責任取ってください、先生
恋みぞれ雨
第1話 ――――月影美咲
私……
初めて教壇に立った日のことは未だ記憶に新しい。少し震える手で教科書を持ち、生徒たちの目線に緊張しながらも、どうにか教師であろうとしていた。
あれから一年が経ち、ようやく仕事の流れにも、生徒たちとの距離感にも慣れてきたと感じている。
けれど、その慣れと引き換えに別の重さがのしかかるようになった。
今年から私は一年A組の担任になった。副担任の頃とは比べものにならない責任が、日々私の肩に重くのしかかっている。
生徒たちは私を信頼してくれているのか。私の言葉は、彼ら彼女らの心に届いているのだろうか。
そんな不安を抱えながらも、振り払うように職員室の扉を開け、今日も足早に教室へと向かった。
しかしその朝―――私は、教室の扉を開けた瞬間に思わず立ち止まってしまった。
朝のホームルーム前、まだ生徒たちのざわめきが教室を満たし、窓から差し込む朝日が教室に活気を与えている。それは、普段から見慣れているごくありふれた光景。
――――その騒がしさの中に、明らかに異質で不穏な「静けさ」があることを除けば。
教壇の椅子に、一人の女子生徒――――
「おはようございます、先生」
そう告げる声には、幼さよりも余裕があった。
彼女の存在は、この学園において異質だ。理事長の孫娘という肩書きは、彼女にある種の免罪符を与え、中学時代から教師たちが下手に手出しをできなかったと聞いている。
授業中の彼女はほとんどノートを取らず、時にはわざとらしく溜息をつきながら窓の外を眺める。そうした日々を我慢して一か月ほど過ごした昨日――――
私は、彼女に初めて注意をした。
『……月影さん。授業中はノートを取りましょう。話を聞いているだけではわかったつもりになってしまいますよ』
少しでも真摯に向き合いたくて、私なりに言葉を選んだつもりだった。けれど、返ってきた言葉は薄く笑いを含んだ声だった。
『そんなに真面目にやらなくても、この学校は卒業できるよ。先生も大変だね』
その一言は、私の心に小さな棘となって突き刺さった。まるで、私の努力や熱意なんて何の意味もないと言われたようだった。
そして今――――そんな彼女が教壇の椅子に座り、私を見つめている。
それは挑発とも、諦めとも、興味ともつかない複雑な色を孕んだまなざし。まるでこちらの反応を待っているかのような、意図的な静けさと緊張感があった。
きっと私の声は届かないとわかっていても、それでも彼女を放っておけなかった。
「……月影さん、そこは教師の席よ。自分の席に戻りなさい」
声が思ったよりも冷たくなってしまったのを、私はすぐに自覚した。けれど、彼女は少しも動じない。ただ肩をすくめ、わざとらしく唇の端をゆるめた。
「はいはい、ごめんなさい。でも、先生がどんな気持ちで授業してるのか気になっちゃってね」
その声はどこまでも軽く、悪びれる様子など一切なかった。
彼女は椅子に腰かけたまま、教壇の机に細く長い指先を這わせる。机の木目をなぞるようにしながら、そのまま机の端に両手をつき、ゆっくりと体を起こしてくる。
制服のスカートがわずかに揺れ、彼女の身体が私の方へと静かに迫ってきた。
そうして互いの距離は、手を伸ばせば届くほどに。
「先生、確か二年目でしょ? どう? この学園にはもう慣れた?」
その囁く声は、甘く湿った春の空気のように耳元にまとわりついて離れない。
他の生徒たちはそれぞれの席でおしゃべりを続けているけれど、まるでここだけ異なる空気が流れているかのようだった。
彼女の問いかけは単なる雑談に見えて、明らかにこちらの反応を探っているような気がした。
「生徒が教師をからかうものじゃないわよ」
必死で冷静を装って返すけれど、彼女は楽しげに目を細めただけだった。
「からかってなんかないよ。ただ……先生がどこまで先生らしくいられるのか、興味があるだけ」
「……一体何が言いたいの?」
私がそう問い返すと、彼女は小さく笑った。
「先生って、意外とすぐにカッとなるんだね。もっとポーカーフェイスかと思ってた」
その言葉に、私はハッとする。知らぬ間に声に力がこもっていた。彼女の挑発に乗せられたのだと気づき、悔しさがこみ上げる。
「……もうすぐホームルームの時間よ。席に戻りなさい」
「はーい。あたしはいい子だからね」
彼女はゆっくりと立ち上がり、それでも最後にもう一度、私の顔を覗き込んできた。その瞳には、先ほどよりも深い、しかしどこか悲しげな色が混じっていた。
「でも先生は……あたしのこと、これからちゃんと面倒見てくれるよね?」
その囁きは、逃れられない呪いのように私の心にまとわりついてきた。
彼女が席に戻った後も、私はしばらく胸の奥のざわめきを抑えきれなかった。それは、ただの戸惑いや苛立ちといった単純な感情ではなく、もっと曖昧で、複雑で、名前を持たない波のようなものだった。
教師になって、こういう生徒に出会うことはあるだろうと覚悟していた。生意気で、挑発的で、教師を困らせることを楽しんでいるような生徒。けれど、月影美咲はそれだけではない気がする。
彼女の挑発にはきっと意図がある。それは単なる反抗や興味ではなく、もっと深い何かに根ざしているような――――。
(……気にしすぎだろうか)
ホームルームが始まり、連絡事項を伝えながら心を落ち着かせようとする。そうして授業が始まれば、いつもの私に戻れるはずだと思っていた。
だけど、それは思ったよりも難しかった。
授業が始まるも、彼女は今日もほとんどノートを取らない。ペンを指で回しながら、気まぐれに文字を書いてはまた止める。時々私と目が合うと、意味ありげに微笑む。
まるで、私の反応を試しているかのように。
教師として教室の秩序を守るためにも、授業に参加しない生徒は見過ごせない。けれど、理事長の孫娘という彼女の立場が、私の言葉を一歩引かせようとする。
それでも、私は彼女を特別扱いするつもりなどなかった。
(……どんな生徒が相手でも、毅然とした態度を取るのが教師でしょう?)
「月影さん、授業に集中しなさい」
「聞いてるよ?」
その声には、挑発というよりも余裕があった。まるで「これぐらいで動じると思ってた?」と言わんばかりに。
彼女は微笑みながらノートの端に意味のない線を描く。その手つきは、まるで私の言葉を嘲笑うかのようだった。
「先生の声って、意外と落ち着くんだよね」
教室が静まり返る。私と月影美咲のやり取りを、クラスの生徒たちが固唾をのんで見守っているのが分かった。
教師としてここで退くわけにはいかない。ここで退けば、教師としての威厳が失墜し、この先の授業にも影響が出るだろう。
「私の授業は子守唄ではないわ」
「知ってるよ。でも、先生の声ってなんか……心地よくて」
彼女はくすっと笑い、ゆっくりと背もたれに寄りかかった。私の反応を、まるで猫がネズミを弄ぶかのように楽しんでいるようだった。
それ以上、私は何も言えなかった。言葉が見つからなかった、というのが正直なところだった。
それよりも私の心中にあったのは、あの笑顔の奥に一体何が隠されているのだろう、彼女の本心はどこにあるのだろうという思いだった。
そんな好奇心が、すでに教師としての一線を越えかけているのだと気づかずに。
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