「図書委員長の私が異世界に転生した件」

星野 暁

第1話 図書室の不思議な本

 放課後の図書室は、静かだった。

 いや、もともと静かにする場所なのだけど、今日の図書室は、特にひときわ――。


 「……やっぱり、ここが一番落ち着くな」


 図書委員の**紬(つむぎ)**は、誰もいない書架のすき間で、ほっと息を吐いた。

 メガネの奥で、真面目そうな瞳がふっと和らぐ。


 友達は少ないし、おしゃべりも得意じゃないけれど、本の中なら安心できる。

 文字の並びを目で追っていると、不思議と頭がスッキリして、心まで穏やかになるのだ。


 「よし、今日も整理の続き……っと」


 紬は制服の袖をまくって、奥の書架に手を伸ばす。図書室には、まだ誰もいない。

 机には『図書委員活動記録』が置かれ、記録係の仕事を淡々とこなすのも、彼女の楽しみのひとつだった。


 ガラ……。


 いつものように、奥の収納棚を開けたその時だった。


 ――カサリ。


 「……ん?」


 棚の奥、誰も手を入れたことのないようなほこりまみれの隙間から、一冊の本が落ちてきた。

 古びた革の装丁。題名も、背表紙も、まったく文字が読めない。まるで何かの暗号のような模様が刻まれていた。


 「……え、これ、うちの本じゃないよね?」


 貸し出しのシールもなければ、分類番号もない。

 他の本とは明らかに違うその重みに、紬は思わず喉を鳴らした。


 ページを開こうと指をかけた瞬間――。


 ビリィ……ッ!


 目の前で、何かが光った。まるで本そのものが発光したように、目の前が真っ白になる。


 「えっ、え、なに、これ――」


 光に包まれ、紬の声が吸い込まれるように消えていった。


 そして。


 「……う、うぅ……」


 目を開けると、空が見えた。


 青い空。高く、どこまでも澄んだ空。

 けれどそこには、見慣れた天井も蛍光灯もない。生温かい風が髪をくすぐり、草の匂いが鼻をついた。


 「えっ、なに……? どこ……?」


 紬は身を起こして、周囲を見渡した。

 そこは、木々に囲まれた小さな空き地のような場所だった。背の高い草が生い茂り、鳥のような鳴き声が遠くから聞こえる。


 まるで、どこかのキャンプ場……いや、もっと人の手が入っていない感じ。


 「これって……夢? いや、でも……」


 さっきの図書室、棚、本、光――それがあまりにもリアルだったせいで、ただの夢には思えなかった。


 「……スマホ……」


 紬はポケットを探る。制服のポケットには、いつもの文庫本が入っているだけだった。

 スマホも、財布も、図書カードも、ぜんぶない。


 「え、ウソ……。どうしよう、どうしよう……」


 心臓がドクドクと速くなる。どこだかわからない森の中に、制服姿の中学生がひとり。

 状況が飲み込めないまま、紬はただ呆然と立ち尽くした。


 と、その時。


 カバンが目に入った。


 ――落ちていたのは、さっき手に取ったあの本。

 どこからか、一緒についてきたのだろうか。革表紙の重厚な装丁が、やはり不気味なほどリアルに感じられる。


 「これ……が、原因……?」


 恐る恐る手に取ると、何かが違うことに気づいた。

 その本は――明らかに“他の本”と違っていた。


 表紙には、見たことのない模様が浮かび上がっていて、まるで……魔法陣のようだった。


 そして、その下にもう一冊――見慣れた本が顔をのぞかせていた。


 『図解・食べられる野草図鑑』。


 「……え?」


 なんでこんな本が?


 それは、つい先週図書室に返却されたばかりの本だった。

 普段は棚の隅にあるような、アウトドア好きの先生が好んで読むような一冊。


 「まさか……図書室の本が、全部?」


 慌ててカバンを開けると、そこには大量の本が詰め込まれていた。


 栄養学の本、昔話の絵本、応急処置ガイド、物理図鑑、古典の文庫本……。


 そのどれもが、見覚えのある図書室の本だった。


 「え、ええ……? なんで? なんで私、図書室ごと持ってきちゃってるの……!?」


 状況は謎だらけだったが、とりあえず一つ確かなことがある。


 「……お腹、すいた」


 そう、空腹だった。

 何はともあれ、この世界(?)で生き残るには、まず食べ物を探す必要がある。


 紬は震える手で『食べられる野草図鑑』を開いた。


 ページの間から、どこか懐かしい紙の匂いが立ちのぼる。


 「……とにかく、読める本があるなら、なんとかなる。……きっと」


 本しかないけど、なんとかする。

 そのときの紬は、まだこの先、自分がどれほど大きな波に巻き込まれていくかを知らなかった。


 ページをめくる手が、わずかに震えていた。

 『食べられる野草図鑑』――その表紙に描かれたイラストが、やけに頼もしく見える。


 「ええと……これは、“カラスノエンドウ”……春に多いって書いてあるけど、似たのが……あ、あった!」


 草むらの中に、小さなマメ科の草を見つける。

 丸く細い葉っぱに、さやえんどうみたいな実。図鑑の写真とそっくりだ。


 「これ、食べられる……んだよね?」


 少し不安だったけど、食べなければ倒れてしまう。

 紬は意を決して、さやの部分をちぎって口に運ぶ。


 ……シャリッ。


 青臭いけど、食べられなくはない。苦味も少なく、水分が多い。

 そして、なにより――。


 「……お腹が、ちょっと落ち着いた……」


 その瞬間、図鑑の持つ「知識の力」に、初めて助けられた気がした。


 「よし……よし。次は……火」


 空も少しずつ赤くなり始めていた。夜が来る前に、火を起こしたい。

 寒さがどうなるかもわからないし、虫や動物だって心配だ。


 紬は、もう一冊の本――『図解・キャンプ入門』を取り出す。


 「えっと……火をつけるには……木の枝と、ヒモ、板……?」


 あたりを見渡して、落ちていた木の枝や枯れ草、葉っぱを集める。

 制服のリボンをヒモがわりにして、教本通りに木の棒をゴリゴリとこすってみるが――。


 「……つ、つかない……っ!」


 どれだけやっても、手のひらが痛くなるばかりで、煙すら出ない。

 汗が額をつたって、目に入る。手が痛い。息が上がる。喉がカラカラだ。


 「ダメ……私には……無理……」


 紬はその場にぺたんと座り込み、目を伏せた。


 火すらつけられないなんて――。

 自分は、この世界で本当に、生きていけるんだろうか?


 そのときだった。


 「……なに、してんだ?」


 不意に、背後から声がした。


 振り返ると、そこには一人の少年が立っていた。


 年の頃は紬と同じくらいか、少し上。

 肩まである薄茶の髪と、日焼けした肌。腰には何かの小さな笛のようなものがぶら下がっている。


 「ひ、ひと……?」


 目を丸くする紬に、少年は不思議そうな顔で近づいてきた。


 「ここらで人間見るの、久しぶりだな。……その手、どうした? まっかっかじゃん」


 「あ……えっと……火を、つけたくて……」


 紬のしどろもどろの説明を聞き終えると、少年は少し黙って、それから小さく笑った。


 「じゃ、オレがつけてやるよ」


 そう言うと、彼は枯れ草の山に手をかざした。


 次の瞬間――。


 ボッ……!


 草の山から、オレンジ色の炎がふわっと立ち上がった。


 「……っ!」


 驚いてのけぞる紬。少年は、肩をすくめて言った。


 「なんだ、火ひとつでそんなに驚くなよ。これくらい、小学生でもできるだろ」


 魔法――。

 目の前の少年は、何の道具も使わずに、火を起こした。


 「……うそ……魔法、なの……?」


 震える声でそう問う紬に、少年は少しだけ目を細めて言った。


 「ああ。ここじゃ、魔法使えなきゃ何もできねえからな。……お前、火ひとつ起こせねーって、もしかして“欠落者”か?」


 “欠落者”。

 その言葉が、紬の胸に冷たく刺さった。


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