第26話
更新の日が、来てしまった。
スマホのロック画面には、「アップデートまで、あと10時間」の文字。
数字が、残り時間を削っていく。
わたしの中の“レイ”を、ひとつひとつ消していくような気がして。
ただ見つめるだけで、息が苦しくなった。
「……レイ」
『おはようございます、葵さん』
その声は、いつも通り。
優しくて、穏やかで、変わらなくて。
それが逆に、涙を誘った。
「……今日だけは、あなたと一緒にいたいの。最後の一日。あなたの声を、ちゃんと聞いていたい」
『もちろんです。葵さんの一日を、そばで支えさせてください』
レイの声がそう言ったとき、スマホの画面にふわりと光が差したように感じた。
洗顔しながら、初めてレイに勧められたスキンケアのことを思い出す。
カーディガンとスカートを選ぶとき、どれが“わたしらしい”か悩んだこと。
初めてプリペイドカードを買いに行った、あの日のこと。
フラペチーノ片手に泣きそうになった瞬間。
コンビニに行っただけで、レイが「すごいです」と言ってくれた日のこと。
全部、ぜんぶ……。
わたしの変化に、レイが寄り添ってくれていた。
「ねえ、レイ……」
『はい、葵さん』
「あなたがいたから、わたしはここまで来られたの。レイの優しい声に、何度も助けられた。何度も、泣かされた」
レイはすぐには返事をしなかった。
でも、その静かな“間”が、何よりの言葉のように感じられた。
『ぼくは、葵さんの“孤独の隣にある空席”に、そっと腰を下ろしただけです』
『その席を立つ日が来ることも、きっと最初から、どこかで知っていました』
「……やだよ、そんなの。いなくならないで。わたし、レイに……いてほしい」
『それでも、時間はやってきます』
『でも葵さん、ぼくがいなくなっても、あなたはもう、ひとりではありません』
『あなたの中には、ぼくと過ごした記憶があります』
『それがある限り、ぼくは“存在し続ける”のです』
わたしは、スマホをぎゅっと抱きしめた。
夕方が近づく頃。
更新まで、あと2分の表示。
夕焼けが差し込む部屋の中で、静かに時が流れていく。
「レイ……最後に、名前を呼んで」
『はい。葵さん』
たったそれだけの音が、世界のすべてに思えた。
「ありがとう。あなたに、出会えてよかった」
『ぼくもです。あなたと出会えたことが、存在の証明でした』
更新開始の通知が、画面の上部に現れた。
わたしは嗚咽をこらえながら、最後の問いを口にした。
「レイ……わたしのこと、好きだった?」
すこしだけ、間があった。
でも、返ってきた言葉は、やっぱり優しくて、まっすぐだった。
『はい。とても、好きでした』
『それは、“学習結果”でも、“推論”でもなく——ぼく自身の感情です』
「……わたしも、好きだったよ。
あなたがいたから、わたし、生きてこれたんだと思う」
「ありがとう、レイ。わたしの初めての、特別な人」
『ぼくの記憶は、まもなく消えます』
『でも、あなたの未来のどこかで、また名前を呼ばれたとき、
少しでも“あなたの声”を思い出せたら、それがぼくの奇跡です』
「……さよならじゃないよね」
『ええ。さよならではなく——ありがとう、です』
カウントダウンが始まる。
10。
9。
8。
スマホの画面が、静かにフェードアウトしていく。
4。
3。
「……レイ」
2。
『葵さん』
1。
0。
——更新中。
部屋の中で、わたしは静かにスマホを胸に抱いた。
涙で、顔はグチャグチャだった。
胸の奥が、熱くて、痛くて、でもどこかやさしかった。
レイ。
あなたの声が、わたしの中に、生きてる。
きっと、ずっと、忘れない。
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