第3話 ふたつめの失敗

ふたつめの失敗は、この頃。

わたしが高校生になった、夏のことだった。


父とは相変わらず、どこまでも平行線で、

あんなにも守りたかった母とも、衝突ばかりになっていた。


何をしても息苦しくて、

どう頑張っても、うまく生きられなかった。

自分が生きている理由は、相変わらず見つかっていなかった。

どこにも光がないことに、気づいてしまっていた。



ああ、これはもう無理だな。


そう確信して、ドアノブで首を括った。


──死ぬこと自体は、怖くなかった。

未知の死後の世界よりも、

知り尽くしたこの現実のほうが、ずっと恐ろしかった。


ねえ、黒猫。

「死ぬのって、やっぱり苦しいのかな」

「できれば、痛いのとか嫌なんだよね」


ネットの記事を頼りに、

ドアノブに縄を結びつけるわたしを、

細い瞳孔が、じっと見つめていた。


部屋を汚したくなかったから、

床にペットシーツを二枚重ねに敷いた。

舌が出て、みっともない顔にならないように、

ガムテープを適当にちぎって、口に貼りつけた。


小説を何冊か積んで足場にして、輪に首を通す。

音楽をかけた。

当時流行っていた、ロックバンド。

アップテンポのリズムに歪んだ言の葉。

サビが始まるタイミングに合わせて、わたしは足元の本を一気に蹴った。



痛み。痛み。痛み。


考える暇もないほどの、強烈な痛み。

細いロープが首に食い込み、激しい痛みが走る。

息は音もなく途切れて、世界が遠のいていく。

ネットに書いてあった“首吊りは苦しくない”なんて、嘘だった。


──死んだことのない人間の言葉なんか、信じるべきじゃなかったんだ。


痛い。苦しい。死にたい。


次に覚えているのは、衝撃だった。


口のガムテープはいつの間にか剥がれ、わたしは床に這いつくばって嗚咽していた。

涙なのか、涎なのか、胃液なのか、汗なのか、

それとも、それ以外の何かなのか。

最早なにかわからない何かに顔を濡らしながら、わたしはただ、むせび泣いていた。


日が落ちて、ウシガエルの鳴き声が遠くで響いていた。

わたしは意識をゆっくりと拾い上げ、

ぐしゃぐしゃのシーツの上で、何とか体を起こした。


滴る汗と濡れた床が気持ち悪かった。

部屋は暗く、不明瞭なままであったが、

黒猫の細い瞳孔が、近くで浮かんでいた。


吊るしていた縄は途中で千切れ、わたしの首にぶら下がったままで、まるで首輪のようだった。


ねえ、黒猫。

「わたし、死ぬことすらできなかったみたい。」


黒猫はまた、何も言わず、細めた瞳でにゃあと鳴いた。

ただそれだけ。

また、ひとつ、黒い欠片がこぼれ落ちた。



ふたつめの失敗は、この時。

この時、死に損ねたこと。

そして、死の苦しみを、知ってしまったことだった。


黒い欠片は崩れて、また積もって、

濃く、重く、私の中に沈んでいく。

靄は幾重にも重なり、

わたしはそのまま数年、「生きてしまった」。



──あれほどまでに溢れていた思考も、言葉も、感情も、

いつの間にか黒く濁って、形を失い、

何が残っていたのかも、もうわからなくなっていた。



気づけばわたしは、ただの空っぽで、

誰かの「生存記録」だけを刻む、

名前のない箱になっていた。


それでも季節だけは、黙って過ぎていった。

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