湖水の上を歩き、岸辺でキャンプする-2
2人でシーカヤックの両端を持ち、護岸まで持っていく。護岸は斜面になっていて、その先は砂浜になっている。湖水に対してまっすぐシーカヤックを置く。クライブが艇を押さえている間にイヴはパドルを手に前のコクピットに収まる。少し前にシーカヤックを押し出し、半分浮いたところで続いてクライブもシーカヤックの後ろの席に収まる。そしてパドルの先端でイヴは湖底を、クライブは砂浜の砂地を突き、シーカヤックを押し出す。艇の底からゴリゴリと擦れる音がしたあと、シーカヤックは湖水に浮かび、滑るように前に進み始めた。
「うわあ」
思わずイヴは声を上げてしまう。視線が低いので、護岸から見ていた湖とはまた違う印象がある。そしてシーカヤックは左右に艇首を揺らしながら前に進む独特の動きがあるので、いつもと違うように見える。
湖の水は透明度が高い。透明度が高いのでパドルを射し込んでも先端までくっきり見える。パドルを伝って水滴が手に付く。冷たい。でも、それも気持ちがいい。もしここに逃げてこなければ一生体験することがない感覚だっただろう。
「どう?」
「気持ちいい!」
「湖面の上を歩く感覚さ。観光船ではこうはいかない」
SUVを停めた駐車場は観光船やトレッキング客のための駐車場だ。観光船は細長い湖の奥の方にその船影が見える。観光船は水から上に出ている部分が大きいので遠くからでも見えるが、一方のシーカヤックは水面から出ている部分が1メートルもない。なので事故防止のため目立つように旗を後部に揚げている。
「静か……」
パドルが水をかく音とクライブの息づかいが聞こえる。
風に乗ってか、観光船のエンジン音も聞こえる気がする。
「ちょっと氷に近づいてみようか」
クライブが言った。すぐ近くに大きな氷塊がある。氷塊はどうしてそうなったのか分からないが、アーチ状になっており、その間には湖水が通っている。観光船では不可能だが、そのアーチの下をくぐろうというのだろう。
「了解」
艇首を氷塊に向けて漕ぐ。後ろで微妙に針路を調整しているようだ。まっすぐアーチに向かってシーカヤックは進む。氷のアーチの高さは7~8メートルはありそうだ。
「どうしてこんなアーチができたんでしょうね」
氷河から分離して流されてきたというわけではなさそうだ。
「冬はあの高さまで湖面が凍るんだよ。そして雪が積もる」
「なるほど」
水の流れなどで溶けやすい部分だけが先に溶け、アーチになったのだろう。
慎重にパドルを使って前に進み、シーカヤックはアーチの下をくぐる。氷は青く見える。何故青いのだろうか。とてもきれいだ。氷の間近にいるからだろう、とてもひんやりとしたものを頬に感じる。
真下に至ってイヴは頭上を見上げる。太陽の光がアーチを構成する氷の端を通り抜け、アーチ全体が輝く。とても幻想的な光景だ。
「これ、今日のクライマックスでしょうか?」
「かもしれない」
クライブは苦笑した。こういうことはなかなかないらしい。
自然のままの湖岸が見える。湖岸は氷河が運んできたのだろう、大きくてごつい岩塊がゴロゴロしている。
「どこでキャンプするんですか?」
「氷河の真正面にある扇状地の端さ。とても眺めがいい」
地図を頭の上に思い浮かべるとかなり奥だと想像された。トイレからは遠い。
イヴはパドルを持つ手を休めて防水ケースに入れたスマホで現在地を確認しようとしたが、そろそろ電波が厳しい。繋がったり切れたりを続けている。
「もう携帯の電波は届かないよ。だから衛星電話を持って来ている」
「それはそうですね」
「現在位置を知りたければこっち。ハンディGPS」
振り返るとクライブが大昔の携帯電話のような形をした、液晶画面がついた機械を手にしていた。
「昔ながらの……ってやつですね」
「君は携帯の電波が届かないところで生活したことがないだろうから、新鮮だろうね」
確かにその通り。イヴはクライブからハンディGPSを受け取り、スイッチを入れる。MAPつきなので自分が今どこにいるかすぐに分かった。本当はこういう機器を使わないと自分の居場所はわからないものなのだ。スマホのすごさを改めて思う。
ポーテージ湖の奥に氷河があるのだが、そこまであともう4キロほどというところまできていた。3分の1くらいだ。これでは本当に散歩だ。
しかし湖水の冷たさを思えば、万が一にも沈をすれば低体温症で命に関わるのだから、この水上トレッキングも初心者には比較的難しい部類に入ることくらいはわかる。
後方からエンジン音が聞こえてきた。イヴが漕ぎながらちょっと振り返ると遠くに観光船が見えた。観光船はシーカヤックの100メートルほど脇まできて、甲板に大勢乗っている観光客がまちまちに手を振ってくれた。
「アロ~~」
イヴは調子に乗ってパドルを止めて、上に大きく上げる。
「あぶなっ!」
後ろのクライブとパドルが接触しそうになってしまった。
「ごめんなさい」
イヴはバツが悪い思いをしつつ、観光船の上にいる観光客を見る。様々な人種、様々な年齢の人たちが観光船の上で各々の休暇を楽しんでる。老夫婦もいれば若いカップルもいるし、家族連れもいる。
「観光船で氷河を見に行くんですね」
「観光船ならそれこそあっという間に着いてしまうよ」
観光船が遠く離れ、パドリングを再開する。
「でも、観光船では味わえないものをシーカヤックでは味わえますね」
「たとえば?」
「ゆっくりと、自分の力で進む達成感。人間はいろんなことができるって改めて思わされます」
「……それも確かにある」
クライブは言葉を濁した。
その理由は氷河の前まできて、すぐに分かった。
イヴの目に映る氷河は青かった。
険しい岩々を乗り越えてくる巨大な水の流れが瞬時にして静止したかのような氷河のダイナミックさに、イヴは圧倒される。とても大きい壁が、湖になだれ込むように、ただそこにある。幅は500メートルほどもあるのだろうか。
青い氷河とはよく比喩で言われるのだと思っていたが、本当に氷が青いのだとわかり、イヴはさらに感嘆した。
「……これを見ると人間ってちっぽけだと思いますね……」
「そう。所詮人間なんて、1個体の力なんて、たかが知れている。僕らは自然への畏怖を忘れてはいけないし、僕ら自身も自然の一部でしかないという思いを忘れてはならない。思い通りになると思ったら必ずしっぺ返しをくらう。だって僕ら自身も自然の一部なんだ。僕ら自身が自分の思い通りにならないのだから、より巨大な自然ならばなおのこと思い通りになんかなるはずがない」
「アメリカン・ネイティブや東洋の思想ですね」
一般教養としてイヴの中にそれらの知識はある。
「僕はクリスチャンだけどね、それらは別にキリスト教と何ら矛盾はしないよ。自然の偉大さの中に神の力も現れている……ただそれだけのことだ」
イヴはあまり熱心なクリスチャンではないのであまりその辺はこだわらない。ただ自分の目の前の圧倒的な力に畏敬の念を覚えるだけだ。それを神というつもりはないし、神だとも思えない。しかしその力を人間が無視してはならないと思う。
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