第四話 八脚独走


 顔面を殴られた痛みの束、鼻口に溢れた血の風味、それらを肌で触れ合う彼女の体温がゆっくりと沁み消していく。震えるようなアレコレも舞婀の薄紫の瞳の目線が溶かすように和らげてくれる。いつしか息も整い、落ち着いて彼女の姿を見据えることができるようになった。

目に入ったのは、彼女の背中から生えた四本の…脚。


「…お前が蜘蛛の血を引くのは知っていたが…その姿は初めて見た。」


「平時は隠していましたから。何せ、これはあなたのそばで生きるには邪魔になりすぎる。ただ触れるだけで、殿下を傷つけかねません故。」

「これを使うのは…兵として戦う時のみでございます。」


その目線は下方、痙攣しもがくことすらままならない髭面のあの男。それは、恨みだとか怒りだとかは読み取れず…ただ「蔑み」が困った薄暗い色だった。


「そいつはどうなった…?」


「私の毒を流し込みました。運がよければ数年寝たきり程度で済むでしょう。」


彼女は口元を布で拭き終えると、跪き、目線をより深く下げた。


「殿下、私は約束を違えました。」

「あなたの元への帰還は大いに遅れ、筆舌に尽くし難かろう苦痛を受けさせてしまいました。」

「私を殺してください。」


「…殺すか馬鹿。何度も言わせるなよ、予は“お前”がいいんだ。お前が好きなんだ。」

「お前が…予をアイツらから助けてくれ。」


手を差し出し、彼女は面を下げたままそれに応える。


「それでは…ここを抜けます。」

「ですが、殿下をここから救い出すためには少し準備が必要です。私が殿下を抱えて移動するのですが、そのまま動いては右に左に揺れる衝撃により殿下が傷つきかねません。そして何より、皇族であるあなたの姿をみだりに晒すわけにはいきません。」


彼女はソクソクと部屋の中を歩いて行き、いつものあの場所…簾の前にたどり着いた。


「これを使います。」


「簾をか?」


「はい、この素材はただ高級で触り心地が良いだけではありません。衝撃吸収性や布の耐久性、そして殿下の肌を決して傷つけない柔らかさを兼ね備えた素材です。」

「これで殿下を包みます。」


「………赤ん坊みたいだな。」



———————————————2ページ目


 宮殿の廊下を閉鎖していた北独の兵士達の間を槍のように鋭く長い四本脚が走り抜ける。それはまさしく糸の間を縫うような、繊細かつ器用な足捌きであり、兵士たちはその恐ろしくも華麗な動作に圧倒されるばかりだった。


「はっ…速っ!」


舞婀の背中には四本の脚がある。それと人間としての四肢と合わせて、蜘蛛の八脚を再現していた。そして移動を背中の四脚に任せることで、彼女は両手を使って白宗の包みを抱えることができたのだ。彼女がなぜこの能力を得たのかはひとまず後回しにして、この能力がどのようなものかについて解説しよう。


この彼女の機動を支える蜘蛛の能力、それが『イオウイロハシリグモ』の抱護走法である。この種の最大の特徴として…この蜘蛛の雌は「卵嚢を抱えて行動する」のだ。

 

 まず、蜘蛛の育児能力というものについて軽く説明しよう。

子グモが成長し、離散するまで彼らの元を離れない「ササグモ」。生まれた子供を背中に背負って共に移動する「コモリグモ」。命を捨てて、子供達に自分の身体を食べさせる「カバキコマチグモ」。世界ではタランチュラ界の多芸番長「カメルーン・レッドバブーン」といった大型の蜘蛛も子育てをする姿が確認されている。まだまだ語り足りないが…とにかく、多くの種の蜘蛛が創意工夫を凝らして子育てしているのだ。


そして、イオウイロハシリグモについて。

前述の通りこの種は卵嚢を抱えて行動する。無防備な卵嚢を自分の最も信頼できる懐に置き、自由自在に草むらを走り回る。これは他の子育て蜘蛛よりも高いスタミナや機動性が為せる技であり…さらに、そこから発展させた戦闘力についても特筆するものがある。この蜘蛛はハシリグモ類でも高い機動力・毒性を持っており、自身より巨大なコロギスや上位捕食者のオオカマキリなどにも真っ向から打ち破る姿も確認されている。



 トトトトト…と脚を細やかに動かし、時には天井や壁を足場として巧みに敵の攻撃を避ける。しかし、時には道を封鎖するように槍を交差させて立ちはだかる者もいた。飛び越えることも、通り抜けることもできない敵の位置。彼女は容赦なく彼らを蹴り飛ばした。

奴らの重たい体は音を立てて壁や天井にぶつかり、彼女の体には雨を浴びたような鮮血が。鋭い爪先の刺突は敵兵を退けるだけでなく、時に腹部や顔面などの急所を貫き、崩壊させるほどの負傷を与えていたのだ。


彼女の心はドス黒く濁っていた。命に代えて守ると皇帝に約束した白宗を暴行され、汚されたからだ。彼女が積極的に敵兵を攻撃しなかったのはただ白宗の身の安全を最優先に考え、なるべく交戦を控えたかったからであり、もし彼女単独での行動であったら、むしろ進んで彼らを虐殺したに違いない。



 疾走、跳躍、撃退、独走。

敵兵を超えて、階段を飛び降り、さらに走る。


(出口…見えた…!)


ガッ!…と勢いよくその扉を蹴破り、彼女は外へと転がり出た。まだ月が天高くにある深夜は、屋内よりもむしろ外の方が明るく澄んだ世界であった。


「外か…久しく夜中の外出はしていなかったな。もし平時なら月見でもしていたいくらいだが…」


「はい、まだ危機は抜けていません。」

「私たちはさらに城内の南に進みます。そこであらかじめ待機している脱都用の兵士達や馬と合流し、遥か南の新たな都へと行くのです」


彼女は何か名残惜しそうに、宮殿を振り返る。その目線は最上…皇帝の一室へ向いていた。しかしもう時間が無い、既に宮殿を抜けて北独の兵士達がこちらへと集結しようとしていたからだ。彼女は再び前を向き、彼を抱えて走り始めた。


 白宗は包みの隙間から、走り去る都の景色を眺めていた。北独の兵士達がそこらじゅうに蔓延り、街の要所要所を占領していた。城壁を破壊したり、火を放ったり、白盤の兵士と争い…殺したり殺されたり。喧騒と怒号が響いていた。



市民達は恐ろしくて家に篭っているのか、それとも避難し遠くへと逃げたのか、ほとんどこの争いの中には見えなかった。彼らが明くる朝街を見たら、変わり果てた国の姿にきっと驚き不安に苦しめられるだろう、と感じた。


 城壁の果てが近くに迫り、その麓へと到達。そこには北独の兵士達とは抗戦せず、馬や車を用意していた白盤の兵士達が数名いた。彼らは城門をすでに開き、駆け出せばもう直ぐに脱出が可能であろう。舞婀の脚が速まり、そちらへ向かった時であった。


「頭を下げてッッ!!!」


前方の兵士が叫んだ。直後、二人に一発の強い衝撃が走り、彼女の体が崩れ転げてしまったのだ。白宗は包みの防護と彼女が手を離さなかったことで無傷であった…が舞婀は違った。彼女はうつ伏せに倒れ、直ぐに立ちあがろうとするも脚がふらついている。頭部からは血が流れ、彼女の黒い髪は赤く濡れてぺたりと肌に添っていた。


彼女はそれでも立ち上がり、白宗を再び抱え上げて走り馬へと飛び乗った。しかし、そのわずかなタイムロスの間に…既に敵兵はこちらへと攻撃を始めていた。後方を確認すると、奴らは何やら網のようなものを振り回し、こちらへと何かを投げつけている。


高速で射出されたそれは…石礫であった。本気でぶつければ鉄の鎧すらも凹ませる威力を持つ投石が、彼女の後頭部に直撃したのだ。

息を切らし、馬の背にもたれかかるようにして、なんとかしがみつき体勢を整える彼女。兵士たちは重傷を負った彼女を囲み、防御を整える。


「舞婀様…!傷を…」


「いや、いい!それよりも速くここを脱する…!」

「先頭を走るものと、私の後ろにつき警護するもの…数名でいいから着いてきなさい!時間が無いから車はもう置いていく!」


血に濡れ、ぶるぶると震える腕を乱暴に振り、兵士たちに指示を与え彼女も走り出す。多くの兵士は殿となり、迫り来る北独の追っ手を真正面から受け止め、そして乱戦となった。


舞婀を中心とした数名の騎馬兵士は城門を抜け、夜の闇が広がる森林へと駆けて行った。そして乱戦の中から数名…北独の騎馬兵達が彼女らの後ろを追って行った。

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