第6話 魔窟の住人
森の中に足を踏み入れた途端、ひやりとした空気が肌を撫でた。木々が鬱蒼と生い茂り、太陽の光を遮っている。湿った土と腐葉土の匂いが混じり合い、時折、名前も知らない鳥の不気味な鳴き声が響き渡る。
「…本当に、こんなところに部室が…?」 隆弘が不安げにつぶやくと、栞は黙って前方を指さした。 その先に、ぽつんと、コンクリート打ちっぱなしの、窓もない建物が見えた。まるで巨大な豆腐か、あるいは墓石のようだ。建物の壁には蔦が絡まり、その歴史の長さを物語っている。そして、いくつかの扉があるなか、ひときわ毒々しい黄色が目立つ鉄製の扉が一番奥にあった。その扉を目指して恐る恐る歩を進めると、扉には、かすれたペンキで各サークルの名前が書いてあるようだった、「バレーボウル会」「現代物理学研究会」「パンケイキアイス会」「ごま豆腐対湯豆腐会」… そして、一番奥の黄色の扉には、錆びた赤色のペンキで「古美術研究会」と書いてあった。
「ここみたいだ…」
ゴクリと唾を飲み込み、隆弘は意を決してその黄色い扉をノックした。コン、コン、と乾いた音が響くが、中からの返事はない。
「…留守、ですかね」
「いや、人の気配はする」
栞が扉を睨みつけながら言った。確かに、耳を澄ますと、中から何かをズルズルと引きずるような、かすかな物音が聞こえる。
もう一度、今度は少し強くノックしようと隆弘が手を上げた、その時だった。
ギィィィィ…ッ!
錆び付いた蝶番が悲鳴を上げ、黄色い扉がゆっくりと内側に開いた。
中から現れたのは、ひょろりと背の高い、分厚い丸眼鏡をかけた陰気な顔つきの男だった。無表情のまま、二人を値踏みするように見ている。原田先輩が言っていた、薄気味悪い男だろうか。 男が何も言わないので、隆弘がおそるおそる口を開いた。
「あ、あの、すみません…」
「……」
何の返事もなく、代わりに後ろから、ずるずると何かが近づいてくる音がする。足音にしては不規則な音。
そして、男の後ろから、突然ぬっと、顔が現れた。
ぼさぼさのくせ毛。光の届かない洞窟で長年暮らしていたかのような、病的な猫背。そして、その顔は…鹿野先輩が「無理」と言ったのも頷ける、お世辞にも美しいとは言えない、独特の造形をしていた。 この人物こそが、ジャミラ先輩。
彼女は、ぬらりとした動きで二人に近づくと、隆弘と栞の顔を交互に見比べ、次の瞬間、甲高い声で叫んだ。
「おまえら、付き合ってるのかッ!?」
「「えっ」」
あまりに唐突な質問に、二人の声が重なる。
「付き合っているのかと聞いているんだ!」
「ああーーー、嫌だ、不潔なやつらめ!性の悦びを覚えやがったのか!私を馬鹿にしているのか!帰れ畜生!」
ぼさぼさのくせ毛を逆立てながら、髪の間から見える眼を血走らせながら、恐ろしい勢いでまくし立てた。
「いや、付き合っていないです。私たち、というか、別に友達でもありません。」
栞は、意外にも冷静にきっぱりと、よく通る声で答えた。
その回答内容に、一瞬、絶望にも似た感情に、頭がぐらっとした。せめて、友達にしておいてくれないか。
「本当だな!?」
「はい。」
ジャミラ先輩は、肩を激しく上下させながらも、少し落ち着きを取り戻して、こういった。
「まあ、じゃあ、いいだろう。何か、用があって来たのだろう。入れ。」
薄暗い室内は、想像を絶する混沌に満ちていた。まず鼻をつくのは、古本とカビが混じり合ったような、すえた匂い。それに加え、何か薬草のような、あるいは動物の死骸のような、甘く腐った匂いが微かに混じっている。天井から裸電球が一つぶら下がっているだけで、部屋の四隅は深い闇に沈んでいた。床という床は、おびただしい数の書物で埋め尽くされ、足の踏み場もない。壁には、不気味な紋様が描かれた布や、人体模型図、由来の知れない動物の頭蓋骨などが所狭しと飾られている。部屋の隅では、アルコールランプにかけられたビーカーの中で、紫色の液体が不気味な泡を立てていた。
「座れ。」
散らかった床を注意深く見ると、いつから敷かれているか分からない、座布団が敷かれていた。
ジャミラ先輩は、部屋の奥にあるパソコンで何か作業をした後、一枚の紙を印刷して、机の上に置いた。
「…おまえら、ここに署名しろ。」
広げられた紙には、こう書かれていた。
【誓約書】
甲及び乙は、邪見 羅々(以下「丙」という。)の管理する古美術研究会の部室(以下単に「部室」という。)を利用するにあたり、本誓約書作成時において、甲及び乙が付き合っていないことを誓約するとともに、以下の事項を誓約する。
第1条 魔が差しても、部室の備品を勝手に持ち出さぬこと。
第2条 甲及び乙は、未来永劫において、恋愛関係に至らぬこと。
第3条 降霊術などの危険な儀式を、丙の許可なく行わぬこと。
第4条 参考資料として部室の蔵書を閲覧した後は、必ず元の場所に戻すこと。
第5条 前四条の誓約に違反する場合には、丙の言う事を何でも聞くこと。
以上のことを誓約するにあたり、甲、乙及び丙は、本書3通を作成し、各一部を各自保管するものとする。
●●年●月●日
甲
乙
丙 蛇見 羅々 (署名済み)
「さあ、この甲と乙の欄に、署名しろ!血判でもいいぞ!」
あまりの理不尽さに隆弘が呆然としていると、隣の栞がすっと前に出た。 「分かりました。書きます」 栞は、差し出されたボールペンを受け取ると、一切の迷いなく、甲の部分に、さらさらと自分の名前を書き込んだ。
「あ、一ノ瀬さん!?」
「…早く書いて。話が進まない」
栞に促され、隆弘はしぶしぶペンを受け取った。だが、「未来永劫」という四文字が、やけに重く隆弘の目に突き刺さる。
(いや、でも、万が一、億が一、この先、一ノ瀬さんと何かある可能性が…)
そんな淡い期待が、隆弘の指を鈍らせる。
「…あの、この第2条、消してもいいですかね…?」
じっと、隆弘の眼を見つめ、書面に目を落とす。突然、「フフフ」と気味の悪い声で笑い出した。
「いいだろう。面白い。そのくだらない執着が、おまえたちの命運を分けるかもしれんからな」
そういうと、ジャミラ先輩は赤ペンを取り、第2条の全文に二重線を引いた。そして、第3条から第5条のそれぞれの条番号を、第2条から第4条へ繰り上げの修正をし、第5条の「前四条」を「前三条」に書き換えた。
「この訂正部分の隣にも、ちゃんと署名しろよ。契約の基本だ」
結局、隆弘もその奇妙な誓約書に署名させられた。 ジャミラ先輩は、二人の署名が入った紙を満足げに眺めると、2部コピーを取り、それぞれ一部ずつを隆弘と栞に渡し、「肌身離さず持っておれよ。絶対だぞ。寝るときもだ。」と言い、原本を大事そうに懐にしまい、ようやく椅子に腰を下ろした。
「…まあ、よかろう。で、何の用だね?おまえたちが、この私に頭を下げに来たということは、よほど厄介なモノに憑かれたと見えるが…」 その瞳が、初めて怪異を探る研究者のそれへと変わった。
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