第5話 矢部豊

 矢部やべゆたかは首にかけたタオルで額に浮かんだ汗をぬぐった。パチンコの景品でもらったタオルは無駄に派手で分厚いわりに、汗を吸わない。ざらりと不快な感触だけを肌の上に残した。


 ──あの、どっかの社名が書かれた薄いタオル。


 昔は家にいくらでも予備のタオルがあった。矢部は雑多に置かれたダンボールをきれいに畳んでひとまとめにしながら、ぼんやりと考える。エコだか経費削減だかでタオルが貰えなくなったのはいつ頃からだったろうか。


 ──離婚する前はあったかなぁ……。


 ひたすら黙々とダンボールを畳む。テナントが各自で出したゴミを、スペースを空けるためにまとめるのが、矢部の仕事のひとつだった。


 早朝、シャッターが閉まった倉庫内に窓はなく、一つきりの送風機の風は届かない。こもった空気の中に、すえた臭いが漂っている。軍手をした手の平もじっとりと汗ばんでいた。


「……さん……矢部さん!」


 作業に集中するうちに頭が朦朧としてきた。矢部は自分を呼ぶ野太い声にやっと気がついた。振り返ると、倉庫の入り口に同僚が顔を出している。


「それ終わったら事務所に顔出してくれる?」


 矢部は返事をする気力もなく、手をあげて答える。

 せっかく午前の仕事を早く終わらせて一服するつもりだったのに、予定が狂った。矢部はのろのろとした足取りで、外へ出る。建物の裏をまわり、清掃を管理する事務所へ向かった。


 中を覗くと、これから館内へ向かう清掃員たちで込み合っている。


「ちょっと邪魔! どいてどいて」


 恰幅のよい中年の女が清掃用のカートを押しながら狭い通路に出てきた。矢部は壁際によけたが、足の先をカートに踏まれてうめき声を上げた。女はちらっと顔を見ただけで、何も言わずに通り過ぎていった。


「すみません、呼ばれたんですけど……」


 パソコンの前に座った上司に向かって呼びかけたが、清掃員の声にかき消されて聞こえていないのか返事がない。仕方なく、近くまでいってもう一度声をかけた。


「すみません」

「お? ああ……君か」


 矢部を見た途端に、上司は鼻をひくひくと動かして、わざとらしく椅子を遠ざけた。汗臭いのだろう。本人は作業着を着ている割に、涼しい顔をしている。


「なんですか」

「いや……本社から先々月よりゴミの量が増えてると指摘されたんだけど、何か心当たりある?」


 上司は矢部から視線を逸らし、剥げた事務机の角を触りながら言った。矢部も機械的に口を動かすだけだった。


「ありません」

「そう……でも君が担当してる倉庫だけなんだよねぇ」

「はぁ……」

「前に計器の調子が悪くてちゃんと測れてなかったことあったでしょ? 今日中にそれ確認して、今週はテナントさんのチェック厳しめにしてくれる? 僕も報告書上げないといけないから」

「今日中ですか?」

「当たり前でしょ。あー、でも一定の距離をたもって、不必要なお喋りはしないように。セクハラとか問題になったら今度こそ庇いきれないからね」


 矢部は前に一度、上司から注意を受けた。どこかのテナントスタッフからクレームが入ったのだ。


 ──なんでおれだけ……。


 鬱陶しそうに手を振られて、事務所を後にした。倉庫に戻ると、収拾のトラックが止まっていた。矢部は休む暇もなく、ゴミの仕分けに追われて昼休みを迎えた。

 菓子パンを缶コーヒーで流しこむようにして食べ、すぐに喫煙室へ向かう。誰もいなかった。


 矢部は朝の一服ができなかった分、肺の奥まで深々と煙を吸いこんだ。鬱屈とした気分が少しだけ晴れると、手提げの中を覗いた。離婚する前は弁当や握り飯が入っていたそこに、今はパチンコの景品でもらった駄菓子が突っ込んである。


 ──今日は誰も来ないな……。


 矢部は目についたスタッフに菓子をくばるのが趣味だった。


 別に下心があるわけではない。愛想よく話してくれた礼がしたいだけだ。他の警備員や職員だって似たようなことをしている奴はいる。下心で連絡先を聞くような連中に比べれば、矢部の行動は娘や孫に対するような純粋な気持ちだった。


 矢部には離婚した妻との間に、娘がひとりいる。幼い頃は娘を抱いて近くの駅まで電車をよく見に行ったものだった。女の子の割に、乗り物が好きな子だった。


 ──かわいかったのはいつぐらいまでだったか……。


 娘が小学校に上がる頃、矢部は友人から一緒に店をしないかと誘われて会社を辞めた。妻には反対されたが、会社に嫌気がさしていた矢部は半ば無理に押しきった。


 今思えば、あれが潮目だったのかもしれない。


 結果的に商売はうまくいかず、友人はいつの間にか店の金を持ち出して逃げていた。信用して口座の管理を任せていたのがよくなかった。そう気づいた時には遅く、矢部には借金だけが残った。


 あとの記憶はぼんやりと霞みがかかっている。矢部は親兄弟、親戚にいたるまで頭を下げて金を借りて回った。妻は看護師の資格を持っていたので復職し、生活費を稼いだ。


 ──あの時、会社を辞めなかったらおれの人生はもっとましだったのか?


 娘が大学を出て就職が決まると、妻に離婚を切り出された。もう随分前から決めていたという。矢部は驚いた。一度ならず苦労させたとはいえ、ここ数年は真面目に働き、家では会話もあった。娘を大学まで出せたのは、妻のお陰だ。至らない自分を支えてくれたことに感謝もしていた。


 矢部は思いとどまるように言ったが、妻の決心は固かった。


「……部長にも許可はいただいているので」

「そうですか。ではすぐに仕事に入りますね」


 喫煙室のドアが開き、スーツ姿の男が二人入ってきた。一人は見覚えのある事務所の職員で、もう一人は知らない。入館許可証を首に下げたままにしているところから、外部の人間だろうと思った。


 矢部は手提げを持つと、そそくさと喫煙室を出た。

 節電のために電気を消してある廊下は薄暗い。向こうから警備員が二人やってくるのが見えた。


「おー矢部、てめぇまた若い子にちょっかいかけるなよぉ」


 すれ違いざま、警備員の一人が大きな声で言って肩を叩いてきた。手提げを取り落としそうになる。矢部は肩をさすりながら、わずかに口の端を上げて笑った。


「おつかれさん!」


 もうひとりの警備員の無遠慮な視線から逃れるように、矢部は早足でその場を去った。


「くそ……」


 悪態が口をついた。同じ年頃の警備員はあれがコミュニケーションだと思っているのだ。なんなら嫌われ者に声をかけてやる面倒見のよい兄貴を気取っている。


 矢部は煮え立つような苛立ちを覚えた。


 午後に入ると、テナントからのゴミが増え始めた。合間に計器が正常に動いているかチェックしたが、どれにも異常はなかった。


 原因が計器の故障でないなら、テナントスタッフを見張らなければならない。上司は報告書を書くために矢部をせっついてくるだろう。同時進行でゴミの仕分けもするとなると、残業は確実だった。


 地獄なのは、業務時間を過ぎると空調が止まってしまうのだ。閉ざされた倉庫内で、飲食店の生ゴミから出る腐敗臭に蒸されながら仕事をすることになる。


 矢部は五台ある計器のうち、二台に故障中の札を下げるとゴミの仕分けをしながらテナントスタッフの様子を観察した。三台分なら、作業しながら視界に入る位置にあったからだ。


「おい、今なにしてた?」


 一人のスタッフが足を計器に乗せて測量しているところを見つけて、矢部は走り寄った。


「なんで足を乗せてるんだ」

「え?」


 若い男は面倒くさそうに矢部を振り返る。

 男はゴミが軽すぎて計測できないため、足を乗せて計測記録を出していたと言った。


「そうやれって教わったんで……他の人もやってましたけど」

「なんで誰も言いに来ないんだ」


 矢部は溜まった鬱憤が吹き出すのを感じた。一度口を開くと、文句がとめどなく溢れてくる。言いがかりでもなんでも、目の前の人間をねじふせられればそれでよかった。


 しかし、男はのっぺりとした顔で無表情に見返すだけだった。矢部が言葉を止めると「もういいですか」と言って、逃げるように立ち去った。


 取り残された矢部は呆然と立ち尽くした。


 その間も、何人かのスタッフがゴミを持って入れ代わり立ち代わりしているのが、視界の端に映った。ガチャン、ガチャンという計器の音だけが倉庫に響き、矢部など存在しないかのように通り過ぎ、ゴミを捨てて出て行く。


 やがて倉庫に一人きりになった。


 矢部は乱雑に積み上げられたゴミの山の前にのろのろと歩いていった。やぶれた袋の隙間から液体が漏れ出して、コンクリートの床に染みをつくっている。


 ガチャン、ガチャン


 計器の音がして振り返った。誰もいない。とうとう幻聴まで聞こえるようになってしまった。沸騰した矢部の脳みその中で、何か切れる音がした。


 ガチャン、ガチャン、ガチャン、ガチャン……


「どいつもこいつも、おれを馬鹿にしやがって!」


 矢部は振り向きざまに、手近にあったゴミ袋を力いっぱい投げつけた。その瞬間、まるで嘲笑うかのように、一斉に耳障りな音が鳴った。

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