第6話
週の半ば。降り積もるように溜まった仕事のせいで、俺の肩には、まるで鉛でも乗っているかのような重い疲労感がのしかかっていた。
思考回路はショート寸前。今すぐ(甘いものを)食べたいよ。
こんな日に必要なのはカフェインではなく糖分だ。とにかく甘いものを摂取しなければ、この危機的状況を乗り越えられそうにない。
深夜まで長引いた残業の後、そんな俺の足がまるで磁石に引かれる砂鉄のように自然と向かうのは、いつものカフェ「月読」だ。
カラン、とドアベルが心地よい音を立てる。
「……いらっしゃい」
カウンターの奥から、眠たげな、それでいてどこか全てを見透かしているような大きな瞳の店員、一ノ瀬さんが顔を上げた。
小さく手を振りながらほほ笑んでいる。少しだけ目も細くなって前よりも笑顔の割合が増えてきているのは気のせいじゃないんだろう。
相変わらずの省エネモードな接客だが、それがもはや俺にとっては、日常に溶け込んだ安心できる風景の一部と化している。
「どうも」
俺は軽く会釈して、いつもの窓際のテーブル席……ではなく、今日は少し気分を変えて、カウンター席に腰を下ろしてみた。オーナーの桜井さんの姿は見当たらない。今日は一ノ瀬さん一人で店を切り盛りしているのだろうか。
「ご注文は?」
一ノ瀬さんがメニューをカウンターに置きながら尋ねてきた。彼女が差し出したメニューの片隅に、「本日のおすすめ:季節のフルーツタルト」という魅惑的な文字列と、宝石のようにフルーツが輝く写真が目に飛び込んできた。
「お、これいいね。今日は甘いものの気分だったんだ。この新作タルトと、ブレンドコーヒーで」
「…………」
俺の注文を聞いた一ノ瀬さんは、なぜかぴたりと動きを止め、黙り込んだ。じっと俺の顔を見つめてくるその視線に、思わず顔に何かついているだろうか? と内心焦ってしまう。
「どうかした?」
「……それ、今の佐伯さんの気分とは多分合わない。不協和音」
「え?」
不協和音? スイーツと俺の気分が? 一ノ瀬さんの言葉は時々、こちらの予想の斜め上をいくが、今日の指摘もなかなかの角度だ。
「不協和音って……まあ、見た目も華やかだし、お腹も空いてるし。今日はこれにするよ」
俺がそう言うと、一ノ瀬さんはふい、と小さく鼻を鳴らしたように見えた。いや、微かに口角が上がった…ような?
「……ふーん。ま、どうしてもって言うなら」
この店は注文をしても「音」が理由でそれが通らないことがあるらしい。それもまた一興、といったところだが。
どこか面白がっているような、あるいは「後で知らないからね」とでも言いたげな、からかうような表情を浮かべて、彼女はカウンターの中に戻っていく。その小さな背中が、いつもよりほんの少しだけ楽しそうに揺れているように見えたのは、きっと俺の気のせいではないだろう。
今日の疲れはいつもより質が悪く、身体がずっしりと重く感じる。それこそ「音」が悪いとでも言いたくなる気分だ。
他に誰もいないため小休憩も兼ねてカウンターで突っ伏する。
しばらくすると、一ノ瀬さんがタルトとコーヒーを運んでくる足音が聞こえた。
コーヒーが置かれる音はせず、俺の頭に手が載せられた。そのまま優しく頭をなでられて寝落ちしそうに――一ノ瀬さんが撫でてる!?
慌てて顔を上げると、一ノ瀬さんはにやりと笑って俺の頭から手を離した。
「ちょうどいいところに頭があった」
「その割には身体がだいぶ前のめりになっていた気がするけど」
「ふふっ……そうだった? はい、どーぞ。ご希望の『不協和音』セット」
テーブルにトン、と少し意地悪っぽく置かれたタルトは、写真で見た以上に魅力的だ。甘酸っぱいフルーツの香りがふわりと鼻腔をくすぐり、食欲をそそる。
「お、ありがとう。美味しそうだ」
俺がフォークを手に取ると、一ノ瀬さんはすぐにはその場を離れず、俺の様子をじっと観察している。まるで、これから始まる実験の結果を待つ科学者のような眼差しだ。
「な、何?」
「別に。どんな音がするか、あとで感想聞かせてね」
そう言って、彼女は俺の前から離れていった。その去り際の横顔に浮かんだ、ほんのわずかな笑みがやけに気になった。
一口、タルトを頬張る。
サクサクとした香ばしい生地、上品な甘さのカスタードクリーム、そして瑞々しいフルーツのフレッシュな酸味。うん、文句なしに美味しい。美味しいんだけど……。
「…………」
フォークを持つ手が、自然と止まってしまう。
確かに、今の俺の、この疲れ切った心と体が求めているものとは、何かが、決定的に違う。もっとこう、脳髄が痺れるくらい濃厚でヘビーなチョコレートケーキとか、あるいは逆に、疲れた胃にも優しい、つるんとした喉越しのシンプルなゼリーとか……。
今の俺が心の底から欲していたのは、この華やかで繊細な、ある意味「優等生」な甘さではなかったのかもしれない。
「うそだろ……?」
一ノ瀬さんの指摘が、あまりにも的確すぎた。
俺は呆然としながら一ノ瀬さんの方を見た。彼女はカウンターの中で、何事もなかったかのようにグラスを磨いている。
しかし、その口元が、やっぱり微かに綻んでいるのを、俺は見逃さなかった。絶対にこっちの反応を見て楽しんでいるに違いない。
「ちょっ……一ノ瀬さん」
俺が声をかけると、彼女は「ん?」とゆっくり顔を上げる。その澄んだ瞳が、俺の心の奥まで見透かしているようで、少し居心地が悪い。
「なんで分かったの? 今の気分と合わないって」
「別に。なんとなく、そういう濁った音がしたから」
そう言って、彼女は少し得意げに小さく胸を張ったように見えたが、すぐにいつもの無表情に戻り、「……なんてね。ただの勘だよ」と照れ隠しのように付け加えた。
「音、ねぇ……」
またその「音」か。彼女には本当に、俺たちには聞こえない何か特別なものが聞こえているのだろうか。
「美味しいのは美味しいんだ。ただ、なんていうか……こう、もっとガツンとくるのが欲しかったというか……」
俺がしどろもどろに言葉を探していると、一ノ瀬さんはふっと息を吐いた。
「ま、そういう日もあるでしょ。選んだものが気分とズレるなんて、よくあるノイズだよ、ノイズ」
その言い方は相変わらずぶっきらぼうだが、どこか「仕方ないなあ」とでもいうような、優しい響きもあって、俺は少しだけ拍子抜けする。
「ま、口直しにガツンと甘いココアでも作ってあげるよ。サービス。それ飲んで、少しはマシな音になりなよ」
一ノ瀬さんはそう言うと、手際よく湯を沸かし始める。
「冷たいやつがいいな」
「ん。分かった」
その横顔は真剣で、先ほどのからかうような雰囲気は消えている。そして、アイスココアを用意する手つきは、まるで大切な何かに触れるように丁寧だ。こういうところが、彼女のずるいところであり、目が離せない魅力でもある。
やがて、一ノ瀬さんが淹れてくれた激甘ココアが目の前に置かれた。カカオの香りが、ささくれ立っていた神経を優しく包み込んでくれるようだ。
カップを受け取る際、ほんの少しだけ彼女の指先が触れた。温かくて、柔らかい感触に、思わず心臓が小さく跳ねる。一ノ瀬さんも一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐにぷいっと顔を背けてしまった。
「ありがと」
「どういたしまして。ま……別に、仕事だから。でも、少しは元気出たかな?」
最後の一言は、蚊の鳴くような小さな声だったが、確かに俺の耳に届いた。
「うん、おかげさまで」
俺がそう答えると、一ノ瀬さんは安心したように、ふっと小さな息をついた。その仕草が、なんだかたまらなく愛おしく感じられた。
ココアに含まれる成分なのか、単純に糖分が足りていなかったのかわからないが、ささくれ立っていた心が穏やかに凪いでいく。やっぱり、今の俺にはこっちの「音」がしっくりくる。
一ノ瀬さんの言う「音」は、単なる勘や気まぐれなんかじゃない。きっと、俺にはまだ理解できない特別な感覚で、人の心の機微のようなものまで繊細に感じ取っているんじゃないだろうか。
そして、あのぶっきらぼうで素っ気ない態度の裏には、時折こうして、不器用ながらも温かい優しさが顔を出す。そのギャップに、俺はますます彼女のことが気になってしまうのだ。
そんなことを考えている自分に気づき、思わず苦笑が漏れた。あのクーデレ店員の、ちょっと辛辣だけど的確な「音」の診断が、少しだけ楽しみになっているなんて、俺も相当どうかしている。
時計の針はいつの間にか日付をまたいでいた。俺はもう一杯、彼女の淹れた優しい「音」のココアを味わうことにして、ゆっくりとグラスを傾けた。
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