……彼の声だったような、そうでもないような……」


 背筋に、氷の針のようなものが走った。


「それで、それからは?」


「そのあとは静かだったよ。特に通報が入ったわけでもなし……あ、そうそう、昨日はパトロールの警官も見かけなかったな。いつもはこの時間に……と思ったけど、見てないや」


「――それ、おかしくないですか?」


 自分の声に、少し震えが混じっていた。


「警察には、見回りを頼んでいたんです。本人も、誘拐されかけたって……それでも来ていなかったなんて――」


 自分でも何を口走っているのか分からなかった。

 ただ、こみ上げてくる怒りと恐怖が、理性を上書きしていった。


「なぜ……どうして、誰も彼を守ってくれなかったの……?」


 唇が、わずかに熱くなる。

 気づけば、目の奥が熱く滲んでいた。


「彼は、16歳なんです……! 一人で東京に出てきて、親もいなくて……どうして……」


 わたしはその場に膝をつきそうになる足を無理やり踏ん張り、深く呼吸を整えた。


 管理人は気まずそうに、わたしの言葉にただ小さく頭を下げた。


「す、すみません……そういう事情があるとは……こちらも何も知らされてなくて……」


「……いえ、こちらこそ……すみません。少し、取り乱してしまって」


 わたしは頭を下げてその場を離れた。


(この部屋には、もう、彼の気配は残っていなかった)


 ドアの前で一度、深く目を閉じた。


(真人……どこに行ったの……?)


 胸のなかに巣くっていた不安は、もう“予感”ではなかった。

 それは確信に近づき始めていた。


 ・


 アパートの前の道を、ただ歩いた。

 いや――歩いていたというより、さまよっていた。

 どこに行けばいいのか、何を手がかりにすればいいのか、わたしにはもう、分からなかった。


 思考は渦を巻いていた。

 あの子の声、手の温もり、夜の静けさ、震えていた背中。

 すべてが記憶の中で断片的につながりながら、いま、ひとつの「喪失感」へと変わっていく。


(こんなことになるなら、もっと――)


 言葉にならない後悔が、喉の奥を焼いた。


 そのときだった。


「――!」


 わたしの視界の端に、黒と白のパトロールカーが滑り込んできた。

 角を曲がったその車は、ゆっくりとこちらへ進んでくる。


(いた……!)


 反射的に身体が動いていた。

 走り出した。


「すみませんっ!」


 手を大きく振りながら、わたしは車道にまで足を踏み出した。

 車がキュッと音を立てて止まり、運転席から警官が顔を出した。


「どうしました? 危ないですよ――」


「……ふざけないで!」


 怒鳴った自分の声に、自分でも驚いた。


「わたし、先日そちらに相談したんです。誘拐未遂の件で、“真人”っていう少年のこと、覚えてますよね? パトロールを強化するって、見回りすると言いましたよね?」


 警官は、一瞬たじろいだように目を瞬かせた。


「真人……ああ、先週の……」


「“先週”じゃないんです! 昨日の夜も、今日の朝も! 彼は今、また姿を消したんです! 部屋にはいない! 連絡もつかない! パトロールを強化したって言ったのに、誰も見ていなかったじゃないですか!」


 口から出る言葉が止まらなかった。

 胸の奥から噴き出すように、怒りと焦りが言葉に変わっていった。


 警官は助手席の若い巡査と顔を見合わせ、曖昧な表情で答えた。


「……申し訳ありません、確かにそのように引き継がれていたはずですが、昨夜は別のエリアに重点を……」


「“別のエリア”? そんなの、理由にならない……!」


 拳が震えていた。

 視界が揺れる。息が荒い。

 誰のせいでもない。でも、どこにもぶつけられなかった怒りが、ようやく出口を見つけて溢れ出した。


「……16歳の子なんです。家族もいない、逃げ場もない。なのに、“重点を外した”って、そんなことで誰かが消えるかもしれないって、想像できないんですか?」


 警官たちは、ようやく事態の深刻さに気づいたのか、車から降りて真剣な面持ちでメモを取り出した。


「お名前を教えてください。もう一度詳細を――」


「神原です。神原恵美。教師です。……あの子の担任です」


 涙がにじんでいた。


「彼がいなくなったのは、ただの事件じゃありません。きっと……彼が育った“村”と関係がある。あの子は、それを感じてた……わたしも、そう感じてる」


 言ってしまってから、自分の声の震えに気づいた。


 警官はメモを取りながら、すぐに無線で連絡を取り始めた。

 交番にも署にも、情報が飛んでいく。


 その背中を見ながら、わたしはやっと、ほんの少しだけ、息を吐いた。


 けれど、心のどこかで――もう、間に合わないんじゃないかという不安が、ずっと疼いていた。


 ・


 警察と話したあとも、心のざわめきは収まらなかった。

 情報を共有し、対応すると言われた。

 でも、あの目――あの温度――そこに、彼の命が懸かっているとは、きっと誰も思っていない。


(そんな、ぬるいテンポじゃ……追いつけない)


 わたしは踵を返し、再び真人のアパートの敷地へ走って戻っていた。

 脚がもつれるほど早く、風が髪を乱して顔に張りつく。

 でも気にしていられなかった。


(今、彼が――この瞬間、誰かに何かされてるとしたら)


 アパートの管理人が住む部屋の前で、深呼吸もできないまま勢いよく扉を叩いた。


「――すみませんっ!!」


 中から管理人が、驚いた顔で現れた。

 さっき会ったばかりの初老の男性。けれど、わたしはその気まずそうな表情に構わず、一歩踏み込んだ。


「お願いです。真人くんの部屋の鍵を――スペアキーを、貸してください」


「え……? い、いや、でも、それは……」


 管理人は一歩引いた。

 当然だ。部外者に鍵を渡すなんて、規則違反に決まっている。


 けれど、わたしの口は止まらなかった。


「彼が、いなくなったんです。誘拐されかけて……それで、今朝、またいない。何の連絡もない。部屋も反応がない。警察にも伝えました。でも、あの子のことを……ちゃんと“本気で”探してくれる人なんて、いないかもしれない」


 声が震えていた。


「わたしが、探さなきゃいけないんです。あの子の担任です……けど、それだけじゃない。わたし……」


 言葉が喉でつかえた。


(教師、という立場を越えた想いを口にしてはいけない。わかってる。だけど……)


「……わたしにとって、大切な子なんです」


 管理人の表情がわずかに揺らぐ。

 でも、それでも口を閉ざしたまま、何も言わない。


(この人を動かせなかったら、もう何も掴めない)


「……あの子は、誰にも頼れないまま東京に出てきたんです。たった16歳で。夢を叶えるために、知らない街で、不安と隣り合わせで生きてるんです。それを……誰かが利用しようとしてるかもしれない」


 視界が滲む。

 それでも、わたしは目を逸らさなかった。


「お願いです、ほんの数分だけでいい。何か手がかりがあるかもしれない。もし私が勝手なことをして問題になるなら、それでもいい。あとでどんな処分でも受けます。でも――今、彼がどこかで泣いていたら、怯えていたら、助けを待っていたら――」


 わたしは、管理人の前で深く頭を下げた。


「お願いします……鍵を、貸してください」


 スカートの裾が風にふわりと揺れる。

 しゃがみ込んだ姿勢のまま、声を押し殺して懇願した。


 一瞬、沈黙が落ちる。


 やがて、管理人が無言で引き出しの鍵を開けた。

 金属音が静かに鳴る。


「……時間、あまり取れませんよ。

住民に見られたら、私も何を言われるかわかりません」


 その言葉に、わたしは顔を上げる。


「ありがとうございます。本当に、ありがとうございます」


 スペアキーを手に、わたしは再びあの部屋の前に立った。

 扉の向こうに、あの子の“今”が残されているかもしれないという希望を胸に――


 わたしはそっと、鍵を差し込んだ。


 カチャリ、と小さな音を立てて、扉が開いた。


 室内は、誰もいないはずなのに、わずかに生活の匂いが残っていた。

 昨日までここで真人が暮らしていたことを、空気が証明していた。

 洗面台にかけられたタオル、冷蔵庫の上の買い置きの飲み物、ベッドに残された微かなシーツの皺。


 足を踏み入れても、すぐには声が出なかった。

 あの子が毎朝目を覚ましていた場所に、わたしが勝手に入っていることが、なんだか場違いで――でも、そうするしかなかった。


 一つ一つ、確認するように部屋を歩いた。

 乱れた形跡はない。

 荒らされた様子も、明らかな異変もない。


(そんなはずない)


 整いすぎている。

 部屋の静けさが、逆に不気味だった。


 ふと、玄関の脇に目を向けた。


 ――あれ?


 靴箱の上、いつか二人で荷物を整理したとき、

 結局捨てられなかったツーショットを飾っていた写真たて。

 その、ガラスが……割れていた。


「……え?」


 近づいて、しゃがみ込む。


 フレームの角が斜めに傾いていて、薄く割れたガラスが斜めにひびを入れていた。

 触れた指先に、わずかな鋭さが返ってくる。


 写真は、私たちが禁断の関係であったころにとった写真。

 誰もいない公園で肩を寄せ合っている二人の男女。


(……落ちただけ? 風? 振動?)


 いや、そんなはずがない。

 そんな偶然が、よりによってこのタイミングで?


 わたしの胸に、冷たいものが染み込む。


 喉の奥が焼けるように痛い。

 怒りか、悔しさか、もしくはそれら全部が混ざって、息がうまくできない。


「――なんでよ……っ」


 声が漏れた。


「どうして、こんな形で……」


 わたしは、拳をぎゅっと握りしめた。

 ガラスの端が爪に引っかかって、かすかに血がにじむ。

 でも、それすら気づかない。


「守るって……言ったのに」


 喉の奥で、感情がつかえて溢れきれない。

 気づけば、額を膝に押しつけて、涙がぽたりと床に落ちた。


 本当に、大切にしたかった。

 教師として、女として、人として――それでも、守りきれなかった。


 誰にも言えなかったこの気持ちを、何ひとつ、言葉にできないまま、ただ「写真たての傷」だけが、静かにすべてを物語っていた。


(真人……ごめん……)


 今や、もう“取り返せるかもしれない”という地点は、

 とっくに過ぎていたのかもしれない。

 それにようやく、心が追いついた。


 そしてその“絶望”が、背骨を折るような重さでのしかかってきた。

 わたしはひとり、床に膝をついたまま、もう声も出せなかった。


 ◇


 玄関の扉が閉まる音が、いつもよりも重く響いた。


 わたしは小走りに靴を脱ぎ捨て、そのままリビングに鞄を投げ込む。

 学校には「家庭の都合でしばらく休みます」とだけ連絡を入れてあった。管理職への細かな理由など、もはやどうでもよかった。


 心の中には、言いようのない怒りが燻っていた。


(なんで……なんであの子が……)


 あんなに真っ直ぐで、誰よりも夢を語ることに誠実だった。

 未来を描くことを、笑顔で語れるあの子を――

 どうして、こんな世界が、こんな現実が……さらっていくんだ。


 拳を握る手に、かすかに震えがあった。

 でも、それは恐怖ではなかった。

 怒りと焦燥、そして――まだ間に合うかもしれないという、微かな希望。


(迎えに行く。絶対に、取り戻す)


 わたしは、クローゼットの奥からスポーツ用のバッグを取り出した。

 昔、まだ東京に出たばかりで、不安を埋めるように走っていた頃。

 ランニングにのめり込んでいた時期があった。

 その頃に使っていた装備たちは、わずかに埃をかぶりながらも、まだ整然と残っていた。


 まず、インナーのシャツとブラを脱いで、

 吸汗速乾性の高いスポーツブラに着替えた。

 包み込まれるような圧迫感とサポート力が、背筋を引き締める。


(わたしは“教師”を脱ぐ)


 そう思った。

 学校では生徒を導く立場であり、責任ある大人でなければならなかった。

 でも今から向かうのは、そんな、倫理も理性もきっと通じない場所――“あの村”。


 真人と笑いあっていたネットの噂話が脳裏をよぎる。

 信じたくない。

 だって、あの村には自分の両親も住んでいる。


 そして何よりわたし自身、村を出るまで何も問題なく暮らせたではないか。

 しかし、真人を攫ったのは十中八九、村の人間だ。

 もう疑いようのない事実として、わたしの前に立ちふさがっていた。


 足元がぐらつく感覚を太ももを叩いて気合いを入れ直す。


 次に、ランニング用のタイトなスーツを身にまとった。

 しなやかに身体に密着する感触に、わずかな違和感があった。

 しばらく着ていなかったせいかもしれない。

 けれどそれが逆に、自分の皮膚感覚を鋭く研ぎ澄ませていく。


(わたしは、戦うためにここに立ってる)


 ジャケット、短パン、厚底のトレイルランニングシューズ。

 村の道は整備されていないだろう。舗装された都市の歩道とは違う。

 木の根も、ぬかるみも、急な坂道もあるかもしれない。

 そんな条件を思い浮かべながら、膝と足首にサポーターを巻いていく。


 巻くたびに心が定まり、迷いが削られていく感覚があった。

 かつて、教師としての服を着たときに感じたような“背負うもの”とは、まったく違う。


 これは、わたし自身の意思で選んだ“戦闘服”。


(やるんだ)


 鏡の前に立った。

 そこに映っていたのは、教壇に立つときの穏やかな笑顔ではなかった。

 目の奥に静かな怒りと、かすかな涙の痕を湛えた、ひとりの女の顔だった。


 誰にも頼らず、誰にも委ねず、

“自分の手”で、大切な人を取り戻す覚悟を宿した顔。


 スマートフォンを鞄に入れ、財布、身分証、村へ向かうための交通手段とルートを確認する。

 もう時間はなかった。

 取り戻せる可能性のあるものは、すべて動き出してから考える。


「――真人。待ってて」


 部屋の鍵を手に取り、扉に手をかける。


「今度こそ、わたしが――助けに行くから」


 ドアが開いた瞬間、外の空気が肌に刺さるように冷たく感じた。

 けれど、その冷たさが逆に、体の芯に火を灯していく。


 覚悟はもう、とうに決まっていた。



 都内某所、ターミナル駅。


 朝のピークは過ぎていたが、それでも駅構内には人の波が流れていた。

 スーツ姿の会社員、スマホを覗き込む学生、旅行者らしきキャリーケースの音。

 コーヒーショップのカウンターからは、バリスタの掛け声と共にミルクの泡立て音が漏れていた。


 その中に――明らかに浮いている存在が、ひとり。


 わたしだった。


 ランニングジャケットにショートパンツ、トレイルラン用の分厚い靴に、膝のサポーター。

 一見、早朝ランニング帰りのようにも見えなくはない。


 きっと今のわたしはすごい顔をしているのだろう。

 何かを追いかけるような、あるいは失った何かを取り戻すために、

 今にも駆け出しそうな、強すぎる焦燥と緊張が身体の奥から滲み出ているのだという実感があった。


 すれ違う人々が、すこしだけ顔をしかめる。

 振り返る者もいた。


「ねえ、あの人……」

「あの格好でどこ行くんだろ」


 聞こえないふりをして、わたしは新幹線の改札へと向かった。

 視線なんて、どうでもよかった。

 ただ、早く――一分一秒でも早く、あの村へ辿り着くこと。それだけが目的だった。


 チケットは手配済みだった。

 金曜の午前中、空いている窓側の席。

 何年も前、帰省していたときに使ったルートを、まさかこんな気持ちで辿ることになるとは――。


 改札を通ると、ホームに吹き込む風になびくのは、身体に密着した機能性ジャケットの裾。


 座席に身を沈めた瞬間、ようやくわずかな静けさが訪れた。

 ポーチから水を取り出し、一口含む。

 冷たい水が喉を伝い、熱に近い緊張をほんの少しだけ鎮めてくれる。


 スマートフォンを開く。

 電源を入れたままでも、真人からの連絡は相変わらずなかった。

 その事実が、胸を刺す。


 通知欄のサムネイルに、彼が踊っていたステージの一枚が一瞬映る。

 消そうとして、指が止まった。


 窓の外には、都市の高層ビル群が流れていた。

 だがこの景色は、やがて山へ、川へ、そして霧深い山間の道へと変わっていく。


 わたしが向かうのは、忘れていた場所。

 思い出せない記憶が残る“村”。


 バッグの中から畳んだ地図を取り出す。

 その地図の端には、かつて自分が住んでいた村の名――『久邑くむら』が書かれていた。


 その地名を指先でなぞるように触れながら、

 わたしは無意識に遠くを睨みつけていた。


 ・


 ローカル線に乗り継いだのは、昼を少し過ぎた頃だった。

 本数の少ない小さな路線。ホームには地元の高校生らしき制服姿と、農作業帰りらしい男女がぽつぽつと座っていた。


 その中に、異物のようにわたしがいた。


 ジャケットの前を閉じ、目深にキャップを被っても、その場に馴染めていないのは明らかだった。

 肩にかけたスポーツバッグと機能性に徹した装備、張り詰めた気配が、ただの旅行者とはまるで違っていた。


 電車の車輪が鈍く軋みながら発車したころ、わたしはスマートフォンを取り出した。

 連絡するつもりはなかった――正確には、できなかった。

 でも、どうしても確認しておきたかった。


 両親に。


 村に住む父と母。

 あの場所に“いま”、本当にいるのか。

 真人が攫われたのが村の手の者だとするなら、父母が無事である保証はないかもしれない。


 スマホの画面を開き、連絡帳をスクロールする指先が少しだけ震える。

「母」という文字をタップする。


 ……コール音。


 ワン、ツー、スリー――

 何度目かの呼び出し音が遠ざかるように響いたあと、自動音声が無機質に応えた。


『この電話は現在、出ることができません。発信音のあとに――』


 通話を切った。


(……出ない)


 もう一度、今度は父の番号を押した。


『現在、電波の届かない場所に――』


「っ……」


 思わず唇を噛んだ。

 父はきっと村の中で作業している。電波の届かない山中で、何かをしているのかもしれない。

 母は――買い物か、誰かと話しているのか、ただの偶然かもしれない。


 けれど、“もしも”が喉元にこびりついて離れなかった。


 車窓の向こう、青く沈む山の稜線がゆっくりと動いていた。

 高く高く聳える山が、まるで村を守るようで――あるいは、閉じ込めているようにも見えた。


 電波はまだ通じていた。

 それなのに、世界が遠ざかっていくような感覚があった。


 あの日、逃げるようにして出た村に。

 そして、誰かを助けるために戻ることになるなんて、思いもしなかった。


 膝の上に置いた手が、いつの間にか強く握られていた。

 無意識のうちに、関節が白く浮き出ている。


 もう誰も、助けにきてはくれない。

 自分で選び、自分で守り、自分で責任を取る。


 窓の外に、見覚えのある駅名が流れていく。

 あと三つ先。そこからさらにバスを乗り継いで――久邑へ。


 息を整えた。

 今さら怖気づくわけにはいかない。


 スマートフォンの画面を伏せ、胸の奥で深く、静かに決意を燃やした。


 ・


 バスの窓際に座りながら、わたしは左手の肘を窓の縁にかけ、流れていく景色をぼんやりと目で追っていた。


 いつの間にか、電波は切れていた。

 それが“境界線”だったのかもしれない。

 スマートフォンを鞄に仕舞うと、胸の内が妙に静まり返っていくのを感じた。


 都会の喧騒からは、もうとっくに遠ざかっていた。

 ローカル線を降り、次の便まで一時間待たされたバス停で、私は自動販売機の水を買っていた。

 周囲には何もなかった。

 小さな待合所。錆びたベンチ。横には誰かが書いた「熊出没注意」の張り紙。


 昔、こんなところに何の疑問も抱かず暮らしていたなんて――

 信じられないような、でも間違いなく事実だった。


 バスは山道へ入るたび、エンジンをうならせながらギアを切り替える。

 くねるカーブ。せり出す斜面。ふいに姿を現す谷川。


 どこもかしこも、記憶の奥にうっすらと残っていた。

 でも、そこに重なるように浮かぶ“違和感”の正体は、たぶん、あの頃の私には見えなかったもの――


 目を閉じると、真人の顔が浮かんだ。

 笑っていた、あの日の彼。

 わたしの手を握って、未来を語っていた彼。


 それが今、どこか暗く湿った場所で、何をされているのかすら分からない。


(間に合わないかもしれない)


 その言葉が、何度も何度も喉の奥で膨らんで、そして飲み込まれる。

 でも――

(行かなきゃ。たとえ何があっても)


 バスの中には、他に乗客が数人だけ。

 農作業帰りのような老人たちが、互いにほとんど言葉も交わさず、ただ揺れに身を任せていた。

 私はその中で、妙に浮いていた。

 靴も、ウェアも、鞄も。何より、私自身が。


(あの子を救い出したい。ただ、それだけなのに)


 そんなシンプルな願いが、なぜこれほど重く、孤独なものなのか。

 わたしは、どこかで答えを知っている気がしていた。

 なぜなら、あの村は――もう、帰るべき場所ではないのだから。


 ふと、前方に見慣れた分かれ道の標識が見えた。


「久邑 3km」


 まるで呼び寄せられるように、山の緑が深くなる。

 濃くなっていく空気。光が届かないような影。

 木々の間から射す斜光が、うっすらと霧を照らしていた。


 まるで、異界へと踏み入れる儀式のように――

 私は、かつての“自分”へ、そして“まだ見ぬ闇”の中へ向かっていた。


 ・


 バスは山道を抜け、谷あいに降りていくように速度を落としていった。

 あたりの風景が、確実に変わっている。

 それは“時代”ではなく、“空気そのもの”が違っているような感覚だった。


 雑木林が急に深くなり、舗装された道路は苔と泥に縁を縁取られていく。

 人の手が入っていないわけではない。けれど、整備されているというにはあまりにも荒れていた。

 電柱はある。だが、その間隔はやけに広く、電線の張りも頼りなかった。

 民家らしき建物が点在していたが、ほとんどがシャッターを下ろしていたり、草に埋もれていたりする。


(……ここ、ほんとうに、かつて“住んでいた”場所?)


 胸の奥で、何かがざらりと鳴った。

 視界に映る田園風景。

 整地されていない畦道、土手の草が伸びすぎて車道にかかっている。

 時折、田んぼの水面が鈍く風に揺れていた。


 東京での暮らしとは、何もかもが違っていた。

 通勤時間の電車内では人と肩をぶつけずに立つことさえ難しいのに、ここでは数キロにわたって誰の姿も見えない。

 信号がない。コンビニも、ガソリンスタンドもない。

 喧騒も、光も、密度すらも、ない。


 あるのは、音のない緑と、時折鳴く鳥の声だけ。


 そんな風景のただなかに、自分がぽつんと置かれていることに、私は急激な不安を覚えていた。


 ――戻ってくるべき場所だったのか。

 ――本当に、私はここに来てよかったのか。


 心のなかに芽吹きはじめた“問い”を、かき消すように目を閉じる。


(いいえ、そんなこと言ってる場合じゃない)


 真人がいるかもしれない。

 この山の奥の、どこかに。

 わたしの知らない、あの“裏側”の村で。


 再び目を開けたとき、視界の先に――それはあった。


 山の木々がふっと割れ、橋と、苔むした石碑が見えた。

《久邑村 ようこそ》

 かすれかけた白いペンキの看板が、斜めに傾いて吊るされていた。


 その瞬間、喉がひゅっと細くなり、思わず息を呑んだ。

 足先から頭のてっぺんまで、冷たい液体をかけられたような感覚。

 呼吸の仕方すら、分からなくなる。


(わたし、いま、戻ってきたんだ――)


 橋の下を流れる小川は、濁ってはいなかった。

 それでも、その音すら耳には届かないほど、全身が硬直していた。


 バスはゆっくりと停車した。

 運転手が何か言ったが、耳に入ってこない。


 体が勝手に動いて、私は立ち上がる。

 ドアが開き、外気が流れ込む。

 ひんやりとした空気が、汗ばんだ肌を撫でていく。


 一歩、外へ踏み出す。


 土の匂い。

 緑の匂い。

 そして、かすかに――血のような、鉄のような、嗅ぎ慣れない匂い。


 ここから先は、何があっても不思議じゃない。

 笑い合う人もいれば、誰かが泣いているかもしれない。

 あるいは――誰かの命が、静かに終わっているかもしれない。


 私は、そんな世界へ、いま、自分の足で入っていこうとしている。


 ――真人を、取り戻すために。


 ・


 橋の袂に、わたしは立ち尽くしていた。


《久邑村 ようこそ》


 傾いだ看板が背後で風に揺れている。

 すぐ目の前には、村へと続く――一本の、長く、異様に静かな橋。


 コンクリート製の古い構造で、欄干の縁にはうっすらと苔が生えていた。

 細くはない。車が一台通れる程度の幅はある。

 それなのに、どうしようもない“細さ”を感じるのは、きっと気のせいではなかった。


(こんなに……長かったっけ?)


 橋の全長はせいぜい数十メートル。

 それでも、向こう岸に続く灰色のラインは、まるで地平線まで伸びているような感覚を抱かせる。

 風が吹いている。どこか生ぬるく、湿った風だった。


 橋の下には川が流れていた。

 濁ってはいない。けれど、透き通ってもいなかった。

 水面が見えないほど深いわけではないのに、目が届かない。

 まるで底そのものが、存在しないかのように、深く、黒く、流れている。


 誰かが一歩踏み外したら――すべてを飲み込んで、二度と返してはくれない。

 そんな気配が、ただ漂っていた。


 靴の底が、コンクリートの地を踏む。

 わずかな音が、異様に大きく感じられた。


 一歩。

 そして、もう一歩。


 橋を渡り始めたその瞬間から、世界の音が、少しずつ遠のいていく。


 風の音すら、耳に届かない。

 背中に貼りつく汗が、冷たさではなく熱を持ち始めていた。

 鼓動が、異常に速い。

 けれど、足は止まらない。


(真人……)


 思い浮かべたその顔が、唯一、わたしを支えていた。

 彼がいないこの場所に、わたしは何を求めて戻ってきたのか。

 いや――ただ、彼を助けたい。その一心だけだった。


 橋の中央に差しかかる。


 川面がぐっと近づいた気がした。

 手すりの間から見下ろすと、岸辺に誰かが立っているようにも見える。

 枯れ草か、岩か、それとも――想像でしかない。


 振り返ってはいけない気がした。

 もし、今ここで後ろを向いてしまったら。

 自分のすべてが壊れてしまいそうだった。


 視線をまっすぐ前に固定し、最後の一歩を踏み出す。


 橋の向こう側。

 そこには、静まり返った森のような道が続いていた。

 そして、見慣れたはずなのに、どこか様子の違う――“わたしの村”が、ぽつりと存在していた。


(久邑――)


 名前を心の中で繰り返したその瞬間、背後でふいに、風が止んだ。

 あたりの音が、すべて途絶えたように感じられた。


 わたしは、橋を――渡ってしまったのだ。


 かつての自分がいた世界から、戻る保証のない場所へ。


 ・


 橋を渡りきった先、わたしは小さく息をついた。


 視界が、急に閉じていくような感覚。

 背後には外の世界。

 前方には、木々と茂みと――そして“静寂”だけが、広がっていた。


 舗装されていない細道が、まっすぐ村のほうへ続いていた。

 けもの道ではない。かといって整備されているわけでもなく、

 土が剥き出しになった部分、コンクリートの剥げた破片、草に埋もれた側溝……

 どれもが、いま誰かが歩いていないことを告げていた。


 踏み出すたびに、靴の裏に湿った土の感触が伝わる。

 乾いたはずの空気が、なぜかまた、重たく肺にまとわりついてくる。


(音が……ない)


 虫の声。風のささやき。葉のこすれる音。

 それらが不自然に“整理された”ように、耳に届かない。

 村に向かって歩いているのに、なぜか深い森の中に迷い込んだような錯覚すらあった。


 歩を進めるごとに、何かが削られていくようだった。

 常識。

 規範。

 人としての感覚。


 そのときだった。


 ふと、右手のわずかに開けた雑木の隙間に――

 錆びた金属板が、木に打ちつけられているのを見つけた。


 視線が、そこに吸い寄せられる。


 近づいて、ぴたりと足を止める。


 それは明らかに“即席”で作られた、看板だった。

 廃材のような薄い鉄板に、白いスプレーのようなもので乱雑に書かれている。


《このさき日本国憲法が適応されません》


 文字は、恐ろしいほど不揃いだった。

 誰かの“手書き”であることは一目でわかる。

 遊びで書いたのか、警告のつもりなのか、それとも――冗談では済まされない“本音”なのか。


 わたしの背筋が、ぞわりと粟立った。


(……何これ)


 意味を飲み込もうとするほどに、頭が拒否をした。

 なぜ、こんな場所に。

 なぜ、この言葉を。


 誰が。

 いつ。

 何のために。


 手を伸ばすことすらためらわれた。

 まるでその金属板自体が、忌まわしい呪物であるかのような雰囲気を纏っていた。


「冗談……よね?」


 けれど、その場にいるのはわたし一人だけだった。

 問いを投げかける相手は、どこにもいない。


 背後から、風がひとつ吹き抜ける。

 橋の上とは違い、ここでは風の音が――異様なほど、重く響いた。


 わたしは目を逸らした。

 もう一度、村の方向へ顔を向ける。


(先へ進まなきゃ)


 心が警鐘を鳴らしていた。

 けれど、足は動いた。

 この先に、真人がいる。

 それだけが、わたしの足を突き動かしていた。


(ここは……本当に、わたしの“故郷”だったの?)


 問うように、そして答えを知ることを恐れるように――

 わたしは、看板の文字を背にして、村の喉もとへと踏み込んでいった。


 ・


 舗装がはげた道を進んでいくうちに、ぽつぽつと人家が見えはじめた。

 板張りの壁にトタン屋根。軒下に吊るされた農具。

 縁側に干された座布団や、洗濯物。

 そういったすべてが、まるで時間から取り残されたような“静けさ”に包まれていた。


(……ここまでは、まだ)


 普通だ。

 外から見れば、きっと「古き良き田舎」とでも言われるような、穏やかな風景。

 でもわたしの中では、もう何もかもが疑わしかった。


 真人がいなくなった。

 夢に見たあの少年の言葉。

 あの“憲法不適用”の看板。

 村の奥に、何かがある――それはもう確信に近いものになっていた。


 道端で草を刈っていた老人が、ふとこちらに顔を上げた。

 麦わら帽子の下、日焼けした頬にくっきりと皺が刻まれている。


「……ん?」


 一瞬、不審そうに目を細めたが、すぐにその表情がほころんだ。


「あれまぁ……神原さんのとこの娘さんじゃなかとね?」


 唐突な“日常”の言葉に、わたしの足が止まった。


「……え?」


「ほらほら、あんた。小さか頃、お父さんと一緒に神楽見にきとったろ。わしゃあ、あの時から顔忘れんとよ」


 記憶の底に、誰かの顔がかすめる。

 けれど、思い出せない。

 それでもこの老人は、心から懐かしそうに笑っていた。


「もう都会におるって聞いとったばってん、よう帰ってきたねぇ。……夏休みかね? それとも、お母さん具合でも悪かと?」


 わたしは何も返せなかった。


 頭の中では、真人の姿がちらついていた。

 ネットカフェで怯えていたあの顔。

 そして、マンションに残された割れた写真立て。


「……あの、すみません。急いでて……」


 言いかけて、わたしはその場から身を翻した。


「あぁ、すまんすまん、引き止めてしもうた。どこ行きよると? 車なら貸したるばい!」


 好意のこもった申し出だった。

 だけど、その親切さえ、いまのわたしには――遠すぎた。


(そんな言葉を投げられて、ありがたいと思えない自分が、いちばん嫌だ……)


 わたしは小さく頭を下げて、足早にその場を離れた。


 振り返ると、老人はまだこちらを見ていた。

 手を振るでもなく、ただ“見送っている”目だった。


 優しい目だった。

 でも、わたしの今を知らない。

 この村で何が起きているのかも、きっと知らない。


(この村には……“知らされない人たち”もいるのか?)


 それがむしろ、恐ろしかった。


 再度、真人と話し合った噂話が脳裏に浮かび上がった。

 九州の山間部で行われていた祈祷と呼ばれる儀式のことだ。


 笑いながら暮らしている誰かのすぐ隣で、

 誰かが消え、誰かが捧げられているかもしれない。

 それでも村は、変わらず“静か”でいられる。


 足が速まる。

 緑に埋もれるようにして続く道の先――

 わたしの実家は、もうすぐだ。


 ・


 道は、やがて少しだけ傾斜を登るようになった。


 木々の間から差し込む光は細く、揺れて、長くのびていた。

 舗装が消えかけたアスファルトに混じる砂利の音が、足の下でザリザリと乾いた音を立てる。

 背負った荷物がずっしりと肩にのしかかるたび、息が浅くなっていく。


 それでも、わたしは立ち止まらなかった。


 脳裏には、真人の顔。

 夢を語っていた、あの瞳。

 目をそらすたびに、鮮明に浮かび上がる。


(間に合わなきゃ、意味がない)


 汗が、背中をつたって下着に染みていた。

 湿度はそこまで高くないのに、なぜか肌に張りつくような不快さがあった。

 それも全部、この村の空気のせいだと思えてしまう。


 見慣れた道。

 ……だったはずの道。


 でも、こうして歩くのは何年ぶりだろう。


 村を出て十年以上。

 帰省らしい帰省は、一度もしてこなかった。

 記憶はある。けれど、曖昧なままだ。


 そうして、左手の先。

 木々の間から、唐突に開けた空間が見えた。


 胸の奥がきゅっと縮まる。

 足が、ふと止まった。


 そこに――あった。


 わたしの“実家”。


 濃い茶色の木板でできた、切妻屋根の平屋建て。

 土間へと続く引き戸の前には、古びたすだれが垂れていた。

 風に吹かれて揺れているそれは、かつて夏になると母が毎年新しく掛け直していたものだ。


 縁側には今も、錆びたアルミのたらいが置いてある。

 昔、よく祖母がそこで漬物を漬けていた。

 軒先には風鈴がひとつ――けれど、音は鳴っていなかった。


 まるで、わたしが帰ってくることを忘れてしまったかのように、

 そこは“止まったままの時間”の中で、じっと佇んでいた。


 けれど、その静けさは不思議と嫌悪ではなく、

 胸の奥に鈍い痛みと、説明できない違和感をもたらしてくる。


(……誰か、いる?)


 そんな気配はしなかった。

 けれど、空き家特有の放置された感じもなかった。

 敷地の草はそれなりに手入れされていて、郵便受けのあたりに無造作なチラシの束もない。


 なのに、窓はどこも閉じられ、カーテンも引かれたままだ。

 風もなく、虫の声すら遠くでしか聞こえない。


 目の前にあるのは、

 わたしが帰るはずの“家”――

 でも、そこには誰も迎える者はいなかった。


 わたしはそっと、拳を握った。

 玄関の敷石に、影が落ちていた。


 次に進めば、すべてが“始まってしまう”気がした。


 それでも、進まなければならない。

 真人を取り戻すために。


 この村の闇の奥へ、自分の記憶の奥へ――


 一歩、実家の門をくぐる。


 その音だけが、やけに重たく響いた。

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