微百合の長編小説「霧雨とコーヒー」
rinna
プロローグ:霧雨とコーヒー
小さな町には、雨の匂いがよく似合う。
駅前から少し歩いた先にある「喫茶・霧雨」は、その名の通り、しとしとと降る雨の日にこそ灯りが美しく滲む。木の看板、くすんだ緑のひさし、窓辺に吊るされたドライフラワー。どれも、十年は昔からそこにあったような顔をして、静かに時を吸い込んでいる。
午後四時半。扉の上で鳴る小さな鈴の音に、カウンターの奥でコーヒーを淹れていた先輩がふと顔を上げた。
「……また来たの」
「また来ました」
私は傘を畳ぎわに一度、先輩の声に頷いた。少しも怒っているわけじゃないとわかっていても、その素っ気なさが妙に心をざわつかせる。
先輩――氷室さんは、私の高校の一つ上の卒業生だ。今はこの喫茶店でアルバイトをしている。私がこの店に通い始めたのは春の終わり。あの日も、こうして霧のような雨が降っていた。
それ以来、私は何かに取り憑かれたように、放課後になると「霧雨」に通っている。理由は聞かないでほしい。自分でもわからないのだから。……ただひとつ確かなのは、氷室さんの背中を見ている時間だけは、世界の音が少しだけ柔らかくなるということ。
「今日も同じ?」
「はい、モカブレンドを。氷室さんが淹れたやつ」
彼女は少しだけ、口の端を上げた。笑った、というよりも、風に揺れるカーテンみたいに表情が揺れただけ。でも、それだけで胸の奥にしんとしたものが降りてくる。
きっとこれは、恋なんかじゃない。
だけどもし恋なら、どうかこのまま、名前をつけずにいさせて。
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