第11話 由良健太郎
「すみません」
少年は
「
日野は唐突に言って、頭を下げた。首筋を伝った汗がアスファルトに落ちる。今日は特に日差しが強い。一足飛びに季節が変わったようだった。
「休憩したいので、付き合ってもらえますか。そこで話を聞きましょう」
由良は日野を連れてホテルに近い喫茶店へ入った。昔ながらの古風な純喫茶で、店主の愛想はないがコーヒーがうまい。滞在中は幾度となく通っていた。
「好きなものを頼んでください。おごりますから」
「いえ、大丈夫です……」
日野は運ばれた水を一気に飲み干した。由良はハンカチを差し出す。
「汗を拭いてください。返さなくて結構ですから。顔色が悪い。熱中症になりますよ」
由良は店員を呼んで、コーヒーとオレンジジュースを注文した。
「すみません……」
日野は大人しくハンカチを受け取って、汗をぬぐった。首元に大きな汗じみができている。
「ここのオレンジジュースはおいしいですよ。生絞りですから」
「あの、櫛田になにがあったのか教えてほしいんです」
日野はびしょびしょになったハンカチを握りしめたまま、由良の言葉を遮るように言った。
「どこからわたしのことを?」
「
「ああ、そうですか」
由良は頷いた。関とは以前に別件で知り合いになった。名前を聞くのは久しぶりだったが、さほど珍しいとも思わなかった。由良のような隙間商売だと、各地を巡っていても自然と同じような顔ぶれが集まるものなのだ。
「霊感があるって。最初は信じられなかったですけど、相模のことを聞いて……腑に落ちる部分がありました。俺は櫛田を助けたいんです。関って人は、何もできないって……それでも食い下がったらあなたのことを教えてくれました」
「なるほど」
由良は数日前にショッピングモールを訪ねていた。そこで知り合いの職員と少し話をした。関とは会わなかったが、どこかから聞き及んだのだろう。
「失礼ですが、あなたと櫛田さんの関係は?」
「……友人、です」
日野はためらいがちに答えた。オレンジジュースとコーヒーが運ばれてきて、会話が途切れる。店員が去ったあと、由良は口を開いた。
「わたしも仕事なので、個人情報を漏らすのは信用に関わりますからね」
コーヒーに口をつける。挽きたての豆の香りが鼻を抜けていった。
「それは、答えてもらえないってことですか?」
「答えられる範囲でお答えします、ということです」
日野はオレンジジュースには口をつけず、脇に置いた通学鞄を開けた。取り出したものを机の上に置く。手の平サイズの白いぬいぐるみだった。
「かわいらしいですね」
由良は詳しくないが、見覚えはある。若い人の間で流行っているという認識だった。おそらくクマを模したキャラクターで、凝った衣装を着ていた。
「家に届いていたんです。でも住所も何も書かれてなくて……たぶん直接ポストに入れたんだと思います。誰が入れたのかはわかっています。
「どうしてそう思われるんです?」
「相模が持っているのを見たからです。でも、もとは櫛田のものだった。これすごくレアなやつで、この辺には売ってないんですよ。とっくに完売してるし……背中をみてもらえますか?」
由良はぬいぐるみを手に取った。日野の言う通りに背中を見たが、特におかしいところは見当たらない。矯めつ眇めつしていると、日野が手を伸ばしてきた。
「この下です」
日野はぬいぐるみに着せてある衣装のボタンを外した。脱がすと、背中の真ん中が割けて、中の綿が覗いていた。
「これは?」
由良が尋ねると、日野は胸ポケットから四つ折りになった紙片を取り出した。
「中に入っていました」
紙を開くと『くしだななは』と書かれていた。子どもっぽい歪んだ字体だ。
「これはどういうことなんですか? 相模は櫛田になにかしたんでしょうか」
日野は早口で詰め寄った。由良は仕事が長引きそうな予感を覚えて、内心でため息をつく。今回は観光する余裕はなさそうだ。由良は出張で訪れた地の遺跡や史跡を巡るのを楽しみにしていた。
「一応最初に忠告しておきますが……あなたがただの友人なら、この件には関わらないほうがいい。このぬいぐるみも、しかるべきところで処分してもらったほうがいいでしょう」
由良が言うと、日野は眉を寄せる。黒目がちな瞳に力がこもった。
「櫛田は俺に助けを求めてきたんです。ただの友人だとしても、放っておけません。それに……俺は櫛田のことが好きなんです。好きな子を助けたいと思うのは当然じゃないですか?」
「そうですか。いえ、中途半端な気持ちで関わるとミイラ取りになりかねませんからね。覚悟がお決まりなら、わたしもできる限りお話しましょう」
由良が言うと、日野は体を椅子に戻した。
「由良さんにも霊感があるんですか?」
「いえ、わたしはまったくありませんね」
日野は拍子抜けした顔をする。
「わたしの仕事は人間関係の清算ですから」
由良は名刺を取り出して、日野の前に置いた。日野は目を落としたが、ピンとこないようだ。それもそのはずで、由良はわざと何をしているかあいまいな名刺を作っていた。
「どんな分野にも専門家がいますよね? 大きな企業だと大体どんな問題が起きても対処できるルートが確立されている。でも、まれに対処が難しい案件があるのです。個人に企業が依頼するには不安もありますからね……そういった場合にわたしどもが呼ばれます」
「はぁ……」
日野は気の抜けた返事をした。
「意外とノウハウさえあれば、霊感は必要ないんですよ。こう見えても独立して十年以上経ちますから、ご安心ください」
「フランチャイズってことですか?」
由良は「まぁそんなものです」と言って、話を本筋に戻した。コーヒーを飲みほして、ビジネスバッグから書類を取り出す。
「櫛田菜々葉さんに関しては本来の仕事とは別で頼まれたものですから、わたしのほうが教えてもらいたいくらいでね」
由良は懇意にしている地場産業の社長から櫛田を紹介された。その場で話をしたが、あまりいい印象は持たなかった。櫛田はUSBメモリを由良に渡しただけで、依頼の仕方も雑だった。
「自宅にお伺いしましたが、確かに……櫛田菜々葉さんには問題が起きているようです。家の中に何かが入り込んだ形跡もありました」
「何かっていうのは?」
「さて……櫛田氏は
「誰ですか?」
「渡良瀬彩は櫛田氏に土地を借りて工場を経営していた
由良は書類をめくって名簿を取り出した。個人情報を含めた多くの部分が黒線でつぶしてある。もとは手書きだったものをデータとして取り込んだようだ。その中でぽっかりと空いた部分に、渡良瀬の名前があった。
「当初、渡良瀬は立退きを拒否して交渉が難航したようですね。家族経営の小さな町工場とありますから移転してやり直すのも難しかったのでしょう。櫛田氏は十分な補償をしたと主張していますが、父親の代だったためよくわからないとも言っていました。その後、渡良瀬耕三は自殺しています。妻の
由良はそこまで言って、書類を鞄にしまった。日野は神妙な顔つきをしていた。
「つまり櫛田の家がその……渡良瀬って人の恨みを買ったから祟られてるってことですか?」
「と、櫛田氏は考えているということですね」
「違うんですか?」
「さぁ、それはわかりません」
日野はわかりやすく不満げな表情になる。由良は笑った。
「別に面倒になったわけではありませんよ。本当にわからないのだから、仕方ない。因果を辿っていくのも大切かもしれませんが、わたしどもはあまりそこに重点を置かないようにしています」
「はぁ……」
「話が長くなってしまいましたね。わたしが知っていることはそれくらいです。櫛田菜々葉さんになにがあったのかはわかりません。母親に対処したいと申し出ましたが、断られてしまいました」
日野はしばらく黙ったあと、口を開いた。
「相模は?」
「ショッピングモールで万引きをした。補導されたときに櫛田菜々葉さんに脅されたと話していたそうです」
「そんな……うそだ。櫛田がそんなことするはずない」
「さて、わたしには判断のしようがない」
由良は事務所の職員からその話を聞いていた。相模柚奈は別の店でも万引きをしており、迎えに来た母親が商品代を弁償したという。
日野は納得していない様子だったが、考えるようにうつむいたあと顔を上げた。
「俺に対処の仕方を教えてくれませんか」
「あなたにですか?」
今更できることなどなにもなかった。その点では関が言った通りなのだ。考えた末に、由良は日野ができる唯一の対処の仕方を教えた。
「それだけ?」
「ええ」
日野は聞こえるような大きな息を吐いて、立ち上がった。これ以上収穫がないと悟ったのだろう。
「このぬいぐるみはどうしますか? わたしがお預かりすることもできますが……」
由良が手を伸ばしかけると、日野は慌ててぬいぐるみを奪った。
「すみません……あの、大丈夫です。今は俺のものなので」
「そうですか」
日野はぬいぐるみを鞄に押し込むと、何かに急かされるように喫茶店を出て行った。机の上には手をつけられなかったオレンジジュースと『くしだななは』の紙片が残された。
「下げようか?」
店主がカウンターから顔を出して言った。由良は紙片を内ポケットにしまうと笑顔で答える。
「いえ、わたしが飲みます。あとカレーライスをいただけますか」
由良は日野が手をつけなかったオレンジジュースを飲む。氷が溶けて、水っぽい味がした。
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