「ごめん」を抱いて逝った彼と、後悔を抱いて生きる私

@flameflame

第1話(彼女視点)

斎藤優奈は、窓の外に広がる灰色の空を見上げていた。指先でなぞるガラスの冷たさだけが、唯一の現実だった。あの日の蓮の部屋も、こんな風に淀んだ空気に満ちていた気がする。ただ、そこに漂っていたのは、もっと濃密で、もっと絶望的な、得体の知れない何かだった。


蓮とは、物心ついた時から一緒だった。隣の家に住み、同じ幼稚園、小学校、中学校、そして高校。まるで遺伝子レベルで組み込まれたかのように、私たちは常に「蓮と優奈」という一つの塊だった。周りからは「お似合い」「理想のカップル」と羨ましがられた。その言葉を聞くたび、私は胸の奥で安堵するのと同時に、微かな息苦しさを感じていた。私は「蓮の彼女」であり続けることを、まるで宿命のように受け入れていた。それが、どれほど尊いことで、どれほど残酷なことだったのか、あの頃の私には理解できなかったのだ。


木村健太と知り合ったのは、大学に入ってからだった。蓮とは違うタイプの、掴みどころのない男。蓮が私にとって当たり前の空気のような存在だったとすれば、健太は、突然窓を開け放った時に吹き込んできた、予期せぬ風だった。新鮮で、どこか危険な匂いがした。


「蓮は、優奈のこと、本当に大切にしてるよね」


健太はそう言って、私の髪を指で弄んだ。その指先が、私の頬を撫でる。蓮の温かい手とは違う、どこか硬質な触れ方が、私の中にくすぶっていた退屈を刺激した。

私たちの関係は、泥沼のようだった。蓮に隠れて、健太と会うたび、私の心は奇妙な高揚感に包まれた。背徳感と興奮が混ざり合った、甘い毒。蓮の優しい声を聞くたび、彼の信頼に満ちた瞳を見るたび、私の胸は鉛のように重くなった。それでも、私は健太との関係を止められなかった。それは、きっと、私自身が「理想の彼女」という檻から抜け出したかった、幼い反抗心だったのかもしれない。


蓮は、きっと気づいていた。私の変化に。言葉にしなくとも、彼のまなざしは、何かを探るように私を追っていた。ある日、私の携帯に残っていた健太からのメッセージを見てしまったのだろう。彼の顔から血の気が引いていくのを、私は見ていた。その時でさえ、私は愚かにも、どうやって言い訳をしようか、と考えていた。謝罪の言葉より先に、保身が頭をよぎったのだ。


「優奈、僕のこと、本当に好き?」


蓮の声は震えていた。私は、答えることができなかった。いや、言葉を紡ごうとすればするほど、声にならない泥が喉の奥に詰まっていくような感覚だった。蓮は、私の沈黙の中に、彼が一番聞きたくない答えを見つけたのだろう。その日の夜、彼は自分の部屋に戻っていった。


翌朝、母からの電話で目を覚ました。声が震えている。「蓮くんが…蓮くんが…」

駆けつけた蓮の部屋は、ひどく静まり返っていた。乱れた形跡もなく、ただ、机の上に一枚のメモが残されていた。そこには、たった一言。


『ごめん』


その一言が、私の心を抉った。誰への「ごめん」だったのか。私への当てつけか、それとも、生まれ育ったこの世界への、最後の謝罪か。答えは、永遠に蓮の中に葬られた。


蓮の葬儀は、静かに執り行われた。彼の両親は、私の顔を見るたびに、沈痛な面持ちで俯いた。私は、まるで自分のしたことが全てバレているかのような錯覚に陥り、その場にいるのが耐え難かった。彼の母親が、泣き崩れながら「どうして…どうしてこんなことに…」と呟くのを耳にするたび、私の胸は引き裂かれるようだった。すべて、私のせいだ。私の裏切りが、彼の未来を、命を、奪ったのだ。


健太とは、あの後、一度も会っていない。連絡すら取っていない。彼との関係は、蓮の命と引き換えに、私の記憶から消し去りたい過去となった。だが、消えない。消えるはずがない。蓮の最後の「ごめん」が、私の心臓の奥深くに、錆び付いた釘のように打ち付けられている。


あの日の朝から、私の時間は止まっている。世界は動いているのに、私だけが、あの薄暗い部屋に取り残されたままだ。窓の外の空は、いつまでも灰色。蓮のいない世界で、私はただ、息をしている。


蓮が残した「ごめん」の残響が、私の耳元で木霊し続けている。それは私への赦しではなく、永遠の呪いだった。私はこれから先も、この呪いを抱えて生きていかなければならない。後悔という名の鎖に繋がれて、私は死ぬまで、この暗闇の中を彷徨い続けるのだろう。蓮がいた頃の光は、もう二度と、私の世界には差し込まない。これが、私に課せられた、永遠の罰なのだ。

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