第2話(父親視点)
健太が家を出て行ってから数日、健一郎は仕事から帰るたびに、奇妙な安堵感と、しかし拭いきれない不快感を同時に覚えていた。健太のいない家は、確かに静かになった。妻も娘たちも、以前のような神経質な苛立ちを見せることは減った。まるで、腐敗した部分が取り除かれたかのように、家の空気が澄んだようにも思えた。
健一郎は、自分の判断は正しかったと、常に自分に言い聞かせていた。あのような「汚点」を抱えた息子を家に置いておくことは、家族全体の、そして自身の社会的な立場を脅かす行為だと。会社の同僚や取引先の目が、急に冷たくなったように感じたのは、健太の噂が漏れたせいだと信じていた。
「あの野郎…まさか、本当に家を出ていくとはな。」
酒を飲みながら、健一郎は小さく呟いた。内心では、健太がどこかで反省し、更生してくれることを、心の隅で期待していたのかもしれない。だが、連絡は一切ない。それでいい、と彼は思った。これ以上、恥を掻かされるのはごめんだ。
その日も、健一郎はいつものように酔って帰宅した。風呂に入り、テレビをつけようとしたその時、けたたましい電話のベルが鳴り響いた。妻が慌てて受話器を取るのが聞こえる。
「え、健太が…?」
妻の声が震え、顔色が一変した。
健一郎は、嫌な予感を覚えた。何か、また健太が問題を起こしたのか。しかし、妻の次の言葉は、彼の想像を遥かに超えるものだった。
「……自殺、ですって…?」
妻の小さな悲鳴が、静まり返ったリビングに響き渡った。健一郎は、瞬時に酔いが醒めるのを感じた。自殺。信じられない。あの臆病な健太が?
その時、また別の電話が鳴った。今度は健一郎の携帯だ。表示されたのは、警察署の番号だった。
「もしもし、私、健一郎ですが…」
「ご主人様、ご連絡が遅くなり申し訳ございません。先日お申し出のあった件で、新たな事実が判明いたしました。」
警察官の声は、事務的で冷淡だった。健一郎は、胸騒ぎを覚えながら耳を傾ける。
「被害を訴えていた女性が、虚偽の申告をしていたことが判明いたしました。彼女は以前にも同様の申告を繰り返しており、今回も…ええ、つまり、健太さんの容疑は完全に晴れました。」
健一郎の脳裏に、雷が落ちた。虚偽。冤罪。つまり、健太は、何もしていなかった。
何も、していなかった…?
彼の脳裏に、健太の顔が浮かび上がった。あの、助けを求めるような瞳。必死に「違う」と訴えた声。それを、彼は「言い訳」と切り捨てた。家族から疎外し、暴言を浴びせ、そして、家から追い出した。
「は…はは…」
乾いた笑いが喉から漏れた。安堵?いや、違う。これは、絶望だ。
健一郎は、目の前の世界が歪んでいくのを感じた。息子は死んだ。そして、その死は、自分たちが彼を信じなかった故の、謂わば、自分たちの手によって引き起こされたものだ。
壁に立てかけてあったゴルフバッグが、やけに重く感じられた。今まで積み上げてきた全てが、まるで砂の城のように崩れ去っていく。彼は、自分の掌が、まるで血で汚れているかのように見えた。
これから、どうすればいいのだ。息子を信じなかった。助けなかった。彼が苦しんでいる時に、背を向け、見捨てた。
健一郎の背中に、冷たい汗が伝った。健太の死と、冤罪の報せは、彼の心に、一生消えることのない深い傷跡を残した。彼は、自らの保身のために、何よりも大切なものを失ったのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。