第2話 アマゾンの侵食
あの忌まわしい飲み会の夜から、三日が過ぎた。
横田隆弘の日常は、表面上は何も変わらない。朝は決められた時間に鳴るアラームで目を覚まし、薬学部の退屈な講義を受け、空きコマには図書館で時間を潰す。だが、その水面下では、何かが確実に、そして静かに彼を侵食し始めていた。
最初の異変は、アパートの宅配ボックスに届いた一つの段ボール箱だった。 Amazonからの荷物。しかし、隆弘には全く身に覚えがない。訝しみながらも部屋に運び入れ、カッターで封を開けると、中から現れたのは、分厚いハードカバーの洋書と、一枚の赤いタンクトップだった。 洋書は、あの男が読んでいたものとよく似ている。そして、タンクトップは…。 「うわっ…!」 隆弘は思わずそれを床に落とした。あの男が着ていたものと同じ、くたびれた赤いタンクトップそのものだった。なぜ、こんなものが。誰が、何のために。送り状を確認しても、依頼主の欄は空白。ただ、不気味なことに、届け先である隆弘の名前と住所だけは、正確に印字されていた。あのとき見た男からの何かの嫌がらせだろうか。
その日から、嫌がらせはエスカレートしていった。 スマホで講義の資料を検索しようとすれば、勝手にAmazonのアプリが起動し、お勧め商品としてボーリングの球やピン、まったく興味のない洋書が延々と表示される。大学のWi-Fiに繋ごうとすれば、ログイン画面の背景が、なぜか広島カープのマスコットキャラクターに変わっている。どういう技術を使えば、そんな嫌がらせができるんだろうか。工学部の情報系の博士課程の学生だろうか。
そして、何よりも隆弘を苦しめたのは、付きまとわれる行為だった。 静かな講義室で、ふと、すぐ後ろの席から「ボーリング、行こうよ」と囁かれる。振り返っても、真後ろにいる学生からは、怪訝そうな顔で見られるだけ。声の主は一体どこに潜んでいるのか、忽然と姿を消している。また、ある日、図書館の静寂の中、本のページをめくる音に混じって、あの雷鳴のような声が響く。
『これ!アマゾンで買ったからねー!』
そのたびに、隆弘の心臓は氷水に浸されたように冷たく縮こまった。声のする方向を見ても、すでに誰もいない。
ふと、図書館の書棚に目をやると本と本の間から、赤いキャップがちらりとえた。とうとう見つけた。あいつだ。意を決して、嫌がらせをやめるように言ってやろう。
赤いキャップを目印に後を追う。肩幅の張った赤い服に、赤色のキャップ。図書館の出入り口で、追いつき、ぐいっと腕をつかむ。
「いい加減、変な嫌がらせするのやめてもらえますか?」
「ちょっと、いきなり腕をつかんで何ですか?」
振り返った正面から見ると、赤いキャップは、ロサンゼルスエンジェルスのキャップで、たくましい肩幅に見えたシルエットは、前時代的な肩パットが入った赤いボディコンスーツを着た女性だった。レトロバブルファッションてやつか。
「あ、すいません、人違いでした。ちなみに、失礼ですが、そのファッションは」
「これは、メルカリで買いましたの。私、ロス・エンジュエルスに留学しておりましたのよ。人の趣味に文句を付けないでもらいたいですわね。」
そう言い残すと、ただでさえ強調された肩幅をいからせながら、講義棟の方へ姿を消していった。そもそも、嫌がらせをしている人なんて本当にいるんだろうか?
そうすると、これは、自分だけに見える、幻覚や幻聴なんだろうか。そうだとすると、誰にも言えない。言ったところで、信じてもらえるはずがない。疲れやストレスのせいだと、一蹴されるのが関の山だ。
そもそも、何だ。こっちは、「何を読んでいるのか」聞いているのに、「これ!アマゾンで買ったからねー!」って、質問に対する答えになっていないじゃないか。もっと、ましな幻聴にしとけよ、おれ。
友人との会話も、どこか上の空になる。赤い帽子に異常に反応してしまう。当然、サークルに顔を出す気力も湧かず、講義が終われば一目散にアパートへ逃げ帰る日々。彼は、自ら望むように、そして呪われるように、急速に孤立を深めていった。
ある日の午後、あまりの寝不足とストレスで、隆弘は講義をサボってしまった。自己嫌悪に苛まれながら、あてもなく大学のキャンパスを彷徨う。中庭のベンチに腰を下ろし、空を見上げると、吸い込まれそうなほど青い空が広がっていた。 (俺は、一体どうしちまったんだ…) ため息をついた、その時だった。
「…あの、もしかして、横田くん?」
かけられた声に、隆弘は弾かれたように顔を上げた。
そこに立っていたのは、あの飲み会で遠くから眺めることしかできなかった、長崎先輩だった。
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