【第I幕:芽吹きの予感】

第1話「“やばい”で済ませないために」

「マジ、やばかった……」


また言ってしまった。

テストの結果を見た瞬間に口から出た言葉は、まるで反射みたいだった。


放課後の教室。陽が傾いて、教室の隅に長い影が落ちている。

窓から入ってくる春の風が、カーテンをふわりと揺らす。

なのに、僕の中だけは、空気が止まったままだった。


数日前の数学のテスト。結果は赤点スレスレ。

あのときも、同じ言葉が口をついた。「やば……」って。


どうして僕は、どんなときも“やばい”で終わらせてしまうんだろう。


悔しい。

でも「悔しい」って言葉を使うには、ちょっと恥ずかしい。

悔しいだけじゃない。焦りもあるし、情けなさもある。

もしかしたら、どこかで「またか……」ってあきらめてる自分もいる。


だけど、そんな複雑な気持ちは、すべて“やばい”に押し込められて、

口を出るころには、もう薄っぺらくなっている。


──ことばが、足りない。

というより、僕には、ことばをちゃんと選ぶ力がないんだ。


「やばい」って言えば、それで終わる。

便利だけど、怖い。

“本当の気持ち”から目をそらしてしまえるから。


僕はうつむいたまま、机の縁をぼんやりと指でなぞっていた。

ふと、ポケットのスマホが震える。


「AICO:新しい語彙サポート機能が起動しました」

「現在の気分を、ことばに変換しますか?」

「例:『今日の気持ちをリライトして』」


──リライト、ね。

ちょっとダサい。でも、どこかでその言葉に惹かれている自分がいた。


試しに打ってみる。


【今日の気持ちをリライトして】


画面に、すぐに文章が返ってきた。


「焦りと無力感が交差して、胸の中でじりじりと音を立てているようです。」

「だけど、それを表に出すのが怖くて、あなたは“やばい”という曖昧な言葉で包みました。」


……図星だった。

一瞬、心臓がどくんと跳ねた。


「なんだよ、うっざ……」


つぶやいた声は、自分でもわかるくらい震えていた。

ムカついたわけじゃない。むしろ、ドンピシャだった。

でも、だからこそムカつく。

言い当てられた自分が悔しい。

それに、僕より僕の気持ちを理解してるみたいで、腹立つ。


「“やばい”には、いくつかの感情が混ざっています。

焦燥・後悔・羞恥・諦め。

この中から、もっとも強いものを選びますか?」


「……焦燥、かな。」


気づいたら、そう答えていた。

“焦燥”って、こんな中学生が使うような言葉じゃない。

でも、なぜかその言葉は、ぴたりと胸に貼りついた。


AICOが続けた。


「では、以下のようにリライトできます。」

「“今日の僕は、焦燥感で喉がつまるようだった。何かしなきゃと焦るのに、体は机に縫い付けられたみたいだった。”」


──まるで、自分の感情が誰かの手で翻訳されたみたいだった。


「……こんなの、俺の言葉じゃない。」


そう言ったはずなのに、

目の奥が、じんと熱くなるのを感じた。


たしかに、これはまだ“僕の言葉”じゃないかもしれない。

でも、僕の中に確かに“あった”感情だった。

それを言葉にされた瞬間、心の中に、何かが芽を出す音がした。


──ことばって、選び直すことができるんだ。

たった一語が、何も言えなかった自分を、少し変えてくれる。


その夜、僕はノートを開いて、

自分の一日を“やばい”を使わずに書いてみようと思った。


それが、僕の“語彙成長日記”の、最初の一ページだった。


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