第4話 消えた光

四日目の夜、水野真尋はいつものように午前2時の交差点にいた。自転車を停め、歩道の縁石に腰を下ろす。信号機の赤と緑が静かに切り替わり、遠くのコンビニの明かりが夜の闇に滲んでいる。空は雲が多く、星はほとんど見えなかった。それでも、真尋は空を見上げた。永井千織の声が、頭の中で響いている。彼女の星の話、ノートに書かれた日付、屋上で聞いた「夜の音」。あの交差点で過ごす時間が、真尋の心に小さな光を灯していた。

だが、今夜、千織はいなかった。

真尋は腕時計を見た。午前2時15分。千織はいつも少し遅れて現れるが、今日は様子が違う。彼女の軽やかな笑い声も、ノートをめくる音も、交差点にはない。真尋はスマホを取り出し、メッセージを確認したが、千織からの連絡はなかった。二人はまだ連絡先を交換していなかったのだ。胸の奥に不安が広がった。千織は星を見るためなら、どんな夜でもここに来るはずだ。

「まさか、寝坊か?」

真尋は呟き、苦笑した。でも、千織のあの真剣な目が思い出される。星への情熱は、寝坊で途切れるようなものじゃない。真尋は自転車にまたがり、交差点をぐるりと見回した。古びた信号機、ひび割れたアスファルト、遠くの街灯。いつもと変わらない景色なのに、千織がいないだけで、どこか冷たく感じる。

真尋はふと、昨夜の屋上の会話を思い出した。千織が家族の話を避けた瞬間、彼女の目に浮かんだ影。2024年3月15日のノートの日付。あの日、真尋もこの交差点にいた。胸が締め付けられる感覚。千織も同じ日を記していたのは、ただの偶然だろうか? 真尋は自転車を漕ぎ出し、千織のことをもっと知りたいという衝動に突き動かされた。

翌日、学校で真尋は千織を探した。同じ高校だが、千織は別のクラス。昼休み、廊下で彼女のクラスメイトにそれとなく聞いた。

「永井千織? ああ、なんか今日、休んでるよ。風邪かなんかじゃない?」

クラスメイトの軽い答えに、真尋は安堵と不安が混じるのを感じた。風邪ならいい。でも、千織のあの影が、単なる体調不良とは思えなかった。

放課後、真尋は再び交差点に向かった。まだ陽が沈む前で、午前2時とはまるで違う雰囲気だった。信号機は昼間の喧騒に埋もれ、近くのコンビニには学生やサラリーマンが行き交う。真尋は歩道に立ち、千織のことを考えた。彼女がいつも座る縁石、ノートに書く星のスケッチ。彼女がこの交差点にこだわる理由は、星だけじゃない気がした。

ふと、視界の端で何かが光った。縁石の近く、草の隙間に小さな金属片が落ちている。真尋が拾い上げると、それは星形のキーホルダーだった。裏に「T」と刻まれている。千織のものだろうか? 彼女のノートに、星のモチーフが多かったことを思い出す。だが、「T」は何を意味する? 千織の名前は「Chiori」。「ち」は英語で「Ti」と読めるから、千織のイニシャルと言えなくもない。でも、なぜか胸の奥でざわめきが広がった。このキーホルダーは、ただの装飾品じゃない気がする。

その夜、午前2時。真尋は再び交差点にいた。千織が現れることを期待したが、やはり彼女はいなかった。真尋はキーホルダーを手に、空を見上げた。雲が厚く、星は一つも見えない。まるで千織の心を映しているようだった。真尋は決意し、明日、千織の家を訪ねてみることにした。彼女のクラスメイトから住所を聞くのは気まずいが、他に方法はなかった。

翌朝、真尋は千織のクラスメイトに勇気を出して尋ね、彼女の家のおおよその場所を聞き出した。放課後、自転車を飛ばして千織の家の近くへ向かった。地方都市の住宅街、こぢんまりした一軒家が並ぶエリア。千織の家は、門に「永井」と書かれたシンプルな家だった。真尋はインターホンを押すか迷いながら、門の前で立ち尽くした。

その時、家のドアが開き、千織が出てきた。彼女は制服ではなく、薄手のスウェット姿。髪は無造作に束ねられ、いつもより少しやつれているように見えた。

「真尋くん……? なんでここに?」

千織の声は驚きと戸惑いに満ちていた。真尋はキーホルダーを差し出した。

「これ、交差点で拾った。千織のだろ? なんか、来ないから……心配になって」

千織はキーホルダーを見て、目を丸くした。彼女は「T」の刻印を指でなぞり、胸に抱いた。

「これ……うそ、落としたの? ありがと、真尋くん。ほんと、助かった」

彼女の声は震え、まるで何か大切なものを取り戻したようだった。真尋は彼女の反応に、キーホルダーが単なる持ち物ではないと感じた。

「『T』って、千織のイニシャルだろ? ちおりの『ち』、英語で『Ti』ってことか」

真尋が尋ねると、千織は一瞬目を伏せ、苦笑した。

「うん、うん、そうだね。なんか、気に入ってるんだ、これ」

彼女の答えは曖昧で、真尋は違和感を覚えた。確かに「Chiori」の「ち」は「Ti」と読める。でも、千織の震える手、遠くを見る目。「T」は本当に彼女のイニシャルなのか? 別の誰かのものじゃないのか?

「千織、なんかあった? 学校も休んで、交差点にも来ないし」

真尋の直球な質問に、千織は軽く笑った。

「うん、ちょっと……体調悪くて。ごめん、心配かけた」

「体調? ほんとにそれだけ?」

真尋の声に、千織は目を逸らした。

「真尋くん、めっちゃ鋭いね。まあ、ちょっとゴタゴタしてただけ。もう大丈夫だから」

彼女の言葉は軽かったが、真尋は納得できなかった。千織の家の窓から、誰かの視線を感じた気がした。母親か、父親か。それとも――。

「ねえ、真尋くん。明日、交差点で会おう。ちゃんと行くから」

千織が急に言った。彼女の目は、いつもの輝きを取り戻しつつあった。

「ほんと? 約束な」

「うん、約束。午前2時の交差点、星見ようね」

千織はキーホルダーを握りしめ、軽く手を振って家に戻った。真尋は彼女の背中を見送りながら、「T」の刻印が頭から離れなかった。千織の秘密は、この小さな星形の金属に隠されているのかもしれない。

自転車を漕ぎながら、真尋は考える。あの交差点で感じる胸の疼き。千織のノートの日付。2024年3月15日。あの夜、真尋は親友を失った。事故の記憶が、断片的に蘇る。交差点でのサイレン、赤い光、誰かの叫び声。千織も同じ夜を記録していた。彼女が失ったものは何か。「T」は誰なのか。真尋はまだ知らない。でも、千織と過ごす時間が、その答えに近づいている気がした。

空を見上げると、雲の隙間から一つの星が輝いていた。シリウス。千織が「夜の王様」と呼んだ星。真尋はそれを「ひとりぼっちの光」と名付けたことを思い出し、胸が熱くなった。


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