Nameless Hero~無名の少年が英雄になるまで~
牛☆大権現
第0話 無名雷神
①
七歳の誕生日、鶏鳴(けいめい)より早く少年は故郷の里を抜け出した。
これ以上この里に縛られるのはごめんだと、振り向くことなく山を駆け降りる。
岩肌を蹴り下り、木々の間をすり抜けるその速さは、まるで雷(いかずち)を身に宿したかのようだ。
自身の袖丈よりも太い倒木を蹴り折り、道なき道を進んでいく。
逃げてなどいない、自由を掴むために走っていた。
里では、常に厄介者だった。
大人たちの放つ冷たい雰囲気は乱れた電磁波として、自身を拒んでいるのが伝わってきた。
その波長は、日常のどんな音よりも鋭く胸に突き刺さった。
彼は、他の子供と比べて身体が大きく、遊びで勝ち過ぎた。
駆け比べをすれば誰も彼に追いつけず、相撲では里一番の大力と豪語していた男さえ打ち負かした。
だからといって、周囲は称賛などしなかった。
むしろ、それゆえに疎まれていた。
どんなに力を誇示しても、認めてもらえるわけじゃない。
少年は、周囲より”力”が強すぎた。
その目は、ただ恐れていた。
自分たちにその力の矛先が向かうのを。
そんなとき、彼らは口を揃えてこう言うのだ。
「“掟”を守れ」「協調性を持て」と。
だが、少年から言わせれば、彼らが自分を輪に入れなかったのが悪い。
物心ついたときから少年は一人だった。
親もなく、庇ってくれる者もいない。
孤独は、日を追うごとに深まっていく。
誰にも理解されない日々が、少年の心をゆっくりと閉ざしていった。
出立の前夜。
少年はいつもの如く里の大食堂に遅れてやってきた。
夕餉の時間は決められている。
口うるさく言われるのはいつものことだったが、その晩は過激だった。
突然大人の一人が少年を指さし、言い放った。
『もう七つにもなるのに、"掟”も守れぬのか! お前の”力”は、この里に災いを招く』
里の人々はその男に同調するかのように少年に冷たい眼差しを向ける。
その瞬間、胸の奥で何かが弾けた。
感情というより、本能が叫んでいた。
もういい。
ここには、何もない。
その言葉を放った男を殴り飛ばし、一口も食べず、静寂に包まれた家に戻った。
自分の居場所なんて、最初からなかったのだ。
“掟”なんて知るものか。
そんなものに縛られて生きていくつもりは、毛頭なかった。
ゆえに、これは逃避ではなく、決別だった。
夜が明け始め、空気が青白く澄んでいく。
湿った土を踏みしめながら山道を下っていくと、冷たい朝の風が肌を撫でた。
空腹がひどい。
昨晩から何も口にしていない。
けれど、その飢えよりも、今は前に進むことが優先事項だった。
少年が里にいないことに皆気づき始めた頃合いだろう。追手を出されるのも時間の問題だ。
それでもひもじさには耐え難い、食べられるものが無いか地面を探す。
土の上に刻まれた真新しい足跡に目を留めた。
少年の足より何倍も大きく、周囲には茶色い毛が落ちていた。
ツキノワグマだ。
子供は絶対に近づくな、と大人たちが口酸っぱくしながら忠言する山の主。
大人たちが数人がかりで狩りに出かけ、祝いの日にしか食することができないご馳走。
「獲物だな」
そう呟いて、少年は足跡を辿る。
鼻を刺す獣の匂い。
川のせせらぎが聞こえてくる。
獣道を抜けた先に、視界が一気に開けた。
滝が轟音とともに流れている。
その滝の前に、一人の少女がいた。
赤と白の装束が飛沫に揺れ、年齢は少年より少し幼く見える。
何かから逃れるように瀑布の水溜りを搔き分ける。
その後方——
大きな黒い塊が水を巻き上げながら少女に迫っている。
ツキノワグマの、前足から伸びた爪が光る。
小柄な少女に対し、充分過ぎる凶器を振り下ろそうとしていた。
考えるよりも早く、身体が動いていた。
空気を叩くような音が響く。
雷のようなエネルギーが、全身を駆け巡る。
距離、約十六メートル。
一瞬で、踏み込む。
跳躍。
ちょうど少女の眼の前に立つように水しぶきを上げ、熊と少女の間に舞い降りる。
少年は熊の爪撃をその身に食らうが、歯を食いしばって持ち堪える。
「かみ……さま……?」
おぼろげな声。
尻もちをついたまま、爪痕(そうこん)を刻まれた少年を見上げていた。
その瞳に宿っていたのは、恐怖ではなかった。
光に心を奪われたかのような、そんな色。
どうでもいい。
今は、熊を倒す。それだけだ。
収縮した筋肉が拳に力を集中させ、雷鳴のような一撃が熊の身体を打ち据えた。
瀑声(ばくせい)にも負けない咆哮とともに、巨大な肉塊が吹き飛び、地面を転がる。
滝壺から排除されてなお、熊はまだ絶命しておらず、痙攣している。
「仕留めきれなかった……」
水場に足を取られたか。
思わず、拳を握りしめていた。
次は仕留める。
もう一歩を踏み出そうとしたその瞬間——
「待って!」
少女が叫び、バシャバシャと水を巻き上げながら少年の前に飛び出した。
切り傷だらけの小さな手足を広げ、熊に向かおうとする少年の行く手に立ちふさがる。
赤と白の装束が、水に濡れて身体に貼り付いていた。
「どけ、お前も一緒に殺されたいか?」
少年は、戦いに水をさされた事に苛立つ。
怒りに身を任せ水面を殴りつける。
水しぶきとともに砕かれた砂礫が少女の顔に飛沫し、頬を傷つける。
「殺しちゃ駄目です!」
その声は静かで、決して揺らがなかった。
どうして——
『これまで自分の力は恐れられてきたのに、なぜこの少女はそこをどかない? なぜ自身を殺そうとした熊なんぞをかばう? なぜ、なぜ……』
少年には理解できなかった。
自身に仇なすものは全て敵だ。
敵を許すなど、考えたこともなかった。
戦うとは、倒すこと。
そう信じてきた。
だが、彼女の言葉は、心の奥の何かを、確かに揺らしていた。
草木を搔き分ける音がした。
視線を向けた先。
木陰の奥に、子熊の姿があった。子熊は倒れた母親に駆け寄り、頬をなめる。
いつものようになめ返してくれる母親はそこにはなかった。
「クマさんは……子供を守りたかっただけなのです。悪かったのは、あたしのほう。許してほしいのです」
思考が止まった。
自分は気づかなかった。
この少女は——見抜いていたのだ。
しかも、自らも傷を負いながら、なおも熊を庇おうとしている。
傷ついた命。
親を失いかけた小さな命。
気づけば、そこに自分を重ねていた。
拳をゆっくり下ろす。
「分かってくれたのですね」
その一言に、胸の奥が不意に波立った。
真っ直ぐに届いたその声は、今まで誰にも触れられなかった場所を突いた。
それは、初めて向けられた“自分を見てくれる声”だった。
その感情を脇において、熊の容態を確認する。
少年は河原に寝そべる熊の傍に歩み寄る。
子熊は心配そうな瞳で少年を見やる。
「下がっていろ」
動きに迷いはなかった。
少年の掌に紫色の光が宿る。
掌が触れた瞬間、母熊の肢体は痙攣する。
しばしの沈黙を得て、母熊はゆっくりと瞼を開いた。
母の帰還を喜ぶ子供を、母熊は優しく抱き寄せる。
それを見た少女の目には、強い光が在った。
礼を言うかのように、母熊が頭を下げてから、背を向ける。
「クマさん、バイバイ」
「もう二度と人を襲うなよ、次は喰うからな」
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