第3話 久慈正樹

 久慈くじ正樹まさきは今年の春にショッピングモールの管理事務所に、営業担当として異動してきた。

 仕事は主に、テナント向けの企画や販促を行っている。入社して三年目、はじめて東京からの引っ越しを伴う異動だった。


「久慈君、ちょっとこれ急ぎで頼んでもいいかな」


 直属の上司であるマネージャーから声をかけられて「はい!」と勢いよく返事をする。


「連休中の数字、今日の会議でざっとでも触れたほうがいいと思って」

「わかりました。前年比だけでも追加で出しておきます」


 先月の資料はすでにまとめてあった。午前中の空き時間にやれば、午後の会議には間に合うだろう。すぐに返事をすると、マネージャーは満足そうに頷いた。


「久慈君は誰かさんと違って、理解が早くて助かるよ」


 その言葉にはなんと答えていいかわからない。久慈は曖昧に笑って、自分のデスクに戻った。マネージャーの言う「誰かさん」とは久慈と同時期に異動してきた営業担当の社員のことだ。


 デスクにつき、各テナントから提出されたアンケートやチラシの掲載物をチェックしていると、件の同僚が戻ってきた。まもなくマネージャーに呼び出されて、事務所の外へ引っ張られていく。


名取なとり君、またなんかやらかしたの?」

「さぁ……太田おおたさんの虫の居所が悪いんじゃない」


 背後から事務社員の囁き声が聞こえてくる。久慈は居心地の悪さを感じながら、パソコンを開いた。頭を無にして、優先順位が高い順に仕事をこなしていく。

 しばらくすると、名取だけ事務所に戻ってきた。


「あー最悪だった」


 音を立てて椅子に腰かけると、開口一番に言った。


「何だったんですか?」

「やーテナントの荷物が整理されてないとかって……どうせ明日、消防査定が入るの忘れてたんだろ。知らねーっての」


 名取はジャケットを脱いで、袖をまくるとハンカチで首筋をぬぐった。首を伸ばして、上司たちの姿がないのを確認すると、椅子の上で大きな伸びをした。


「なんで俺が怒られたのか意味不明だわ。あいつこれ以上出世できないからって、憂さ晴らしにいびってんだよな」


 後ろからくすくすと笑い声がした。名取は椅子を回して、事務社員の方へ体を向けた。


「そう思いません?」

「名取君、そんなこと言ってるとまた怒られるよー」

「ほんと俺ばっかりですよー。いいよな、久慈君は気に入られてるから」


 名取は久慈をだしにつかって、事務社員たちと談笑をはじめた。


「でも、仕方ないよ。ここ昔、実際に死亡事故があったから……特に査定が厳しいんだって」

「そうなんですか?」

「もう十年以上前だけどね。防火シャッターが誤作動で落ちて、一人挟まれて死んじゃったんだって」


 営業と違って、事務は異動なしで長年勤めている社員もいる。そういった社員は地域や館の内情に詳しかった。


「じゃあ、余計に忘れんなよって感じじゃないすかー」


 名取が言うと、また笑い声が上がる。上司たちのいない事務所は、ひととき和やかな──弛緩した空気に包まれていた。

 久慈は頃合いを見て、立ち上がる。テナントに用がある振りをして、事務所の外へ出た。


 従業員出口を通り過ぎると、業者向けの搬入口がある。この時間は荷物の出入りも終わって、静かだった。近くにある自動販売機で炭酸を買い、その場であけて一口飲む。喉を弾ける泡の感触が滑り落ちていった。


「はー……」


 搬入口の外は、ショッピングモールを囲むように植えられた生垣と木々の緑が鮮やかだった。昨日ふった雨が上がり、まばゆい陽光に照らされている。ふと視線を感じて目を移すと、従業員出口の裏にあるベンチに誰かが座っていた。


 反射的に首を下げると、向こうも会釈を返した。明るい金髪に見覚えがある。確か、担当テナントの責任者だ。


「関さん、お疲れ様です」

「おつかれさまですー」


 関桃子は接客業特有の愛想笑いを浮かべつつ、近づいてきた久慈を不審そうな目で見上げた。


「休憩中すみません。チラシの商品、ありがとうございます」

「いえー。あれで大丈夫でした?」


 その場で少し話をしたあと、久慈は本来伝えたかったことを口にした。


「今日、会議でも触れると思うんですけど……店内の荷物の件、いつもより厳しく言われると思うんでよろしくお願いします」

「あー防火シャッターの下とかですよね」

「すみません、何度も。店舗に収まらないものは倉庫の貸し出しもしているので、相談してもらえば……」


 久慈は低姿勢を崩さずに言った。テナントによっては若い営業に対して、強い姿勢をとる従業員もいる。忙しいのに面倒な注文をつけてくる部外者とならないように、身に着けた仕草だった。


「了解ですー」


 関の姿を見たから思い出したが、他の担当テナントにも言っておいたほうがいいだろう。久慈が去ろうとした時、警備員が側を走っていった。同時に声高な文句が聞こえてくる。 


「何回言ったらわかるんだ! こっちはやっと寝たところで起こされて、仕事に差し支えてるんだぞ!」


 関はベンチから腰を浮かせて、声のする方を見た。


「いつもの人ですかねー」


 近隣の住民からはショッピングモールの従業員の声がうるさい、というクレームがよく入る。各出口に立った警備員が何度も注意をしているし、立て看板やポスターも貼ってあったが、完全になくなることはなかった。


「ほんとに従業員なんですかね?」

「……ちょっと様子みてきます」


 久慈は関に頭を下げると、明るい日差しのもとへ飛び出していった。

 いつもは上司が対応しているが、行き当たったのだから顔くらいは出しておかなければならない。


 駆けつけた久慈の姿を見て、対応していた警備員は露骨にほっとした表情になった。


「いかがしましたか?」

「いかがしましたじゃねーよ! こっちは昼も夜もうるさくて困ってるんだ!」


 中年の男性は見るからに酔っており、睨みつける視線も定まっていない。久慈は警備員に目配せをして、事務所に人を呼びに行かせた。


「お前みたいにスーツ着てパソコンの前に座ってるだけの仕事にはわかんねぇだろ!  俺は明日も早いんだよ! 家の前を通るたんびにうるさくされる身にもなってみろよ!」

「ご不便をおかけして申し訳ございません」


 久慈は酒臭い息を浴びながら、謝り続けた。

 早く家に帰って、風呂に入り、動画を見ながら食料品売り場で買った弁当を食べて、やりかけのゲームをして眠りたい。

 そんなささやかな願いが頭をかすめた。

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