第26話
深夜の店内に流れるのは、桜井さんが選んだらしい、古いジャズのレコードの、少し掠れた温かい音。
俺は気分転換にカウンター席に座り、読みかけの文庫本を開きながらも、その心地よい音の空間に身を委ねていた。
「うーん、やっぱり難しいわねぇ……」
カウンターの向こうで、桜井さんがエスプレッソマシンとミルクピッチャーを手に、首を傾げている。
どうやらラテアートの練習をしているらしい。カップの表面には、ハートになり損ねたような、曖昧な白い模様が浮かんでいる。
一ノ瀬さんは、その様子をいつもの眠たげな瞳で眺めながら、グラスを磨いている。その表情からは、特に興味があるのかないのか、いつものことながら読み取れない。
「聖玲奈も試してみない? 気分転換になるかもしれないわよ」
桜井さんが、悪戯っぽく笑いながら一ノ瀬さんに声をかけた。
一ノ瀬さんは、磨いていたグラスを置き、ほんの少しだけ考えるような間を置いてから、「……別に。興味ない。そういう表面的な装飾」といつも通りのクールな声で答えた。
しかし、桜井さんは諦めない。
「でも、聖玲奈なら、何か面白い『音の形』を生み出せそうな気がするのよね。ほら、佐伯君もちょうど飲み終わったところみたいだし、一杯、彼のためにデザインしてみたらどうかしら? 私のおごりで」
俺に話が振られるとは思わず、少し驚く。
一ノ瀬さんは、俺を一瞥すると、ふい、と顔をそむけた。
「……や、別に。やってもやらなくてもバイト代同じじゃん」
Z世代すぎる回答だな!?
「まあまあ、そう言わずに。佐伯君も、聖玲奈の作る『特別な音のラテアート』、飲んでみたいでしょう?」
「そうですね」
桜井さんの言葉に、俺は思わず頷いてしまった。一ノ瀬さんの作るものなら、それがどんなものであれ、興味がないわけがない。
「……ん。やる」
一ノ瀬さんは、コクリと頷いて桜井さんの立ち位置を奪った。
「素直なんだか素直じゃないんだか」
桜井さんはニヤニヤしながら俺達を見てくるが、一ノ瀬さんは既にゾーンに入ったような真顔でカップを見つめていた。
彼女は、桜井さんからミルクピッチャーを受け取ると、エスプレッソの入ったカップと向き合った。その所作は、普段の省エネモードが嘘のように、真剣で、まるで難解な楽曲に取り組む作曲家のような、そんな緊張感を漂わせている。
俺と桜井さんは、固唾を飲んで彼女の手元を見守る。
数分後、一ノ瀬さんは、完成したらしいカフェラテのカップを俺の前に置いた。
その表情は、いつものクールな仮面の下に、ほんの少しだけ、達成感と、それから一抹の不安が混じったような、そんな人間らしい音を隠している。
「……はい。できた」
差し出されたカップを覗き込むと、そこには……ハートでもリーフでもない、何というか、白いミルクの泡で描かれた、一本の、鋭く、そしてどこか途切れたような線と、その周囲に散らばるいくつかの小さな点が、抽象画のように浮かんでいた。
「これ……は?」
俺が戸惑いながら尋ねると、一ノ瀬さんは少しだけ胸を張るようにして言った。
「……『静寂を切り裂く不協和音と、その残響』」
「……え?」
「だから、このラテアートの題名。これは、従来のラテアートの出す、ありきたりな調和の音に対する、私なりのアンチテーゼ。計算された線の乱れと、意図的な点の配置が、見る者の固定観念という名のノイズを破壊し、新たな音の地平を提示するの」
彼女は、よどみなく、しかしどこか早口でそう説明した。その真剣な眼差しは、これが冗談ではないことを物語っている。
俺は、そのあまりに独創的なラテアートと、さらに独創的な解説に、言葉を失った。
桜井さんは、カウンターの向こうで、必死に笑いを堪えているのが肩の震えで分かる。
「……どう?」
一ノ瀬さんが、俺の反応を窺うように、じっと見つめてくる。
俺は、カップの中の「作品」ともう一度向き合った。確かに、ハートや動物の形ではないけれど、そこには、一ノ瀬聖玲奈という人間の、複雑で、繊細で、そしてどこか尖った「音」が、見事に表現されているような気がした。
「うん……すごく、一ノ瀬さんらしいよ」
俺が素直な感想を言うと、一ノ瀬さんの表情が、ほんの僅かに、本当に僅かにだが、和らいだように見えた。
「……ん。でしょ?」
彼女はそう言って、カップの持ち手から指を離そうとした。
ほんの少しだけ、彼女の指先が震えたのが、俺には分かった。
そのせいで、カップの中の「不協和音」が、僅かに揺らぎ、白いミルクの点が一つ、線の軌道から外れてしまった。
「あ……」
一ノ瀬さんが、小さな声を漏らす。
俺は、その揺れたカップを倒してしまわないように、とっさに手を伸ばし、カップの縁に添えられていた彼女の指先に、自分の指を重ねるようにして、そっと支えた。
「……っ!」
彼女の指先が、驚いたように固まる。俺の指先に伝わる、彼女の指の細さと、ほんのりとした温もり。
至近距離で、俺たちの視線が絡み合った。
彼女の大きな瞳が、驚きと、それから、今まで見たことのないような、深い動揺の色を浮かべて、俺を映している。
「……ちょっとだけ、水面が心とリンクしてる」
彼女は、小さな声でそう呟くと、すぐに俺の手から自分の指を引き抜き、顔を赤らめてそっぽを向いた。
でも、その声には、いつものような拒絶の響きはなかった。
俺は、心臓が妙に速い音を立てているのを感じながら、目の前の「静寂を切り裂く不協和音と、その残響」と名付けられたカフェラテを、ゆっくりと一口飲んだ。
味は、いつもの「月読」の、美味しいカフェラテだった。
一ノ瀬聖玲奈という人間は、本当に、一筋縄ではいかない音の持ち主だ。そして、その音に触れるたび、俺の心は、どうしようもなく惹かれていく。
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