風と光の中で
Rpen
第1話水の音を聴きに行く
38歳。春。
男は、離婚するかどうかを迷っていた。
理由はいくつもあった。ただ、どれも決定打にはならない。
結婚して十年。感情がすり減ったわけでも、激しく衝突したわけでもない。
ただ静かに、互いが干渉しなくなった。それを「安定」と呼ぶには、あまりに空虚な日々だった。
その日は、特に何も変わったことはなかった。
お互いに忙しく、週末もそれぞれのペースで過ごしていた。
何の前触れもなく、突然、妻の言葉が彼の胸に引っかかった。
「最近、あなたが何を考えているのか、わからない。」
何気なく口にしたその言葉が、彼にとって重く響いた。
彼女の瞳の奥に映る疲れと不安を、彼は見逃さなかった。
その後、夕食を終えても、何も言葉が交わされることはなかった。
テレビもつけず、互いにスマホを手に取り、黙々と過ごす。
その静けさの中で、彼はふと気づく。
自分が何を考えているのか、はっきりと分からないという事実に。
結婚生活は、どこかで“安定”を求め続けてきたはずだった。
だが、その“安定”が、いつの間にか“停滞”に変わっていたことに気づいてしまった。
この関係に、何かが足りない。
彼はその時、自分が迷っていることを確信する。
何も起こらない日常に、どこか無理に流しているだけの時間が重なっていく。
それが果たして幸せなのか、それともただの慣れなのか。
「どうしたいのか?」
その問いが、彼の心の中で何度も回り続けた。
だが、答えは見つからない。
もし離婚を選べば、それは逃げだろうか。
しかし、今の関係に決定的なものがないのも事実だった。
感情が冷めたわけではない。けれど、温かさも感じない。
いつしか、二人の間に流れる空気が薄くなってしまったように感じていた。
その晩、食後に二人で何気なくテレビをつけ、無言で時間が過ぎていった。
いつしか、彼は心の中でその空虚さを抱えていた。
その時、彼はふと思い立った。
海へ行こう、と。
ただの気晴らしだったが、どこか心が落ち着く気がした。
釣りに行くのは久しぶりだった。
車に釣り道具を積み、海辺の港に着くと、朝の冷たい風が顔に当たった。
堤防に腰を下ろし、糸を垂らす。
波の音が心地よい。
何も釣れなくても、心はどこか安らいでいく。
「こんなにも静かだったか、世界は」
彼は呟くようにそう思った。
海に浮かぶ小舟、波の音、空の青。
自然と無言で触れ合っていく時間が、思ったよりも心を癒していった。
「ひとりが好きなんだ」
本当にそうだった。ひとりで過ごす時間が、心地よく感じる瞬間が多い。
人と過ごす時間に気を使うのが疲れたわけではないが、
それでも誰かといることが重荷に感じることがあった。
その時、彼は少しだけ自分の気持ちに正直になれたような気がした。
ひとりでいることが悪くないと、心のどこかで確信していた。
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