第4話 白い嘘、赤い告白
あの夜、私は震える手で名刺の裏を見つめていた。
“何かあったら、連絡して”
たったそれだけの言葉が、
今の私には救命具のように思えた。
藁にもすがる思いだった。
このまま、この家にいたら、
自分の名前すら忘れてしまいそうだったから。
電話の発信音はやけに長く感じられた。
耳元がしびれるような静けさ。
やがて、落ち着いた声が応答した。
「──帳です。菜月さん?」
私は言葉を絞り出した。
「……助けてください。
私……この家で……壊れそうなんです。
糸さんも、蝋も……
私を“リサ”と呼んで……
私じゃない誰かにされてしまう……!」
電話口の帳さんは、しばらく黙っていた。
沈黙が長すぎて、私は一瞬、また裏切られるのではと思った。
でも、帳さんは静かに、息を吸ってこう言った。
「……菜月さん。
その“リサ”という名前のことで、私にも……伝えておかなければならないことがあります」
**
「……僕は、リサさんと不倫をしていました」
頭が、真っ白になった。
「当時、彼女は既に糸くんと結婚していました。
でも、彼女は……僕のもとに来るようになった。
仕事の話だけじゃなかった。
家庭のことも、心のことも……
あの頃、彼女はすでに“糸くんの執着”に、心が蝕まれていたんです」
「……そんな……」
帳さんの声には後悔が滲んでいた。
けれど、それは同時に──“自分もまた壊した一人だ”という確信でもあった。
「菜月さん。
僕は“正義の人間”ではありません。
彼女を救えたわけでもない。
逃がしてやることもできなかった。
でも……今なら、あなたを見ていて、わかるんです」
「リサは、あの家で“存在を喪失していった”。
名前を消され、記憶を上書きされ、
彼女は最期、きっと自分の姿が何だったのかもわからなくなっていたはずです」
私は、手を口に当てて泣いた。
帳さんの言葉は、重かった。
けれどそれは、初めて“本当のリサ”がどう生き、どう消えていったのかを私に教えてくれた。
「──だからこそ、
今度こそ、あなたの名前を守りたい。
菜月さん。君が“君のまま”でいられるように」
その声だけは、
どこまでも真っ直ぐだった。
私がリサではないことを、
ちゃんと“信じている”声だった。
**
私はその夜、初めて少しだけ眠れた。
名前を呼ばれずに、
誰の記憶にもならずに、
“私”として泣けた夜だった。
◆―蝋視点
俺たちは、双子だった。
顔も、背格好も、似ていた。
けれど、違いもはっきりしていた。
兄貴──糸は、内向的で、繊細で、
とにかく感情が深くて、どこまでもひとりで沈んでいく性格だった。
だから俺は、代わりに明るく、軽く、
家のなかで“扱いやすい子ども”として振る舞った。
そうして、兄貴の分まで、両親の顔色を伺った。
──だけど、それは演技じゃなかった。
本気だった。
俺は兄貴が好きだったから。
この世のどんな人間よりも、兄貴が。
「俺たちは双子だろ? どんなときも一緒だよ」
「同じものを半分こするのが、当たり前じゃん?」
そう言って、食べ物も、誕生日のプレゼントも、
時には好きな子の話ですら、分け合ってきた。
でも、リサだけは、違った。
彼女は、兄貴の中で“絶対”になった。
あの日──
兄貴がリサを連れて無理心中をしようとした日。
俺は、リサを本気で恨んだ。
あんなに優しい兄貴を、
一番大切にしてきた兄貴を、
死なせようとした女。
でも、それでも──
兄貴はリサを手放さなかった。
死んでもなお、
“リサは自分と生きている”と信じていた。
俺にはわかっていた。
兄貴は、もう“リサの代わり”がいなければ、生きていけない。
それで──
菜月を連れてきた。
**
最初は、ただの“似てる女”だった。
けれど、近くにいればいるほど、
呼吸のリズムも、歩き方も、
兄貴の記憶と少しずつ重なっていった。
そうなるように、仕向けたのは俺だ。
服を選んだ。髪型を提案した。
言葉遣いも、性格も、兄貴好みに“調整”した。
だから菜月は、もう“菜月”じゃない。
──**“新しいリサ”**なんだ。
「兄貴が、これ以上壊れないように」
「兄貴が、元の兄貴に戻るように」
そのためなら、俺は何だってやる。
触れることも、縛ることも、
共有することさえ──痛みじゃない。
だって、俺たちは双子だから。
ひとつの壊れかけの記憶を、ふたりで維持するために生まれてきたんだから。
**
菜月。
ごめんな。
でももう、お前は“自由”じゃないんだ。
ここでは、
“俺と兄貴のために生きる人形”でいてくれればいいんだよ。
リサじゃなくてもいい。
でも、“リサとして振る舞う”ことで、
俺たちの世界はようやく保たれる。
だから、
逃げないでくれよ。
**
……そう呟きながら、蝋はひとり、
ロープの端を丁寧に巻いていた。
それはまるで、
兄と自分と、そして“失われた女”を繋ぐ、
儀式の準備のように。
俺は菜月の部屋に向かっていた。
いつものように、声もかけずに。
鍵はかけていないことを、もう知っていたから。
この家で“鍵をかける”という行為は、存在の拒絶になる。
それは許されない。
──でも、その日は違った。
扉の向こうから、誰かと話す声が聞こえた。
女の声。
……菜月の声。
震えてはいたが、どこか柔らかい響きが混ざっていた。
「──はい、大丈夫です……はい……」
電話?
一瞬、脳裏に“あの名前”がよぎった。
帳。
あの男か?
背中がざらりとした。
何かが、崩れ始めている。
俺たちの世界に、外の音が入ってきている。
それは許されない。
俺はそっと扉に近づいた。
菜月の声は、まだ続いていた。
でも──内容が急に途切れた。
「……!」
察したんだろう。
気づいたんだ、俺の気配に。
静寂。
張り詰めた、張り詰めた、
ピアノ線のような空気。
俺は、ゆっくりとノブに手をかけた。
**
「……誰と話してたの?」
開けてすぐの部屋には、
電話を隠すように立ち尽くす菜月の姿があった。
顔が青ざめている。
唇が震えている。
それでも、目だけは俺を見ていた。
拒絶じゃない。
でも、初めて“疑い”が浮かんでいた。
「……母から」
その嘘は、薄かった。
声の高さ、間の取り方、何もかもが不自然だった。
でも俺は笑って見せた。
「そっか。……寂しかった?」
彼女の肩がわずかに揺れた。
「……俺、いつもそばにいるのにな」
言いながら、
視線は彼女のベッドサイド──
──そしてそこに、見覚えのある“名刺”の端が覗いているのを見た。
帳。
あの男は、まだ近くにいる。
この劇場の観客でいようとしている。
なら、
幕が下りる前に、舞台を整えなくちゃな。
俺は、優しく言った。
「……今夜、ちょっと話そう。俺と兄貴と、三人で。
ちゃんと、リサ──じゃない、君のことを考える時間を作ろう」
菜月は、もう震えるだけで言葉を出せなかった。
でも、それでいい。
“話す”よりも、“聞いている”ほうが、
役割にふさわしい。
**
今夜。
この“知らない声”の痕跡を、
兄と二人で完全に上書きする──
それが、双子の“脚本”だった。
白いテーブル。
沈んだ照明。
その向かいに、同じ顔がふたつ。
でも、まったく同じではなかった。
糸さんの目は、虚ろだった。
魂のない深い湖。
どこか遠くを、永遠に探しているような眼差し。
蝋の目は、熱に浮かされていた。
優しさの皮をかぶった焰。
燃えていながら、誰も救おうとしない種類の火。
私は、そのあいだに座らされていた。
無言のまま、空気が皮膚に沈んでいく。
その沈黙を破ったのは、蝋だった。
「……もう、“菜月”って名前、捨てなよ」
言葉は柔らかかった。
でも、その意味は鋭利だった。
「兄貴、やっぱり菜月のこと、リサだって信じてる。
でも、名前だけが違うとね、いつまでも混乱しちゃうでしょ?
だったらさ、いっそ、捨てちゃえば楽になれるよ。
“菜月”でいるから、苦しいんだよ」
私は、黙っていた。
何も答えられなかった。
でも、次の瞬間──
ぽとり、と音がして、涙がひと粒落ちた。
**
捨てたくなかった。
名前は、私が私である証だった。
“リサ”として抱かれ、“リサ”として呼ばれ、
“リサ”として触れられ、
それでもここにこうしている私は、
“菜月”という名にしがみついて生きてきた。
でも今、
その最後の綱を手放せと、
この家の“舞台監督”が宣言したのだ。
私は、壊れかけた声で言った。
「……どうして……?」
蝋は笑った。
「だって、兄貴がそれを望んでるんだよ。
菜月としてここにいる限り、
君は兄貴の中の“失われた人”にはなれない」
「でも……私は……」
「大丈夫だよ。
君が忘れても、俺たちが覚えてる。
君の“リサとしての記憶”──兄貴が語ってくれる。
俺が補ってあげる。
そしたら、もう“君の人生”なんて必要ないでしょ?」
**
テーブルの上に、糸さんの手が動いた。
指が、糸をなぞるように、空を描いていた。
「……ほら、また、あやとりしよう。
あのときみたいに……“赤い橋”を結ぼうよ、リサ」
私は、
その時、自分の喉が音を拒否しているのを知った。
叫べない。
名前を呼ばれないまま、
私は、“誰でもない誰か”になろうとしている。
**
でも、そのなかで、
たしかに残ったものがあった。
──涙。
それはまだ、
“私が私でいたかった”という証だけは残っているという最後の灯だった。
消さない。
まだ、消せない。
この涙があるうちは──
まだ、“私”は終われない。
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