第二章:癒えぬ傷痕

 フリーシア・クリスタルを打ち破った高揚感の片隅で、俺の脳裏を掠めたのは、いつだって不意に蘇るあの日の記憶。

 そうだ、あれは忘れもしない、七年前の出来事だ――。


 ◇

 

 あの頃の俺は、まだ十歳。

 今の俺からは想像もつかないだろうが、それはもう絵に描いたような普通の、いや、どちらかと言えば気弱なガキだった。


 故郷の村の傍にある森が、俺と一番の親友だったリズの遊び場だった。

 リズは快活で、いつも俺を引っ張ってくれるような、太陽みたいな女の子。


 彼女が覚えたての小さな炎の魔法を見せてくれるたび、俺は目をキラキラさせて「すごいよ、リズ! 俺も早く魔法が使えるようになりたいな!」なんて、無邪気に夢を語っていたもんだ。


 その日も、俺たちはいつものように森で遊んでいた。

 リズが「見てて、レイン!  新しい魔法、ちょっぴり大きいのを覚えたんだ!」と、得意げに詠唱を始めた。

 彼女の小さな手のひらに、今までで一番大きな炎の玉が揺らめいた。


「うわぁ、すごいじゃないか、リズ!」


 俺が手を叩いて褒めた、その瞬間だった。


「グルルルルルァァァァッ!!」


 森の奥から、獣の咆哮が響き渡った。

 地面が震え、木々がざわめく。

 

 茂みから飛び出してきたのは、巨大な黒狼――“ナイトウルフ”と呼ばれる、この辺りでは最も凶暴とされる魔獣だった。

 鋭い牙を剥き、血走った目で俺たちを睨んでいる。


 リズは恐怖でその場に立ち尽くし、顔面蒼白で震えていた。

 俺だって怖かった。

 足が竦んで、声も出ない。


 でも――リズが危ない。


 その一心だった。気弱な俺のどこにそんな勇気があったのか、今でも分からない。

 ただ、気づいた時には、俺はリズの前に立ちはだかっていた。

 

「リズに…………手を出すなぁぁぁっ!!」


 守りたい。

 その純粋な、しかし制御できない感情が、俺の中で何かのタガを外したんだと思う。


 次の瞬間、俺の体から、今まで感じたことのないような凄まじい魔力が、まるで堰を切ったように溢れ出した。

 蒼白い光が俺の全身を包み込み、意識が急速に遠のいていく。


 何が起こっているのか、自分でも分からない。

 ただ、途方もない力が、俺という器から暴れ出そうとしているのだけは感じた。


 破壊の衝動。


 目の前の全てを薙ぎ払い、消し去ってしまいたいような、そんな黒い何かが俺を支配する。


 ――気づいた時、森は変わり果てていた。

 

 俺が立っていた場所を中心に、木々は根こそぎなぎ倒され、地面は抉れ、まるで巨大な爪で引き裂かれたかのようだ。

 ナイトウルフの姿はどこにもなく、おそらく俺の魔力で消し飛んだのだろう。

 

 そして、俺の目の前には――血に濡れて倒れているリズの姿があった。

 彼女の右腕は赤黒く染まり、苦痛に顔を歪ませ、か細い息をしている。


「リズ…………? あ…………あぁ…………」


 頭が真っ白になった。

 

 何が起きた?  俺が、やったのか?


 自分の手を見る。

 その手は、リズを傷つけた血で汚れてはいなかった。

 だが、この惨状を引き起こしたのは、間違いなく俺の力だ。

 リズを守りたかったはずなのに。

 俺が、リズを…………。


「リズッ!  ごめん…………!!」


 俺は、ただ泣き叫ぶことしかできなかった。


 これが、俺の「力」の最初の記憶。

 そして、決して消えることのない、罪悪感の始まりだった。


 ◇

 

 リズは幸い一命を取り留めたものの、右腕には大きな火傷のような痕跡が残り、繊細な魔力操作を必要とする魔法を使うには、大きなハンデを負うことになった。

 

 当然、俺は村中の大人たちから激しく非難された。

 

 「化け物の子」――そんな言葉が、ナイフのように幼い俺の心に突き刺さった。


 両親も、俺の異常な魔力と、それが引き起こした惨事を目の当たりにして、日に日に俺を恐れるようになった。

 食卓での会話は消え、父さんの視線は俺を避けるようになり、母さんは俺に触れることさえ躊躇うようになった。


「お前は…………普通じゃないんだ…………」


 ある日、父さんが絞り出すように言ったその言葉が、俺と家族の間に決定的な溝を作った。


『魔力異骸症(まりょくいがいしょう)』


 それが、俺に下された診断名だった。

 体内に宿す魔力量は常人の千倍以上と異常に多いが、それを魔法という形で正常に行使することができず、感情の昂ぶりなどによって暴走を引き起こす、極めて稀な症状。

 

 治療法は、ない。


 要するに、規格外の魔力を持て余す、ただの“出来損ない”ってわけだ。


 それでも、俺は力の制御を諦めたくなかった。

 リズを傷つけてしまった償いのためにも、この力を、いつか誰かを守るために正しく使いたい。

 その一心で、俺はクリスタリア魔法学院の門を叩いた。

 異骸症の研究対象として、特例で入学が許可された。


 だが、そこでも現実は厳しかった。

 

「欠陥者」「危険分子」――それが、学院での俺の呼び名だった。

 

 座学はともかく、実技の授業では、俺の魔力は常に暴走寸前だった。

 魔法陣を描こうとすれば魔力が溢れて魔法陣自体を焼き尽くし、魔法薬を調合しようとすれば薬品が勝手に爆発する。


 周囲の生徒たちは俺を化け物でも見るように遠巻きにし、教師たちも完全に持て余していた。


 そして、運命の日。

 

「レイン・ストーム君。君の存在は、他の生徒たちにとって、もはや脅威でしかない。これ以上、このクリスタリア魔法学院に君を留め置くことはできないと判断した。…………退学だ」

 

 学院長室。

 壮麗な調度品に囲まれたその部屋で、学院長は俺に冷徹な宣告を下した。


 彼の瞳には、憐憫も、期待も、何も映ってはいなかった。

 ただ、厄介払いをするときの、あの目だ。


「待ってください!  俺はただ、この力をコントロールしたいんです!  誰かを傷つけるためじゃない!  どうすればいいのか、それを学びたいだけで……!」

 

 必死に食い下がった。

 みっともないと分かっていても、ここで引き下がるわけにはいかなかった。

 ここで見放されたら、俺にはもう、どこにも行く場所がない。


 だが、学院長の決定は覆らない。

 

「君のその“力”は、残念ながら、制御できる類のものではないのだよ。我々にも、どうすることもできない」


 その言葉は、俺にとって死刑宣告にも等しかった。


 雨が降りしきる中、クリスタリア魔法学院の壮麗な正門を、俺は一人、とぼとぼと後にした。

 肩を濡らす冷たい雨粒が、まるで七年前にリズを傷つけたあの日の雨と同じように感じられて、どうしようもなく惨めだった。


 希望なんて、どこにもありはしなかった。


 ――あの時までは。

 

 そう、あの薄暗い異骸区の路地裏で、あの変わり者の爺さん……いや、師匠と出会う、その時までは。

 絶望のどん底で、俺はほんの僅かな、しかし確かな光を見つけたんだ。


 それが、今の俺へと繋がる、全ての始まりだった。

 

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