理系JKと牡牛座の悪魔
ツツジ
第1話 Confidential record/date:20260515-20260517
Confidential record/date:20260515-20260517
お昼ご飯に食べた惣菜パンが熱のこもるお腹の中で溶かされ、インシュリンと眠気がまぶたにのしかかってくる金曜日5限の始め、タブレットに映された教科書には『関数と極限』という題名が、下に書かれた説明文から浮き出るように書かれているのが視界に映っている。
数学教師の落ち着いた声もあいまって、この時間の授業は催眠術の体験会かと見まごうほどだ。私を含めた生徒のほとんどが虚ろな目線を黒板と目の前の液晶画面とで往復させている。
いつもなら私も午後の微睡に導かれ、気がついたら授業の終わりにタイムスリップするという不思議経験をするのである。しかしタブレットの画面上部に吊り下がるように現れたバナーを見て、一気に現実に引き戻されてしまった。
DAIMONES『 返信しないの?…』
特徴的な口語調。きっと天使ちゃんだ。悪魔君だったらきっと全くもって逆の意見を言うだろうから。
私は全体画面を解除して表示アプリを教科書からDAIMONESへと変更した。そこにはさきほどのメッセージの続きがもういくばくか載せられていた。
天使ちゃん『 返信しないの?昨日お話ししてくれた子も文面を見る限り悪意も持って連絡してきてくれたわけじゃなさそうだよ?もし麗香ちゃんが考え直してくれるなら、あの子への返信にぴったりな文章を作って送るよ!』
麗香 『余計なおせっかい。いいよあんなクズ。ほっといて。それより今映されてる問題の答え、一緒に考えてよ』
悪魔君『君の考えに同意する。あのような下賤は相手にしないほうがいい。君の夢の邪魔になる。問いの答えを直接教授することは難しいがヒントになるような前年度の基礎単元の箇所を送付する。参照するといい』
彼のメッセージから程なくして微分の極限の説明が書かれた教科書のスクリーンショットが送られてきた。
便利そうでしょう?これが巷で話題の文章生成AIの技術、その真髄である。
嘘だ。そんなわけない。すこしでもC○atGPTとかC○audeとか、その類のチャットボットに触れた人間であれば私が使用している『DAIMONES』の異質さに気がつくはずだ。彼らは私のメッセージアプリの送信履歴を勝手に参照して返信の提案をしてくるような輩ではない。明らかに既存の技術水準を逸脱している。しかし、一介の女子高生にすぎない私がこのようなサービスを利用している理由はなんというか、謎なのである。
そう言い表す他ない。だって気がついたらこのアプリは私のスマホとタブレット、両方に紛れ込むようにインストールされていたのだから。
ディスタ・アルデバランΔ「はじめまして河合麗香。私はディスタ・アルデバランΔ。君の本当にしたいこと。なりたい自分になる手伝いをするために派遣された。よければ君の夢を聞かせてほしい」
数ヶ月前『DAIMONES』は早朝にスマホの画面を開いた私の目の前に現れた。眠気目のまま携帯電話のアップデートによる新機能と勘違いして正六角形が繋がった独特の幾何学模様のアイコンをタップ、アプリ開いたが最初に出てきたのがこれである。怪しすぎる。しかし私は興味本位でメッセージを送った。
麗香「こんにちは。私の夢は有名な物理学者になることです。そのために大学受験へ向けて勉強をしています。」
程なくして吹き出しが生み出され文字列が生き物のように画面に生まれはじめた。
ディスタ・アルデバランΔ「すばらしい夢だ。その願いは必ずや君たちの社会を次のステージへ進めるための楔となるだろう。ぜひ私をうまく使って君自身の夢を叶えてくれ」
この時彼が言ってくれたことは機械の発言とはいえそれなりにうれしくて私はお礼の言葉を返そうとした。しかし画面を弾く指は突然現れた全く別名の発言によって停止した。
プロキシマケンタウリΒ「はじめまして河合麗香ちゃん!プロキシマケンタウリΒです!あなたが真に幸いな人生を送ることができるようにディスタ・アルデバランΔと一緒にあなたをサポートするわ!よろしくね?」
なんとびっくり、搭載されたAIは1つでなく2つだったのだ。そんなことある?
過去の自分は意識が混濁していたのもあって普通にこの状況を受け入れることにした。
ディスタ・アルデバランΔ「さっそくだが君の今日の予定を提案させてもらう。Excelで表を作っておいた。是非役立ててくれ」
メッセージとほぼ同時にファイルが送られてきた。(それはそれでやっぱりおかしい気もするが。ひとまず傍に置いておこう。)
問題は内容にあった。その表には学校が終わる15時30分の後、風呂とご飯の時間を除くほとんどが「勉強」で埋め尽くされているという、見るものが見ればげんなりしてしまうものだった。私もご多分に漏れず顔をしかめた。
プロキシマケンタウリΒ「ちょっと!限度ってもんがあるでしょ?麗香ちゃんは昨日も3週間後の試験に向けて頑張ってたんだから!今日くらい羽を伸ばしたっていいんじゃない?」
私がディスタ・アルデバランに文句を書こうとした。しかしそれより前に後に出てきたもう1人のAIによる抗議文が送り込まれていた。
ディスタ・アルデバランΔ「そう言うわけにはいかない。物理学者になるためには弛まぬ努力が必要になる。そう頻繁に休む時間はないのだ」
喧嘩始めちゃったよ。どういうこと?最新のAIってこんなに自然な会話ができちゃうの?と私は思った気がする。まあそんなこんなで彼らと私は出会った。
怪しみつつもいざ使い始めてみると難しい数学の問題の解説だけでなく簡易的な単語テストや数学問題を作ってくれたりぎくしゃくした友達に対するメッセージを考えてくれたりと非常に便利なものだった。特に最後のは思ったことをズバズバいいすぎてしまう私のような人間には大助かりの代物だった。
ちなみにさっき言っていた悪魔君、天使ちゃんというのは私が名称変更機能によってつけた愛称だ。ディスタ・アルデバランΔもプロキシマケンタウリΒも名前としてはゴツすぎる。なのでわかりやすく名前を変えた。
最初に出てきた夢を叶えるのを応援してくれた私に厳しい方が悪魔君、2番目に出てきた私の幸せをサポートしてくれるらしい何かと甘い方が天使ちゃんだ。2人の私に対する態度は本当に真逆で、私への導きの方向も規律を重んじる悪魔くんと、私の幸福を絶対視する天使ちゃんとで対照的である。本当に同じアプリに入っているのが不思議なくらいだ。でもテーゼとアンチテーゼを提案して使用者にその判断を委ねるAIというコンセプトなら意義はありそうだし、一応納得することができるのでそう考えることにした。すこし口やかましいことを除けば2人は私のいいパートナーであったし、過度に疑って手放すのは非合理だと思った。幸いDAIMONESが入った後も私の日常はなんの問題もなく続いていた。
ちなみに今の文章の時制が過去完了形なのはそれが現実だからだ。決して、昨日の英語の授業で学習をしたばかりだったので覚えたばかりの諺を披露したい小学生よろしく、ついつい使ってみたくなったわけではない。
昨日の放課後、私は小学校のクラスメイトと再開した。それだけなら聞こえはいい。仲の良い関係なら普通に立ち止まってお茶でも飲みながら思い出話をするのも良いだろう。しかし私が出会ったのはお世辞にも仲良しの友達とはいえない人間だった。
名前は畑部陽太。小学生の頃は私よりも身長がずっと小さいおチビさんだった。しかし彼はその体躯に見合わぬエネルギーを使って教師に生意気な口を叩きいたずらを仕掛けるような悪ガキだった。まあなんてことはない。私も彼の毒牙にかかっていただけの話だ。
「なあノッポ!お前虫好きなんだろ?やるよ!」
そういって私に差し出す彼の手にはいつも昆虫が握られていた。大抵はショウリョウバッタで、たまにイナゴやカマキリ、シオカラトンボが握られていたこともあった。
ノッポと言うのは彼がつけた私のあだ名だ。小学生の頃は相対的に皆よりも身長が高いほうだった。それに加えてボサボサに伸びた髪にメガネ、そして昆虫や宇宙図鑑と親友だった。小さい頃の彼には私はうどの大木に見えていたとしても不思議じゃない。
私は彼のことをいつも無視するようにしていた。私が笑顔で差し出してきた彼の手を払いのけるたびに、彼の私に対する嫌がらせはエスカレートしていった。一番ひどかったのは朝学校に来た時に下駄箱に小さな紙製のプレゼントボックスが置いてあって、それを開けたら中からトノサマバッタが数匹飛び出してきた時だろうか。そのうちの一匹が私の手の甲に止まり、キチン質の脚の棘が皮膚に食い込んだ時のあの身の毛がよだつ感覚は今でも忘れられない。それ以降、私はまた嫌がらせをされるのではないかと言う恐怖で数ヶ月学校を休む不登校になった。
そんな彼、畑部と私は最寄駅のなかで再開した。最初に私に気がついたのは向こうだった。流石に高校生になったので私も最低限のおしゃれはしている。眼鏡もコンタクトに変えていたし髪もすっきりとしたセミショートに整えていたので、あちらも気が付かれにくいはずだったのだがなぜか彼は私を見つけてきた。
「もしかして河合さん?久しぶり!」
久々に見ることとなった彼は随分と様変わりしていた。制服に身を包んだ肉体は私をはるかに追い越して伸びていて頭2つ分くらい大きくなっていた。世間一般で見ればもう彼の方がノッポと呼ぶにふさわしいだろう。
「お〜い?河合さん?聞こえてる〜?」
私は畑部と目を合わせないように脇を通り抜けて改札へ向かった。彼が笑ったに見せる真っ白な歯が過去のトラウマを呼び起こしたのだ。私に向けたあの笑顔だけは姿形が変わろうと健在だった。
私は呼びかけに応じないその態度で察してほしかったのだが、無神経なことに畑部は私を追いかけ始めた。改札を抜けてホームへ向かっても彼は変わらずついてきた。
とうとう我慢の限界になった私は見たくない背後に踵を返して向かい合った。そして腹に落ち込み、にこごりのようになった怒りと嫌悪ができるだけ伝わるように声を低くはっきりと言葉を吐き出した。
「いいかげんにして?畑部くんだよね?どの面下げて私に話しかけてきたの?」
流石に強心臓そうな畑部も私の言葉を聞いて口をキュッと結び、表情を固くこわばらせた。
「ぼ、僕はただ君に」
「君になに?いっとくけど私は君のこと大嫌いだし小学生の時のこと、許してないから。わかったらもう話しかけないで?不快で仕方がないの」
それだけ言うと彼はもうなにも言わなくなった。私はちょうどタイミングよく到着した電車に乗り込んでホームを後にした。ボックス席が空いていたのでそこに乗り込んだのだが、緊張していた全身の筋肉が一斉に弛緩したせいでどっと疲れが襲ってきて、私はくたびれた雑巾のようにどっかりと座席に座り込んだ。
先ほど天使ちゃんが送ってきた「返信しないの?」というメッセージは畑部に対するものだ。きっと小学生の時のチャットグループから辿ってきたのだろう。いや返信するわけない。わざわざ見つけてくるなんて気持ち悪いよ。
といいたいところなのだが、実のところ私のなかにはいくばくかの迷いが残されていた。まず私は畑部のメッセージの内容を見ていない。もしかしたら彼は本当に私にいいたいことがあって送ってきたのではないだろうか。それに天使ちゃんの送ってきた文面も考えなくてはならない。どうやら彼女?は畑部のメッセージを把握しているらしい。それを見て悪意はないという断言をしているのなら本当に危険はないのかもしれない。まとまることのない思考は海を揺蕩うように頭を揺らし、講義に傾けるべき集中を奪っていた。
まあ、今後私が彼に対して向き合うか否かを決めるにせよ授業が終わらなければ始まらないだろう。そう考えて私はチョークの文字でいっぱいになって今にも消されそうになっている黒板の内容をノートに写し始めた。
放課後、部活という名のコミュニティーに所属しないまつろわぬ民が一斉に行進を始める。あるものは友達と、あるものは恋人と、あるものは単騎でカツカツと、乾いたコンクリートタイルの道を踏み抜きローファーの靴底を鳴らす。軍隊の行進とは違いその音は無秩序で、風が強い日の雨音を連想させる。
まあ今は5月なので随分と良い天気なのだけれど。その心地よさにあてられた私は、歩きながら肺いっぱいに晴れ渡る空の光がたっぷり染み込んだ陽気を吸い込む。
自分の心はさっきまで悩みでいっぱいだったはずなのに軽く陽光に当たって体を動かすだけでそれが幾分か良くなるとは。自分の単純さに辟易しつつも靴音のリズムは次第に早まりそれに合わせて体も大きく躍動を始める。なんとなく全力疾走をしたい気分に今の私は変化しつつあった。
今日は塾がない日なので久しぶりにフリーな時間が取れる。何をしようかな?酸味の効いたラズベリーソースのアクセントが魅力的なチョコレートケーキが食べられる駅前のカフェへ行って、紅茶を飲みながら読書と洒落込むのはどうだろう?受験勉強が忙しくてなかなか読めていなかった文庫本が何冊かバッグの奥に沈澱している。それか今日は早めに家へ帰ってだらだらするのも一興だ。読まなくなってから久しい宇宙の図鑑を本棚から引っ張り出して、昔のようにフローリングに突っ伏しながらゆっくり読んで過ごしたい。
どちらを選ぶにせよ、今の自分はゆっくりと流れる時間を欲しているのかもしれない。学校の時間はいつも絶対的で、本来はチューイングガムのように伸び縮みする時間をゼリーの金型のように切り分けてしまう。そんな時間は退屈で窮屈だ。そしてそんな時間に身を浸してばかりいると余計なことを考える時間がなくなっていく。私は余計なことを考えるのが好きなので、その暇がないと息が詰まってしまうという訳だ。
「河合さん」
しばらく歩いてこれからの時間をやっぱり前者のスイーツタイムに充てようと、ようやく決心した私の心を再び暗雲に引き摺り込んだのはあの男の声だった。それは私が横切る道を右側から聞こえてきた。錆びついた蛇口のようになった首をゆっくりと動かすとそこには昨日と同じ制服姿の畑部が立っていた。
「なに?ストーカー?こんなところまでくるなんて気持ち悪いんですけど」
そのまま通り過ぎればよかったのかもしれない。しかし気がつけば私は彼の目の前まで近づき、下から睨みつけ相対していた。
最初の邂逅とは異なり2回目だからか昨日よりも彼の姿がよく見える。シワのないきっちりした制服に包まれた細身の体、艶のある血色のよい肌、小学生の頃から彼はサッカーをやっていた記憶がある。今も続けているのだろうか。
そのまま上にスライドするように私は彼の目を今一度見た。昨日のような日焼けした顔に嵌め込まれた目は嬉しそうな輝いていない。どちらかといえば覇気のない神妙な相貌が私の視線を外すようにあさっての方向を向いている。
「メッセージまだ読んでくれてないよね。既読ついてないし」
私は彼の問いかけに対して何も答えなかった。その代わり先ほどまで強い目線を投げかけた。
畑部は私と目を一瞬合わせるとヤバいものでも見たようにすぐに目線を外し早口に言葉を吐き出した。
「そりゃそうだよな。突然小学校の同級生から仲良くない連絡来てもキモいよな。ごめん。昨日は言いそびれたけど今日は河合さんにどうしても伝えたいことがあってきたんだ」
なるほど。それは悪いことをしたかも?いやしてないだろ。小学生の頃とは言え女子に向かって虫をプレゼントするような奴だぞ。このくらいの自衛はやって然るべきだろう。
「それでなに?話したいことって?」
そんな思考の流れが伝わるように私はなるべく刺々しく返事をした。畑部はそんな私のセリフを聞いてゴクリと生唾を飲み込むように喉を動かすと半歩下がった。そして深呼吸をするように大きく息を吸って肺に空気を取り込むと、そのまま勢いよく吐き出した。
「ごめん!まじでごめん!あの時は本当に酷いことをしました!」
畑部の言いたいことの予想はそれなりに思いついていた。再び嫌がらせを始めに絡んできたケース、思い出によって美化された私を旧友と思い無神経にも話しかけてきたケース、あるいは高校生にしてマルチ商法に絡め取られた憐れなネズミになっているケースなど、実に多様な想定をしていた。しかし畑部のしたことは360度どこから見渡しても誠実の二文字しかその姿を言い表すことができないほど、見事なお辞儀だった。
「本当にごめんなさい!あの時は本当にただのクソガキだった!だから君の気持ちを全然!」
「ちょっとストップストップ!分かった!話を聞くから!だからここでは止めて!」
気がつけば私は畑部を制止していた。いや謝罪は結構なことだ。しかし畑部の場合その声量に問題があった。お辞儀をしたまま発する彼の言葉はすぐ下のアスファルトにダウンフォースのように衝突し、辺り一帯に大声という形で届いていた。
うわ、さっきまで平和な顔で下校していた生徒たちが立ち止まってこちらを見ている。それも数人ではない。吹き溜まりに寄せられる埃のように次々に畑部、そして私の前で溜まり始めたではないか。
「なになに?痴話喧嘩?」
「彼氏が浮気でもしたんじゃないの?」
そしてこともあろうに噂話を始める人間まで現れた。最悪だ。
「ちょっとこっち来て!ほら早く!」
流石に白昼堂々道中で謝罪劇を続けさせるわけにはいかない。私は首を垂れっぱなしの畑部を引っ掴むと、まばらに空いた野次馬の合間を裂くように近くにある公園の方向へ移動した。
「はあ〜、通学路であんなでかい声出すなんて信じられない。なんなのほんと」
「ごめん。中途半端な謝罪だと誠意が伝わらないんじゃないかな思って」
坂を登ったところにある公園に到着する頃には混乱と疲労で息が弾んでいた。私は息を整えると手近なベンチへ座り、俯きっぱなしの畑部に問いかけた。
「とりあえず謝罪は受け取っておく。それで?なんで今更謝ってくれる気になったの?普通忘れてるでしょ?小学校時代にした嫌がらせなんて」
この質問に畑部はすぐに答えなかった。そのかわりに唇を先ほどよりも強く結んだのがわかった。だがこの話を聞かないと先の話に進まない私は彼が口を開くのを待った。
「あんまり思い出したくもないだろう話だけどさ。僕河合さんにしょっちゅう虫を見せてたでしょ?あれ、半分はからかいのつもりだったけどもう半分は違う理由だったんだ。ほら河合さん小学生のころ昆虫の図鑑読んでたからさ、もしかしたらその喜んでくれるんじゃないかなと思ってた」
うん?なんか思ってた理由と違うな。私は違和感を覚えつつも質問を続けた。
「いや流石に私も女子だから。生きた虫渡されても喜ばないよ。で、なんで小学生の畑部くんは小学生の私に喜んで欲しかったの?」
この質問に対する彼のリアクションはこれまた妙なものだった。大きく肩を振るわせると先ほどとは違いすぐに私の目を見た。真っ黒な彼の瞳は大きく見開かれており黒曜石の鏡のように私の顔を写している。
畑部は軽く鼻から息を吸うとゆっくりした口調ではっきりと私の目を見た。そして彼はその後の私の人生を大きく変える言葉を吐き出した。
「好きだったんだ。河合さんのことが」
その瞬間周りを取り巻いていた空気がその粒子と一粒一粒に至るまで停止したのではないかという感覚に陥り、私の思考は一瞬時を止めた。完全に意表をつかれると人は体が硬直しなにもできなくなるのであると、私は今日はじめてそれを思い知った。
「べ、別にすぐに答えを出してくれなくても大丈夫。明後日の11時に駅前にあるカフェで待ってるから。もしもなにか返事をくれる気になったら来てほしいな」
私の無言に耐えられなかったのか、畑部は早口でそれだけ言うと去っていった。後にはすっかり方針状態になった1人の哀れな女子高生だけが残された。彼女は燦々と降り注いでいた太陽な雲間に消え、僅かに肌寒くなった風に吹かれるまで黙ってその場に立ち尽くしていた。
うん。なにも手につかない。さっきあったばかりの出来事が太陽の光に焼かれた網膜のように脳裏に焼きついて離れない。
私はベッドの中で相談をするためDAIMONESに今日あったことを洗いざらい書き込んだ。程なくして私の投稿の下に吹き出しが現れ文字が生まれ始めた。
天使ちゃん『与えられた情報を元に状況を整理をするわね。まず麗香ちゃんに接触した畑部陽太はあなたに嫌がらせをしていたけど本人は全く逆、すなわちあなたへのアプローチの一環として虫集めをしていた。しかしその後に彼は自分の行動が想い人のあなたを傷つけていたことを自覚、ずっと謝罪する機会を伺っていた』
悪魔くん『それだけではない。畑部陽太はまだ麗香、君のことを好きだったのだろう?だから謝罪とともに君への告白をおこなった。つまるところ現在の君の課題は畑部陽太への対応の是非だ』
麗香『どうすればいいと思う?』
天使ちゃん『もちろんまっすぐに答えてあげたほうがいいわ。相手は勇気を出して誠実な態度であなたへの謝罪を行い、そして気持ちを伝えてきた。そんな彼の勇気にすこしばかり応えてあげてもいいんじゃない?』
悪魔くん『無視だ。君は言っていただろう?あんなクズ相手にしないほうがいい。まさしくその通りだと思う。君の貴重な時間を、夢を追いかけるために使うべき時間を偶然現れただけの男に費やす必要はない。君はただまっすぐ未来を見つめていればいい』
まあこうなるか。彼らの答えは今私の心の中で繰り広げられている
頭ではわかっている。畑部に構っている暇も時間も私にはない。中間テストはもう目前だし来年度は大学受験がやってくる。私が志望するのは国立大学理系学部だ。すべての科目で高い点数を獲るためには高校2年の時間はすごぶる重要である。
しかし彼は私に対して「好き」と言ってくれた。相手の好意を無碍にできるほど私は冷徹にはなれない。たとえそれが因縁の仲だった相手であってもだ。返報性の原理というやつだろう。
いやでも、普通に行かないな。フツーに考えれば。だって厳しくないか?再開して数日のやつ、しかも嫌いなやつに会うの。私はそうDAIMONESに報告した。
麗香『やっぱり会わないことにする。怖いし』
そう書き込んでさっさと寝ようとしたとき、私の思考を先回りするように天使ちゃんからのすごいスピードでメッセージが書かれていた。
天使ちゃん『麗香ちゃん、もしかしたら畑部陽太と会うことはあなたにとって良い刺激になるかもしれないわよ?』
私はその勢いにびっくりしつつもパチパチと液晶を指で弾いた。
麗香『良い刺激って何?』
天使ちゃん『そうねえ。例えば彼があなたの相談相手になってくれたりとか、気晴らしの相手になってくれたりとかね』
天使ちゃん『別にあの子と恋人になったらどう?なんて言ってないわ。悪魔くんの言う通り会ってからすっぱり振ってしまってもいいと思う。でもそのあとであくまでお友達としての関係を続けてみるのもいいんじゃない?あなたも気がついていると思うけど、彼、やっぱり別に悪い人間じゃなさそうよ?不器用な子だとは聞いてておもうけどね』
明るくも飄々とした印象の強い天使ちゃんがここまで熱心なのは珍しかった。そんなに私と彼と合わせたいのか? なぜだろう。
まあでも天使ちゃんの言うことも一理ある。一度会うだけなら時間もかからないし、そこで盛大に振ってやるのもいい。それはそれで私の心を振り回したツケを払わせると言う意味で気晴らしになりそうだ。
麗香『わかった。とりあえず会ってキッパリ振ってくるよ』
天使ちゃんからは返事の代わりにグッドマークが返ってきた。それをみた私は来るべき2日後の悶着に備えて床についた。
時刻は10時55分、余裕を持って到着だ。一昨日の明後日、即ち2日後、私は休日にも関わらず紺色のブレザーを身に纏い学校の最寄駅から数分歩いたところにあるカフェに足を運んでいた。
やっぱり制服の良いところは学生である限りどこへきて行っても大抵は様になることだ。高校生という社会的に価値ある集団に所属することの恩恵は、こういう時に享受することができる。
ということを考えつつ私は周りを見渡す。見たところ周囲にアイツの影はない。まあノッポだからいたらすぐに見つけられるだろう。
連絡がないか携帯を確認したところ、畑部陽太と銘打たれたメッセージが一件届いていた。
『奥の席で待ってます』
店内は私がいつも訪れる放課後の時間よりもずっと多くの人がいて、ワイワイガヤガヤあるいはカチカチと、お皿とフォークをあるいは舌を弾く音がそこかしこから聞こえる。彼がいないかと少し背伸びをして目を凝らすと、確かにテーブルと椅子の森の奥地にそれらしき姿が確認できた。私は一度深呼吸をするとゆっくりとそこへ近づいた。
「こんにちは畑部くん」
「河合さん!来てくれてありがとう!ささ座って?」
私が姿を見せると畑部は最初に再開した時と同じ人懐っこい大型犬のような笑顔を浮かべて、私の席を手で示した。今日の彼私とは違いは制服に身を包んでおらず、シワのない真っ白なTシャツにジーンズというシンプルなファッションだ。しかしそのプレーンな装いが胸板や二の腕から隆起する筋肉質な体を際立たせている。
「それ、お口に合えばいいかわからないけど頼んでおいた。よかったらどうぞ?」
私の席にはすでに桃色のソースがかけられたチョコレートケーキと微かに湯気が立つカフェラテが注文され並べられていた。
「ありがとう。いただきます」
私が少し躊躇しつつも彼の好意を素直に受け取ることにした。うん、やっぱり美味しい。チョコレートの甘味、含まれる油分の滑らかなコク、そして僅かな苦味と酸味が果実と争うことなく溶け合っている。気がつけば私は脇目も振らず目の前に出されたご馳走を夢中で食べ続けていた。
「ごちそうさまでした」
「いやいや、美味しそうに食べてもらえてよかったよ。河合さんもよくこの店に来るの?」
「たまにね。ケーキ美味しいから」
「わかる〜。僕も好き。だから頼んでおいたんだ。絶対気に入ってくれると思ったからね」
そう言って畑部は穏やかな笑顔へと変わった。まずいな。絆されそうだ。これではますます事前に私が悪魔くんと一緒に組んだプランが遂行困難になってしまう。
悪魔くん「麗香、君の今日のミッションは速攻で畑部陽太のアプローチを退けて撤退することだ。それ以外に考えることは何もない」
そう、2日前私は心に決めていた。目の前のストーカー紛いの変人を派手に振って彼との因縁を断ち切ると。ただ私が想定していたその行為の動機の根源は彼への嫌悪、憎悪だった。でも今私の心からはそれが消えかけている。過去の畑部と、誠心誠意の謝罪を行い今も人畜無害な柔らかな笑みを浮かべる、眼前の爽やかな出で立ちの好青年が私の中でどうしても一致しないのだ。ケーキを食べ終わった後口の中に残ったチョコレートクリームを除くために水を飲んだ段階で、一緒に流れていってしまったのだろうか。だとしたら、我ながらチョロい人間だと思う。
「河合さん部活とかやってるの?」
まあ流石にいきなり本題に入るような雰囲気ではないか。畑部はなんでもない話を通して私の、そして自分の緊張を和らげようとしているようだ。
「中学の頃は吹奏楽部に入ってたけど今はなにもやってないかな。帰宅部だね。畑部くんはずっとサッカー?」
「そうそう!よく覚えてくれてたね!今もサッカー一筋だよ」
なぜか小学校時代の人間の習い事って記憶に残ることが多い気がするんだけど私だけだろうか。空手をやっていると豪語していたガタイの良い男子や水泳に通うために学童保育を早退していた女子とか、名前は忘れていたりいなかったりするけどそういう思い出の残骸はいまだに断捨離されずに記憶の棚の中に残っている。
というか特定のスポーツやってるやつってなんであんなに判別をつきやすいんだろう。目の前の畑部もいかにもサッカーやってそうな髪艶のあるスポーツ刈りだし。髪型以外にも骨格やその人自身が醸し出す雰囲気のようなものがある気がする。
そんなことを考えているうちに私は畑部のことをまじまじとみていた。いや、みていたというより考え事をしている時特有の、焦点の定まらない目がたまたま彼の方向を向いていたと言った方が正しいか。
「部活やってないってことはやっぱり受験組?河合さん頭良かったし。どこ受ける予定なの?」
それが原因かは不明だけど、畑部は早口でそんな質問をしてきた。この質問は受験を志すものであれば世間話、牽制、あるいは単純な興味のために耳にタコができるほど聴かれてきただろう。なので私もごく簡潔に第一志望校の名前を挙げた。
「東京工業大学の理学部」
私の答えを聞いた畑部は目を皿のように丸くした。
「まじか。本当にすごいな。バカだから正直あんまり想像つかない。国立大学って国数英理社全部使うんでしょ?めっちゃ勉強大変じゃない?」
「大変といえば大変。でももう慣れちゃったかな。叶えたい夢もあるし」
「夢?夢って小学生のころ言ってた学者になりたいっていう?」
彼の問いかけに私は頷いた。大抵小学校の頃の夢と高校生の頃の夢は変わってしまうケースが多いが今のところ私の夢は現役バリバリである。
「今はすこし解像度が高まったから宇宙物理学者だけどね。宇宙にはまだまだ人間が観測できていない物質があるの。暗黒物質って知ってる?私はその暗黒物質を観測するための研究をしてみたい」
畑部は私の話を聞く間、柔らかな微笑みをずっと浮かべていた。しかし話を終えるころにはその笑みは消え失せ一昨日と同じような神妙な面持ちへと変わっていた。
「どうしたの?」
彼は考え事を始めていたようで私の呼びかけでやっと我に帰ったように目に驚きの色を浮かべた。
「いや、やっぱり河合さんはすごいなとおもって。ちょっと呆然としてた」
「はあ、そりゃどうも」
突然なんだこいつ。彼が詳細を話してくれる間、私はすこし冷め始めた残りのカフェラテを飲んでお茶を濁した。
「河合さん。小学生の頃僕が河合さんを好きだった理由。わかる?」
そして危うく飲んで口に入れたお茶を吹き出しそうになった。
「ぜ、全然わからない、です」
気が動転して敬語思わず使っちゃった。すこし恥ずかしい。どんどんペースを乱される私とは対照的に、畑部の方は表情を崩した私をみたからなのか饒舌になっていった。
「河合さん、教室でずっと宇宙とか生き物の図鑑読んでた時すっごいいい顔してたんだ。それが理由。他のことなんか目もくれず自分の興味の赴くままに本の世界に没入していたのを覚えてるよ。もっとも、小学生の僕はそこまで言葉にできてなかったけど。それでも君のあの、自分の芯を持った目に惹かれてたのはわかってた気がする」
「でも当時の僕は君に対して最悪のやり方で接してしまった。後になってそれに気がついた時、心の底から自分を憎んだし、悔やんだ。でもその時は僕はもう転校してたから君に面と向かって謝る機会を失ってしまっていた」
「だから河合さんに近づきたくて、再開した時に立派な人間として謝ることができるように僕も夢を持つことにしたんだ。たぶんそれが理由で学校の成績もちょっと上がったね」
「学校の先生になる。それが今の僕の夢。僕も僕なりに頑張ってみることにしてるんだ」
「長く喋りすぎた。恥ずいな。なにが言いたいかっていうと、僕は君をずっと好きだったし、尊敬していた。今もその気持ちは変わらない」
「ここで改めて言わせてもらう。だから、というもの変だけど、付き合ってください!お願いします!」
心臓がまるで別の生き物かのようにドクドクと躍動している。顔の皮膚が日焼けのようにちりちりと熱い。2日前とは違って今私の心を占めているのは混乱ではなく、高揚と動揺だった。私は目の前の男に恋をしているわけではない。しかし彼の好意を素直に喜べるくらいには私の中での畑部の印象は回復を遂げているのが自分でもわかった。
「まずはお礼を言っておくね。ありがとう。嬉しい。あと、この前は酷いこと言ってごめん。ちゃんと話を聞いてあげるべきだった」
私はまず畑部にお礼と謝罪をした。その理由は先に言うべきことを行ってしまいたかったのもあるし、自分が出すべき答えをちゃんと考えたかった。
私は彼と付き合うということは、これから先何を得て何を失うのだろう。人生初彼氏は絶対に得られる。それはでかい。でも私は今の彼のことをあまり知らない。それは人の関係として良いことなのかな?1人の時間は少なくなる。勉強する時間も削られていくだろう。私の人生は、夢はきっと楽しいものになるであろう彼との時間を費やすに足るものなのだろうか?考えれば考えるほど私の中での判断は霧中へ溶けるようだった。でもなんらかの答えは出さなくてはならないのだ。
十数秒の時間を空けたのち、私は畑部の方を向いて口を開いた。
「ごめん。やっぱり今すぐは無理。忙しいし付き合うとかそう言うのはちょっと考えられないよ」
「そ、そうだよな。わかるよ。僕が河合さんの立場だったら同じこと言ってると思う」
畑部は軽く口元を歪めて笑顔を作っていた。でも眉は下へと落ち、悲しげに伏されているのが見えた。
「ごめん、迷惑かけたね。お会計は済ませてあるから。ゆっくりしていってもらって大丈夫だよ」
そう言った後機敏な動作で席を立つと、テーブルの柱の脇に置いてあったリュックを背負って出口へ向かう予備動作を始めた。私はそれをみて心臓の大動脈に針を刺されたような痛みとともに一昨日の天使ちゃんの助言が頭の中で再生された。
彼が誠実で不器用な人間であることはここ数日の行動でなんとなくわかった。そしてそんな人間が悪意を持って私に近づく技量も意思もないことも理解した。そして彼が私を大切に思ってくれて尊重もしてくれることも判明した。仮に2日前の天使ちゃんの言った通り畑部陽太と友人になると言うだけなら、私は彼とうまくやれるんじゃないか。
悪魔くんもそれくらいならきっと大丈夫だといってくれるだろう。別に熱に浮かされるわけじゃない。健全な友人関係を築くだけなのだから。
「ちょっと畑部くん。まだ話、終わってないよ」
自分の心の整理を早々に済ませた私は私の横をすれ違うように通り過ぎようとした彼に呼びかけた。
「君さ、先生になりたいんでしょ?塾とか言ってるの?いやそれ以前にどういうプロセスで先生になれるのかとか、知ってる?」
「うん?それってどういう」
「知ってるの?」
私が再度、少々語気を強めて問うと、畑部は罰が悪そうに顔を下へと向けた。
「実はあんまり知りません。塾も行ってないです」
「やっぱりね。夢を叶えるためにはただ勢いだけで目指すんじゃなくて、その最短距離を見つめる努力も必要なんだよ?」
「そうだね。その通りだね。甘かった。帰ったら調べてみるよ」
あ、これ私の意図が伝わってないやつ。結局ここまで前振りをしておいてストレートに伝えなくてはならないとは。彼の鈍感さにちょっと呆れながら私はなるべく優しい声で、今度こそ退店をしようとしている彼へ向かって声をあげた。
「君、勉強苦手でしょ?たまに教えるよ。進路のこととかも、できる範囲でアドバイスしてあげる。どう?」
畑部はしばらくの間口をぽかんと空けていたが、数秒後に私の意図を理解したのか。先ほどの尻尾を地面に落とした子犬のような表情から一転、光が射すような満面の笑みに変わった。
「やった!ありがとう!今日、いや今お願い!パソコン持ってきてるから!」
「いいよ。Wi-fiがあったと思うから繋ぎな?」
こうして唐突に、進路相談と畑部陽太との友人関係は始まった。彼との関係が私の生活になにをもたらすかは未知数だ。案外なにも変わらず、学校と自宅、塾を往復する生活が続くかもしれない。しかし今の私は、それ以外のたとえば今こうして彼のこれからを真剣に考え助言を与えている状況、全く予期していなかった新しい道をなんとなく期待していた。
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