ナナフシの静寂が破れるとき

さちキたんえイ

序章 ― 日常への綻び

金属が軋む音が世界をねじ曲げる。


まだ小学五年生だった僕には、その瞬間が永遠に続くように思えた。工事現場の鉄骨が風にあおられて揺れ、軋み、そして——落下する。悲鳴も叫び声も、すべてが遠くに消えていった。残ったのは、あの忌まわしい「キィッ」という音の記憶だけ。


「結斗、聞いてる?」


茶色がかった長い髪を揺らして、葉山さんが机に乗り出してきた。葉山優香、新聞部の部長で三年生。僕が一年生の時から、ずっと面倒を見てくれている。


「ああ、悪い。考え事してた」


「もう、七不思議特集の担当、引き受けてくれるの?」


教室の窓から差し込む三月の陽射しが、葉山さんの髪を金色に染めていた。僕らの学校——私立陽明学園は、創立百周年を迎えるらしい。その記念行事の一つとして、学園新聞で「七不思議」特集を組むことになったのだ。


「ん……引き受けるよ。ミステリー好きは否定しないし」


「さすが結斗!」葉山さんはにっこりと笑った。「でも、ビビりなくせに大丈夫?」


そう言われて、顔が熱くなる。確かに、ミステリー小説は好きだが、実際にお化け屋敷なんかに行くと悲惨なことになる。去年の文化祭では、一年の時から仲の良い理緒と一緒に行ったら、入り口で固まってしまった。その話を葉山さんはまだ覚えているらしい。


「ビビりじゃないって……」


抗議の言葉は、半分くらいは嘘だ。


葉山さんはクスクス笑いながら、資料フォルダを差し出してきた。


「とりあえず、これ。七不思議のリストと先輩方の聞き取り調査メモ」


フォルダを開くと、最初のページに「陽明学園七不思議」と太字で書かれている。その下には七つの項目が並んでいた。


───────────────────

① 旧校舎屋上で鳴く「ナナフシ」の声

② 旧図書館の本を並べ替える「何者か」

③ 第二体育館のロッカールームの「濡れた足跡」

④ 放課後の音楽室から聞こえる「独奏」

⑤ 女子トイレの三番目の個室の「囁き声」

⑥ 生物準備室の「動き出す標本」

⑦ 校内を徘徊する「制服姿の老人」

───────────────────


「……なんだこれ」


思わず呟いてしまう。どれも典型的な学校の怪談だ。何か面白いものを期待していたのに、拍子抜けした。


「まあまあ。最初は七不思議なんて都市伝説だと思ってたけど、あることがあってから、私は信じるようになったの」


葉山さんの顔が急に真剣になる。


「あること?」


「そう。一番目の『ナナフシの声』。あれは実在するの」


思わず、眉をひそめた。ナナフシというのは、いわゆる竹の葉そっくりの昆虫だ。生物の授業で習ったはずだ。


「でも、ナナフシって鳴かないよね?」


葉山さんは静かに頷いた。


「そう。正確には鳴くことができない昆虫なの。だから七不思議なんだよ」


「でも、幽霊じゃなくて昆虫の話なら、何か勘違いじゃないのか?」


「そうかもしれない。でも、旧校舎の屋上は一年前から立入禁止になっているのに、深夜になると『キィッ』って音がするんだって。そして……」


葉山さんの言葉が途切れた。窓の外から、ふいに風が吹き込んできて、カーテンが大きく揺れる。それは、僕の記憶の中の鉄骨が揺れる音を思い起こさせた。


「そして?」


「その音が聞こえたあと、去年の三月に、一人の生徒が失踪したの」


重苦しい沈黙が教室に流れた。


「失踪……?」


「そう。軽音部の三年生で、引退してたけど、部にはよく顔を出してたらしい。彼が最後に残したメッセージが『ナナフシの声を録音してくる』だったんだって」


喉が乾いた。葉山さんは、まるで怪談を語るように、声を落として続けた。


「その日以来、彼は行方不明になって、今も見つかっていないの」


心臓が早鐘を打ち始めた。鉄骨の軋む音が、また頭の中で鳴り響く。


「そんな……」


僕の動揺を見て、葉山さんは少し申し訳なさそうな表情になった。


「ごめんね、怖がらせるつもりじゃなかったの。でも、この七不思議、特に『ナナフシの声』については、慎重に調査してほしいの」


「わかった……」


深呼吸して、心を落ち着かせる。これはただの記事のための調査だ。怖がることはない。そう自分に言い聞かせた。


教室を出ると、廊下には部活帰りの生徒たちがちらほらといた。そのなかに、軽音部のジャージを着た理緒の姿を見つけた。


「おい、理緒!」


軽く手を振ると、理緒は足を止めた。首にかけたイヤホンから、かすかに音楽が漏れている。


「よっ、結斗。部活、終わった?」


理緒——水野理緒は、小学校からの付き合いだ。クラスは違うけれど、陽明学園に一緒に進学した。彼女は軽音部でベースを担当している。音楽の才能だけはずば抜けているのに、勉強はからっきしで、いつも僕にノートを借りに来る。


「ああ、新聞部でさ、学園七不思議の特集をやることになったんだ」


そう言うと、理緒は急に顔色を変えた。


「七不思議?」


「うん。旧校舎屋上の『ナナフシの声』とか知ってる?」


理緒は黙ったまま、じっと僕の顔を見つめた。いつもの陽気な彼女からは想像できないほど、真剣な表情だった。


「知ってるよ……むしろ、調べてるところ」


「え?」


「兄のことだから」


理緒には一つ上の兄がいる。去年まで陽明学園の生徒だったはずだが、途中で退学になったと聞いていた。詳しいことは理緒が話したがらなかったから、僕も深く聞かなかった。


「兄さんと、七不思議に何か関係が……?」


理緒は周囲を見回してから、声を潜めた。


「今話せないけど、大事なことがわかりそうなんだ。旧校舎の屋上で」


「屋上?あそこ立入禁止じゃなかったっけ?」


「そうだけど……今日の深夜、あの音を録りに行くつもり」


「冗談だろ?それって、去年失踪した先輩と同じじゃないか」


理緒は小さく笑った。でも、その笑顔は目に届いていなかった。


「心配しないで。ちゃんと戻ってくるから」


そう言って、彼女は僕の肩を軽く叩いた。


「もし何かあったら、タブレットに全部記録してある。でも、何もなければいいんだけどね」


「理緒……」


彼女の背中を呼び止めようとしたその時だった。廊下の窓から強い風が吹き込み、開いていた窓が「キィッ」と大きな音を立てて閉まった。


思わず耳を塞いでしまう。あの日の記憶が、また鮮明に蘇ってきた。工事現場。鉄骨。悲鳴。


気づくと、理緒はもう廊下の向こうに消えていた。そして僕には、彼女を追いかける勇気がなかった。


あれから三日が経った。三月十五日、理緒は学校に来なかった。

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