第27話

 耳鳴りのような残響が、思考のすべてを塗りつぶしていた。意識の輪郭だけがぼんやりと浮かび、自分がどこにいて、何をしていたのか、定かではなかった。

 重い瞼をゆっくりと開くと、白い天井がゆっくりと焦点を結んでいく。どこか既視感を覚える模様。だが、それが今の記憶なのか、前のそれなのか、区別がつかない。

 リープの反動だろうか。全身を、不快な浮遊感が支配している。ゆっくりと上体を起こすと、息が詰まるほどの圧迫感が胸に張り付いた。

「……はぁ……っ……」

 言葉にならない吐息が、喉の奥から漏れた。

 そうだ。俺はもう一度、あの運命をやり直すことを選んだんだ。ただひとつの覚悟のために。

 枕元の時計は、午前八時すぎ。遠くで聞こえる鳥のさえずりが、やけに静かな朝を際立たせた。

 視線は、壁のカレンダーに吸い寄せられる。

 八月二十四日。紗季が自ら命を絶った、あの日。

 ふたりでずっと覚えていようと誓った約束を破り、天音を忘れた俺。そんな俺を見て、紗季は優しく微笑み、そして泣いた。誰もいない部屋に残されていた、あの手紙。「あなたと出会えて、私は幸せでした」

 もう二度と、同じ結末は繰り返さない。

 静かに目を閉じ、ひとつ、深く息をついた。そっとダイニングへ足を踏み入れる。

 ──いた。

 何年も求め続けて、何度も失った人が、そこにいた。

 静かに振り返った彼女の顔を見て、俺は息を呑んだ。

「おはよう、蓮くん」

 彼女は笑っていた。あの日の朝と同じ笑顔で。安堵と悲しみ、それらすべてが溶け合った、どうしようもない感情があふれてくる。

 声が出せない。ただ、涙で視界がにじみそうになるのを、奥歯を噛んで耐えた。

「どうかした?」

 紗季が不思議そうに首をかしげる。

「いや。……なんでもない」

 絞り出した声はひどく掠れて、まるで自分のものではないようだった。心の奥では、叫びたくてたまらなかった。その肩を抱きしめて、泣きながら全部をぶちまけてしまいたかった。でも今それをすれば、この脆い均衡はきっと壊れてしまう。

 だから、何も言わなかった。そして強く誓った。今度こそ、紗季をひとりにしない。と。

 テーブルの上には、彩りの良い朝食。卵焼き、焼き海苔、ほうれん草のおひたしに、味噌汁が並んでいた。

 あの日と寸分違わぬ光景だ。でも、俺だけが違う。全ての結末を知り、全ての喪失を抱えて、今ここにいる。

「すごいな。朝からちゃんと作って」

 感情を乗せすぎないよう、慎重に言葉を選ぶ。今の俺は、少しでも気を抜けば崩れてしまいそうだった。

「ふふ、たまにはね。今日は早く目が覚めたから」

 湯飲みに麦茶を注ぐ彼女の手つきも、どこまでも丁寧だった。けれど、その整いすぎた日常の風景は、美しく、そして恐ろしいほどに不自然に見えた。

 向かい合って座り、箸を取る。指先の震えを紗季に悟られないよう、深く息を吸い込んだ。

「……どう? 卵焼き、ちょっと味付け変えてみたんだけど」

「うん。……ちょうどいい」

 本当は、味なんてわからない。喉を生温いかたまりが通り過ぎていく、その感覚だけが残った。それでも、俺は咀嚼し、無理やり飲み込んだ。

「よかった。蓮くん、甘すぎるの、ちょっと苦手だったもんね」

「……覚えてたんだ」

「うん、なんとなく」

 紗季は、そう言って笑った。

「今日は、何か予定あるのか?」

「うん。……ちょっとだけ、出かけようかなって」

 その言葉が何を意味するのか、俺は知っている。

「……ねえ、蓮くん」

 少しの間を置いて、紗季が静かな声で言った。

「最近、よく笑うようになったよね」

「……そうか?」

「うん。……前よりもずっと、やわらかい顔してる」

「それは、いいことなのか?」

「もちろん。すごく、いいことだよ」

 微笑みながらそう答える彼女の表情が、静かに語っていた。

 ──本当に、今日で、終わらせるつもりなんだ。

 喉まで出かかった言葉を、必死で飲み込んだ。

 まだだ。ここで真実を告げれば、彼女はきっと、砂のように崩れてしまう。今はまだ、いつもの朝を演じきらなければ。

 扇風機の音と、窓の外から聞こえる蝉時雨が重なる。夏の朝らしい騒がしさの中で、俺たちの時間だけが、妙に静かだった。

「ありがとうね、蓮くん」

「……何が?」

「なんとなく。……こうやって一緒にご飯を食べられるのが、しあわせだなって、思っただけ」

 視線を伏せた彼女の横顔が、手の届かないほど遠くに見えた。

 それもきっと、彼女なりの──別れの言葉だったのだろう。俺は何も言わず、その想いを受け止めた。

 カチリ、と玄関のドアが閉まる乾いた音がした。ドア一枚を隔てた向こうで、紗季はたったひとり、終わりに向かって歩き出していた。

 俺はまだ、食卓の椅子に座り込んだままだった。

 ようやく視線を上げると、棚の上にあの日と同じ白い封筒──紗季が残した手紙が置かれている。けれど今、それを読むより先に、やらなければいけないことがある。

 玄関へ向かい、スニーカーに足をねじ込む。鉄の階段を一気に駆け下りて、駐輪場に停めていた自転車のハンドルを握った。

 河川敷までは、ここから直線で約五キロ。紗季は駅まで歩き、電車で向かうはずだ。到着までは三十分ほどかかる。今すぐ出れば、俺の方が先に着けるはずだ。

 理屈ではわかっている。それでも、心臓は焦燥感で焼けつきそうだった。間に合うという確信があっても、走り出さずにはいられなかった。ペダルを一気に踏み込み、街へと飛び出した。

 風が、耳の奥を裂くようにすり抜けていく。アスファルトを焦がす匂い、肌を刺す陽射し。遠ざかるサイレンの音。五感に飛び込む情報のすべてが、ざわつく鼓動をさらにせき立てた。

 交差点の赤信号が、永遠のように長く感じられる。青に変わった瞬間、立ち漕ぎでペダルを蹴った。重力も、風の抵抗も、何もかもを振り払うように。

 頭の中に、桜並木の幻がちらつく。俺の指を握る天音の小さな手。隣で微笑む紗季。その温もりを思い出すたび、胸を焼くような痛みが走る。

「ねぇ、パパ──」

 幻聴のような声が、耳の奥で木霊する。

 視界がにじむ。それでも止まれない。頬を伝った雫は、風にさらわれて背後へと消えた。拭うこともできず、涙だけが過去へ置き去りにされていく。

 それでも俺は、風を切る音にすべてをまぎらせて、ただペダルを踏んだ。

 やがて、河川敷の入り口が見えてきた。柵の脇に自転車を乗り捨て、地面を踏みしめる。

 ──行こう。

 土の道を、ただ駆ける。息が上がり、足が悲鳴を上げている。それでも止まらなかった。並木道の奥、かつて満開の桜が咲き誇っていた道が見える。今は深い緑の葉が茂り、まだらな陽光を地面に落としていた。

 あの場所で、すべてが終わろうとしている。

 それでも──俺は、先に行く。

 緑陰の静けさの中を、息を切らしながら走った。

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