第十三部 "正義執行"
喫茶店の中には一種異様な静寂が入り混じった空気が漂っていた。
アレクセイは、未だ震えの止まらない娘を固く抱きしめ、僕たちは、あまりにも大きな存在との遭遇に、ただ立ち尽くすことしかできなかった。
落ち着きを取り戻した後、僕は黒澤さんに尋ねた。
「ところで…イリーナを襲った兵士たちの人相に、何か特徴はありましたか?」
僕がそう問うと、彼は何かを思い出そうと眉を寄せた。だが、彼が口を開くよりも早く、父親の腕の中から顔を上げたイリーナが、はっきりとした声で言った。
「…前に、セルゲイさんがやっつけてくれた人たちだった」
その言葉に、僕の腹の底で、再び怒りの炎が燻り始めた。
「…また、あいつらか」
一度ならず、二度までも。
あの男たちは、僕が下した「警告」を何とも思っていなかったのだ。
それどころか、僕への報復という意味合いも込めて、より弱い存在であるイリーナを狙ったのかもしれない。
だとしたら、絶対に許すわけにはいかない。このまま放置すれば、また同じことが、あるいはもっと悲惨な事件が起こるだろう。どうにかしなければ。
僕の殺気立った気配を察したのか、黒澤さんが静かに問いかけてきた。
「あの兵士たちは、初犯ではなかった、ということですかな?」
「せや。この前も、この店でイリーナちゃんに因縁つけとったんや。まあ、その時はセルゲイはんが拳で解決したんやけどな」
三上が、まるで自分の手柄のように胸を張って答える。
「なるほど…」
黒澤さんは眉間に深い皺を寄せ、しばらく沈思黙考していたが、やがて顔を上げると、僕たちに意外な提案をした。
「私の知り合いに、関東軍の上層部の人間がおります。もしよろしければ、私が彼にこの件を直接伝えてみましょうか」
「上層部…ですか?」
仁が、訝しむように聞き返す。一介の衆議院議員が、軍の内部問題にどこまで介入できるというのか。
「ええ。ここウラジオストクに駐屯する、第三師団の師団長ですよ」
その言葉に、僕と仁、そして三上は、文字通り仰け反って驚いた。師団長…?僕たちの直属の、最高指揮官ではないか。
「ぎ…議員さん、あんた一体何者やねん…」
三上が、呆然と呟く。
どれだけ顔が広いのだ、この人は。
ただの議員が、師団長と個人的な繋がりを持つなど、普通では考えられない。
「いえ、彼とは戦友でしてね」
「それに。ちょうど先日、セルゲイさんを車に乗せた日ですね。ある陳情でお会いしたばかりでしてね。また時間を作って、お会いしてみますよ。…ただし」
黒澤さんは、そこで一度言葉を切り、イリーナとアレクセイに視線を向けた。
「事が収まるまで、イリーナさんは、なるべく店から出ない方が賢明でしょう」
彼の言葉は、穏やかでありながら、逆らうことのできない重みを持っていた。
その日、僕たちは黒澤さんと別れ、重い足取りで駐屯地へと帰った。
それから数日間、僕たちの日常に大きな変化はなかった。
ただ一つ、街で巡回任務に就いても、あの三人組の姿を見かけることは、二度となかった。黒澤さんが、既に行動を起こしてくれたのかもしれない。
そして、二日ほど時間が経ったある日の午後。
僕たちが警備の合間に例の喫茶店に立ち寄ると、そこには先客がいた。
窓際の席で、一人静かに珈琲を飲んでいる、黒澤さんだった。
僕たちが挨拶をすると、彼は穏やかに微笑み、手招きをした。
「やあ、皆さん。お勤めご苦労様です」
「黒澤さんこそ。…あの、先日お話しされていた、兵士たちの件ですが…」
僕が切り出すと、彼はカップをソーサーに置き、満足げな笑みを浮かべた。
「はい。私の知り合い…師団長殿に直接お話ししたところ、彼は顔を真っ赤にして怒り、"帝国軍人の恥だ"と、即刻彼らを処罰すると約束してくれましたよ」
その言葉に、僕たちは安堵の息を漏らした。
仁が、興味津々な様子で尋ねる。
「ちなみに、処罰とは、具体的にどのようなものになったのでしょうか?」
「処罰ですか。ええ、彼らは…"異動"となりました」
「異動?」
その言葉を聞いた三上が、すぐに懸念を口にした。
「異動て…。それやと、行った先でまた同じようなことするんとちゃいますのん?」
それは、僕も同じように感じていた疑問だった。
ただ場所を変えるだけでは、何一つ解決にはならない。だが、黒澤さんは悪戯っぽく笑いながら言った。
「心配ご無用。彼らの新しい任地は、インドシナの最前線です」
「インドシナ…」
仁が、息を呑む。
「ええ。ご存知の通り、あそこは排日ゲリラの活動が最も活発な地域の一つ。
昼夜を問わず、ジャングルの中から銃弾が飛んでくるような場所です。
そんなところで、非武装の少女を相手にしていたような彼らが、同じような真似をする余裕などないでしょう。まあ、生き延びられれば、の話ですが」
彼は穏やかに笑っていた。
だが、その言葉が意味するのは、事実上の"死刑宣告"に他ならなかった。
軍の規律で裁くのではなく、より過酷な戦場というシステムを利用して、社会から静かに抹殺する。
それが、この黒澤という男の、そしてこの世界の"正義の執行"のやり方なのだ。
僕たちは、その冷徹な現実に、ただ苦笑いを浮かべることしかできなかった。
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