第7話 よくわからない感情
この日の朝は挨拶運動の役目もなかったため、私は校門には立たなかった。
けれど、使命感に駆られるようにして、生徒たちが使用する下駄箱を見渡せる位置にいると、人混みを縫うように歩く月影美咲の姿を見つけた。
(今日も何かしら校則違反を……)
そう思いながら、私は最初に彼女の服装をじっと見つめた。けれど、それは私の予想に反して完璧だった。
スカートの丈はきちんと規定通りに保たれ、短くしたり、無理やり上げたりしている様子はない。
スクールシャツのボタンも首元まで全て丁寧に留められており、胸元を大きく開けているような挑発的な着こなしはしていない。
靴下の色も学校で正しく指定された清楚な白で、ルーズソックスのようなだらしない履き方はしておらず、足元まで清潔感が漂っている。
どこをどう見ても、今日の彼女の服装に校則違反と呼べるようなものは何一つ見当たらない。それはまるで、優等生そのものと言えるような完璧な着こなしだった。
私は、まるで何かの間違いではないかと疑うように、思わず何度もまばたきをしてしまった。
(そんなはずはない……何か、私の目を欺こうとするような小さな違反が隠されているはず……。あの月影美咲が、こんなにも"完璧"であるわけがない)
何かと問題を起こす彼女が、急に優等生のように振る舞うことなど考えられなかった。
いつものように彼女に注意するきっかけを見つけようと、私はさらに細かく彼女を観察した。
眉の形に不自然な描き足しがないか、まぶたにラメが光っていないか、爪先に薄くでもマニキュアが塗られていないか。
しかし、どれだけ目を凝らして探しても、今日の彼女はまるで別人のように完璧で、非の打ち所がなかった。それは、彼女が私の期待を良い意味でも悪い意味でも裏切ったように思えた。
彼女はそんな私の様子に気づいたのか、ふっと、まるでいたずらっ子のような笑みを浮かべた。その笑顔は私をからかうと同時に、私の心の奥底に眠る感情をほんの少しだけ揺さぶってくる。
「先生、そんなに見つめられると照れるんだけど。もしかして、あたしが校則違反をしていないのが嫌なの?」
彼女は挑発するような、それでいてどこか甘えたような声音でそう言った。その言葉は私の心をざわつかせ、平静を装っていた私の仮面を剥がそうとするかのようだった。
「違うわ。勘違いしないで」
そう即座に否定するものの、なぜかその言葉は喉の奥で少し引っかかった。
彼女はそれ以上何も言わず、気まぐれな猫のような笑みを浮かべると、そのまま教室の中へと入っていった。何かを達成したような……あるいは、遊び終わったおもちゃを置いていくような、そんな余韻を残して。
置き去りにされた私は、まるで嵐が過ぎ去った後のように、妙な気持ちのままその場に立ち尽くすことしかできなかった。
彼女のあの挑発的な言葉が、私の心の奥底にまるで波紋のように広がり、様々な感情を呼び起こす。それは、今まで教師として生きてきた私にとって、全く未知の感情だった。
(私は……彼女に校則違反をしてほしかったの? 彼女を指導するという名目で、もっと彼女と関わりたかったの? 放課後の生徒指導室で二人きりの時間を過ごすことを、心のどこかで期待していたの?)
教師としてあるまじき不純な考えが私の脳裏をよぎり、心を激しく揺さぶる。それは、まるで心の奥底に封印していたパンドラの箱を開けてしまったかのようだった。
私は、このよくわからない感情をどうすればいいのか分からず、教室の扉が閉まる音がしても、その場から動くことができなかった。
朝の光が差し込む廊下には、すでに生徒たちの声や足音が満ちていた。それはいつもと変わらないはずの朝の喧騒だったけれど、私にはそのすべてが、どこか別の世界の音のように感じられた。
まるで自分だけが、その世界から切り離された場所にいるような――そんな孤独感。
私はようやく重たい足を動かして、ホームルームの準備をしようと職員室へ向かい始めた。けれど……歩きながらも、さっきの月影美咲の言葉が頭の中で何度も繰り返されていた。
『先生、そんなに見つめられると照れるんだけど。もしかして、あたしが校則違反をしていないのが嫌なの?』
どうしてあんな言い方をするのだろう。
どうして、あんなふうに笑えるのだろう。
どうして、私の心をこんなにもかき乱すのだろう――。
私は教師で、彼女は生徒。越えてはいけない一線がある。いや、本来は越えようとすら思わない。それが当たり前の関係性のはず。
なのに、私はあの子の些細な一挙手一投足に心を囚われている。
それが教師としての責任感なのか、それとももっと別の、曖昧で危うい感情なのか、もはや自分でもわからなかった。
職員室のドアを開けると、慌ただしく朝の準備を進める教師たちの声が耳に入った。そこは現実で、私のいるべき場所。けれど一歩踏み入れても、心のどこかがまだあの廊下に置き去りにされたままのようで、どうしても完全には戻ってこられなかった。
「朝比奈先生、おはようございます」
同僚の声に、私は慌てて顔を上げ、いつものように笑顔を作って返事をした。
けれど、その声が自分のものとは思えないほど遠く感じた。
机に座り、出席簿を取ろうとして、手がふと止まる。そこに書かれた「月影美咲」という名前を見つけた瞬間、心臓が小さく跳ねるように脈打った。
(私は……彼女を、ただの生徒として見ていないのかもしれない)
その認識は喉の奥にひっかかり、吐き出すことも飲み込むこともできないまま、静かに私の胸に沈んでいった。
今日もいつもと変わらない一日が始まるはずだった。けれど、私の中ではもう、何かが確かに変わり始めていた。
その変化がどれほど危ういものであるかに、私はまだ気づいていなかった。いや、気づきながら目を逸らしていただけなのかもしれない。
(このままでは、いけない)
そう思った。そう思っているはずなのに――――
私は今日もまた、彼女を目で追ってしまうのだと……どこかで確信していた。
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