第19話
いつものように「月読」のドアを開けると、カウンターの向こうで一ノ瀬さんがカップを磨いていた。
その手つきは相変わらず静かで、店の落ち着いた空気と完全に調和している。ただ、今日の俺は、その調和の中に少しだけ不協和音を持ち込んでしまっている自覚があった。
ここ数日はまたプロジェクトが火を噴いており、睡眠時間も不規則だったのは事実だ。
「……いらっしゃい」
低く感情の読みにくい声。入店した瞬間は無表情だった一ノ瀬さんは俺を認識すると押し殺した感情が漏れ出たように口元だけでにやりと笑った。
俺がいつもの席に座ると彼女はコーヒーを淹れながらもちらりと俺の顔を見た。
そして、淹れ終わったコーヒーを俺の前にことりと置いたその音も、いつもより僅かに、本当に僅かにだが柔らかい気がした。
「……佐伯さんの音、そろそろ本格的に調律し直した方がいいんじゃないの?」
唐突に、彼女が言った。
「そ、そうかな……?」
「ありていに申し上げるなら、疲れてそう」
「佐伯さん、疲労おっぱいでしょ?」
「ん? 今、変なこと言った?」
「疲労困憊って言ったんだよ。変な言葉が聞こえたんなら、やっぱり疲れてるんだよ」
一ノ瀬さんはふふっと笑いながら俺の質問を受けながした。いや、本当に俺の耳がおかしかったのかもしれない。
「そんなに酷いかな……まあ、否定はしないけど」
俺が曖昧に笑うと、彼女は小さく息を吐いた。その音には、呆れとも諦めともつかない、複雑な響きが混じっていた。
「……あのさ、佐伯さん。ヘッドホンのお礼、まだだから……」
「あ、うん。別に急いでないよ」
「じゃ……今度の週末、空いてる?」
突然の提案に、俺は少し驚いた。週末、一ノ瀬さんと?
「え? 週末? 空いてるけど……何かあるの?」
「……そう。じゃあ、土曜の午前10時。そこの駅の改札に集合ね」
彼女はそれだけ言うと、またカップを磨く作業に戻った。その横顔からは、何を考えているのか読み取れない。
「別に、期待するほどの価値のある場所じゃないよ。過度な期待は禁物。ちょっとした、些細な、たいしたことない、気持ちばかりのお礼だから」
予防線をこれでもかと張ってくる言葉の裏に何かがあるような気がして、週末が少しだけ待ち遠しくなった。
◆
約束の土曜日。俺は指定された駅の改札前で、少しだけそわそわしながら一ノ瀬さんを待っていた。やがて現れた彼女は、ゆったりとしたシルエットのワンピースに、いつものヘッドホンを首から下げていた。
「……待った?」
「いや、今来たとこ」
「ん。テンプレ会話の実績解除。じゃ、いこっか?」
短い会話の後、俺たちは無言で電車に乗り込んだ。彼女がどこに連れて行ってくれるのか、俺はまだ知らない。
電車に揺られること1時間。辿り着いたのは、都心から少し離れた、静かな路地裏に佇む「足湯カフェ」だった。
古い日本家屋を改装した趣のある店で、看板も小さく、知らなければ通り過ぎてしまいそうなほど控えめなその場所は、しかし、一歩足を踏み入れると、計算され尽くしたような静けさと、心地よい「間」の音に満ちていた。
庭には小さな源泉かけ流しの足湯があり、微かにハーブの香りが漂ってくる。水の流れる音、時折聞こえる風鈴の音、遠くで囁くような葉擦れの音。その全てが、絶妙なバランスで調和していた。
「……すごくいい場所だね」
俺と一ノ瀬さんは、ベンチに並んで腰掛け足湯に足を浸した。じんわりと温かさが広がっていく。思わず、深いため息が漏れた。
「……でしょ? リラックスするのにすごくいいよね」
一ノ瀬さんが、庭を見ながら静かに言った。
「うん。すごく落ち着く。ありがとう、一ノ瀬さん。こんな場所よく知ってたね」
「ん。めちゃくちゃググった。初めて来たけどいいところだよね」
一ノ瀬さんがそう言った直後、背後からスタッフのおばさんが「あら! また来てくれたのね!」と話しかけてきた。
振り向いた一ノ瀬さんは顔を引きつらせながら俺を手で差し、「ゆ、友人です……」とおばさんに言った。
おばさんは何かを察したようににやりと笑うと「ごゆっくり~」と言って俺達から離れていった。
「や……実は二回目。ちょっと前に1回、下見で来てたんだよね。前は一人だったから気を使ってすごい話しかけてくれて。その時に仲良くなっちゃったんだ」
照れ隠しに肩をすくめた一ノ瀬さんが言う。
「一ノ瀬さん、変なところでかっこつけるじゃん。下見してたのを隠してたなんてさ」
からかわれた一ノ瀬さんは頬を膨らませ「もー!」と言いながら俺の肩をたたいてきた。
◆
足元から体温が十分に温めたり、部屋で寝ころんだり、また足湯に入ったりとダラダラと過ごすこと数時間。
最後にしようと一ノ瀬さんと示し合わせて浸かった足湯から上がり、備え付けのタオルで足を拭いている時だった。一ノ瀬さんが濡れた石畳で僅かに体勢を揺らした。
バランスを崩したというほどではない、本当に微かな揺らぎ。
「おっと……」
それでも俺は、反射的に彼女の腕を軽く支えていた。
「大丈夫?」
「……ん。平気」
一ノ瀬さんはすぐに体勢を立て直した。
「ありがと。ここで転げたら頭がスイカみたいに木っ端みじんになってたよ」
彼女はそう言って、俺の手からするりと腕を抜いた。
「そんなグロいことが起こるの!?」
一ノ瀬さんは無表情のまま俺の手が触れた腕を一瞥するが、表情はほとんど変わらない。ただ、ほんの一瞬、その大きな瞳が俺の手を捉え、何かを思考するような静かな間があった。
「……余計な音は、立てない方がいい。テンポが速くなっちゃう」
彼女は静かにそう告げた。その声はいつもより数倍優しくてフニャフニャとした声だった。
◆
すっかりリフレッシュした俺と一ノ瀬さんは、足湯カフェからカフェをハシゴ。電車に乗って最寄り駅まで戻ってきて帰り道を並んで歩いている頃にはすっかり暗くなっていた。
日はとっぷりと暮れ、街灯が二人を静かに照らしている。俺は、心身ともに軽くなったのを感じていた。
「今日は本当にありがとう、一ノ瀬さん。すごく、楽になったよ。お礼、しっかり受け取った」
「……そう」
一ノ瀬さんは短く応えた。
その時、彼女がふと立ち止まった。俺もつられて足を止めると、彼女はゆっくりと俺に向き直る。夜の光の中ではっきりとは見えないが、その佇まいは静かで、何か特別な気配を纏っているように感じられた。
「……ヘッドホンの件、あれは本当に助かった」
一ノ瀬さんが、静かに、しかしはっきりとした声で言った。
「あの音じゃないと、私の思考がクリアにならないから。あれは、必要な音だった」
俺が何か言葉を返そうとする前に、彼女はすっと一歩近づいてきた。そして――
戸惑う俺の腕を、彼女の細い指が、ほんの僅かな力で掴んだ。引き寄せられる、というよりは、そっと手招きされるような仕草。
次の瞬間、彼女はほんの少しだけ背伸びをして、俺の頬に、ごく自然な、ためらいのない動作で、軽く唇を触れさせた。
それは本当に静かで、あっという間の出来事で、まるで夜風が頬をそっと撫でていったかのような、淡雪が触れたかのような感触だった。
驚きと、それ以上の何かで、俺は完全に思考を停止させていた。
彼女はすぐに数歩下がり、いつもの落ち着いた表情で――しかし、どこか遠くを見るような、ほんの少しだけ潤んだような瞳で――俺を見ている。
「……これで、貸し借りなし」
一ノ瀬さんが、静かに告げた。
「お礼はこれで完了。……それ以上の意味もそれ以下の意味もないよ。ただの等価交換の記録。そういう音として処理して」
そう言い終えると、彼女は「じゃ、またね。今日はありがと」と呟き、自分の帰る方向へ、いつもと変わらないゆったりとした猫のような足取りで歩き出す。
その背中からは、感情の大きな揺れは読み取れない。けれど、街灯の光に照らされた彼女の耳が、ほんの僅かに赤みを帯びているように見えたのは、果たして俺の気のせいだったのだろうか。
俺は、頬に残る微かな温もりと、石鹸のような、彼女自身の清潔な香りに包まれながら、しばらくその場に立ち尽くしていた。
彼女の言う「等価交換」という言葉の奥に隠された、計り知れないほどの何か。どれだけ難解な曲よりも解釈が難しい一ノ瀬さんの行為に頭を抱える。
静かで、でも確かに心に響く「音」の余韻に、俺は週末の終わりの夜風の中で、長く、長く浸っていた。
―――――
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