第3話 少し嬉しそう
朝の空気は、まだ夜の静けさを残しているかのように澄み渡り、少しだけひんやりとしていた。
私は校門の前に立ち、登校してくる生徒たち一人ひとりに、できるだけ明るく、はっきりとした声で挨拶をする。
「おはようございます」
赴任して間もなかったころの私にとって、この慣れない挨拶運動は少し気恥ずかしかった。けれど、こうして生徒たちの顔を直接見て言葉を交わすのは、決して悪くないものだと最近ようやく感じ始めていた。
返事を返してくれる生徒の様々な反応が、私に教師としての実感を与えてくれている。
そんな中、ふと視線の端に見覚えのある姿を捉えた。
長い黒髪をなびかせながら、まるで周囲とは異なる時間の流れの中にいるかのようにゆったりと歩いてくる少女——月影美咲。
何気なく彼女を見つめていたその瞬間、妙な違和感を覚えた。それはすぐに言葉で明確に説明できるものではなく、まるで何かがほんの少しだけいつもと違うような、そんな感覚だった。
(……何?)
その違和感の正体を探るように、私は彼女の姿をじっくりと見つめた。すると、髪の毛の一部が、光の加減によってはほとんど見分けがつかないほど微かに、しかし確実に明るい色に染まっているように見えた。
「————月影さん」
私は、少しだけ声を張り上げて呼びかけた。すると彼女はすぐに私の方を向いた。そして、いつものように余裕の笑みを浮かべてくる。
「あ、先生。おはようございます」
「おはようございます。……その髪、どうしたの?」
私の視線が自身の髪に向かっているのを察しながらも、彼女は少しだけ首を傾げ、まるで私の言葉の意味が分からないとでもいうように無邪気な表情を浮かべた。
「何のこと? あたしの髪に何か変なところある?」
「そこ、メッシュが入ってるわね」
彼女の長い黒髪の中に、細く入った明るい色。光の加減によっては気づきにくい程度ではあるが、それでも確実に校則違反だった。
これは、彼女なりの抵抗の表れなのだろうか。それとも、単なる気まぐれなのだろうか。
すると、彼女はふっと、まるで小さな花が咲くように艶やかに笑った。
「先生、よく気づいたね。さすが、あたしのことよく見てるね」
「当然です。私はあなたの担任の教師ですから」
それを聞いて、彼女はほんの少しだけ目を細めた。その表情は、なぜか満足げにも見えた。
「校則では、髪を染めるのは明確に禁止されています。反省文を書くために、放課後に生徒指導室へ来なさい」
「はいはい、分かったよ。先生がそこまで言うなら、ちゃんと心を込めて反省文を書くよ」
彼女は軽く手を上げ、面倒くさそうに——いや、むしろ楽しんでいるような様子で答える。
その言葉に、私は戸惑いを隠せずわずかに眉をひそめた。
(……なぜ、こんなに素直なの?)
あの手この手で言い逃れをしたり、人の反応を試すように言葉を重ねてきたであろう彼女が、今回に限ってはまるで別人のように、あっさりと私の指示に従っている。それどころか、その表情には叱られることを内心で喜んでいるかのような、不思議な感情すら見て取れた。
「月影さん……どうしてそんな顔をしているの?」
私は、彼女の真意を探るように直接的な言葉で問いかけた。
「え?」
「まるで、叱られることを少し嬉しそうにしているように見えるわ」
私の問いかけに、彼女は少しだけ驚いたように目を見開く。
だけど、すぐにまた笑みを浮かべた。
「先生、深読みしすぎ。ただの気まぐれだよ。たまにはこういう気分の日もあるってだけ」
そう言い残して、彼女はゆっくりと校舎へと向かっていく。
けれど、私は彼女の背中を見つめながら、やはり妙な違和感を拭いきれなかった。
なぜ、彼女はあんなにも素直に反省文を書くと言ったのか。
なぜ、彼女は叱られることを「少し嬉しそう」にしていたのか——。
それは、単なる私の考えすぎなのだろうか。それとも、彼女の行動の裏には、何か隠された複雑な意図があるのだろうか。
私は、その答えを探し求めずにはいられなかった。
◇
朝のホームルームが終わり、私は一人、生徒指導室の前に立っていた。
扉の向こうからは、机の脚がわずかに軋む気配だけが聞こえる。その静けさに、ためらいを覚えながらも、私は小さく息を吸ってからノックした。
「失礼します。朝比奈です」
中には、生徒指導部を主導する山本先生がいた。無駄口を叩かない実直な人物で、書類の山と向き合っている姿はいつもと変わらない。
「朝比奈先生。どうかされましたか?」
「月影美咲さんのことでご相談がありまして。今朝、髪を染めていたのを確認しましたので、校則違反に対しての指導をお願いしたいのですが……」
私はできるだけ冷静に、そして客観的に事実を伝えた。しかし、私の言葉が終わるか終わらないかのうちに、山本先生は一瞬だけ手を止め、その表情をほんのわずかに曇らせた。
「……月影美咲さん、ですか。彼女が理事長のお孫さんであるということは先生も重々ご承知のことと思います。彼女の扱いは非常に難しい。正直に申し上げて、我々が直接指導にあたるのは控えたいところです」
控えたい? それが生徒指導を担う教師の言葉なのか。
彼の言葉は、私にとって信じがたいものだった。それは、教師としての職務放棄にも等しいのではないかとさえ感じられた。
「……では、せめてこの場所だけをお借りすることは可能でしょうか? 指導自体は私が責任を持って行いますので」
私の声は自分でも驚くほど硬く、静かな怒りと失望が入り混じって、わずかに震えていた。
山本先生は、再び書類に目を落としながら、まるで事務的な手続きを淡々とこなすように、そっけなく頷いた。
「それでも構いませんが、今回の件は、あくまで朝比奈先生個人の判断によるものです。生徒指導部の立場としての判断、そして学校全体の総意とは一切関係がないということにさせていただきます」
「……ありがとうございます」
口ではそう言いながらも、胸の奥には、じわりと苛立ちと不満が広がっていた。
(結局、誰も何も言えない。理事長の孫娘だからという理由だけで、彼女を例外扱いにするなんて……)
そんな不公平で理不尽な状況に、私は心の底から腹が立った。しかし、ここで感情的に文句を言っても、きっと何も変わらない。
私は軽く頭を下げて、生徒指導室を後にした。
手に入れたのは、たった一つの「場所」だけ。それでもやるしかない。教師として、見て見ぬふりはできない。
内心のざらつきを胸に押し込みながら、私は次の授業の準備へと向かって歩き出した。
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