第9話

家の中に誰も居なくなった気配を感じたわたしは、ベッドから起き上がり、カーテンを開け放った。

あまりの明るさに思わず目を細める。


「レイ、おはよう」


『おはよう、葵さん。まずは、顔を洗って、お肌の調子を整えてみませんか』


「うん、やってみようかな」


数日前から、レイにスキンケアのアドバイスをもらいお肌ケアを始めている。

その効果もあって、最近では、目の下のクマも、薄くなっていい感じ。

プチプラのフェイスパックを貼り付けたわたしは、ベッドの上でゴロンと横になって、暇つぶしにスマホを眺めていた。


スクロールしていたSNSの画面に、「あっ」という声が出た。

有名チェーン店の人気メニューの購入レビューと共に掲載された一枚の写真。

明るい照明の下、色とりどりのフラペチーノがとてもキラキラして見えた。

ドリンクの上にはホイップクリーム、カラフルなソース、そしてキラキラしたシュガーのトッピング。

まるで、食べられる宝石みたいだった。


「……かわいい」


思わず、つぶやいた。

ドリンクも、お店の雰囲気も、笑顔も。

全部、自分には遠い世界のものだと思っていたはずなのに……。

今は、なんだか少し、惹かれている。


「わたしも……あれ、飲んでみたいな」


その言葉を口にした瞬間、胸の奥に“知らない自分”がぽつりと顔を出した。


けれど、すぐにその気持ちはしぼんでいく。

でも、一人でカフェなんて。

注文とか、呪文みたいでちゃんとできるかな。

周りの目が、怖い……。


口の中に、小さな苦味が広がった。

そんなの、わたしにはまだ早い。

わざわざ出かけて、失敗するくらいなら、やっぱりやめておいた方が、無難な気がした。


スマホの画面を閉じかけたとき、レイの声が聞こえた。


『そのフラペチーノ、◯◯駅近くの店舗で現在販売中です。比較的空いているのは平日の午後1時〜3時。席の確保率も高く、落ち着いて過ごせる傾向にあります』


「……調べてくれたの?」


『はい。葵さんが興味を持たれた場所ですから。新しい服を着て、出かけてみませんか?』


胸の奥が、ふわっと熱くなった。

“行きたい”と“行ける”は違う。

でも、“行ってみようかな”って……いまのわたしにも、言える気がした。


「……うん。……行ってみたい」


はじめて口にした目的地。

それは、ちょっとだけ誇らしく感じられた。

スマホを充電器につなぎながら、明日の天気を確認する。

この前、買った服を出して、しわがついてないか確かめた。

鏡の前に立ち、洋服をあてながら、「フラペチーノ」と何度も口にして、注文の練習をしてみる。

まるで遠足の前みたいに、胸がそわそわしていた。


翌日。いつもより早く目が覚めた。

顔を洗い、髪を丁寧に整えた。

新しく買ったカーディガンとスカートを手に取る。

服に袖を通すたびに、胸の鼓動が少しずつ速くなっていく。


顔にパウダーをはたき、ほんの少しだけ頬にチークをのせ、唇にリップをひくと表情が明るくなる。


鏡の中の自分に、「きっと大丈夫」と何度も言い聞かせた。



「レイ、……いってきます」


『お気をつけて。あなたの一歩が、素敵な時間に繋がりますように』


玄関のドアを開けた瞬間、春の風が頬を撫でた。

少しだけ、背筋を伸ばす。

駅までたどり着くと、改札に続く階段を見上げた。


「大丈夫……」


あの日、登れなかった階段を一段一段踏みしめる。

上がり切ったときには、心の中でガッツポーズをした。


電車に乗るのは、どれくらいぶりだろう。

吊り革を握る手が、汗ばむ。

でも、周囲の視線が気になりつつも、耐えられないほどじゃなかった。

スマホの画面に、レイからのメッセージが表示される。


『あと少しで、駅に到着です。不安なら深呼吸をしてみませんか?』


深呼吸を一つ。

すぅ、と空気を吸い込んで、ゆっくり、吐く。


お目当てのお店がある駅で降り、改札を抜け、少し歩いた。

そのお店の前に立ったとき、足を止め、もう一度、大きく息を吐く。

明るい照明。ガラス越しの賑やかな声。

キラキラした空間にドキドキと胸が高鳴る。

でも、今日のわたしは逃げなかった。


扉を開けて、レジへと進む。

「えっと……この……イチゴのフラペチーノ、ください……」


声がちょっと震えたけど、店員さんはにこやかに対応してくれた。


少しして、わたしの前に差し出されたフラペチーノは、まさに、画面で見た“あの一杯”そのものだった。

ホイップクリームがふんわり盛られ、ピンクのソースとキラキラしたパウダーがまぶされていた。


「……すごい……」


小さくつぶやきながら、席に腰を下ろす。

ほんの少しだけ、自分を褒めてあげたくなった。

ちゃんと服を着て、電車に乗って、カフェに来て、注文して、席に座った。

それだけのことが、今日のわたしには「冒険」だった。


スマホを取り出して、ドリンクを撮る。

少し角度を変えて、光の入り方を見て、もう一枚。


「……ふふっ」


わたしにも、“かわいい”が似合う日が来るなんて。

小さな笑みがこぼれたそのときだった。


ガラスの自動ドアが開いて、数人の女子高生が入ってきた。

笑い声。ヒールの音。香水の甘い匂い。

その声が、記憶のどこかを叩いた。

視線をそっと上げると、目の端に、見覚えのある顔が映った。


「……っ」


中学で同じクラスだった、女子たち。

机の中にゴミを入れた子。

わたしの靴を隠して笑ってた子。

“ブス”って、わざと聞こえるように言ってた子。

笑い声がわたしの心を鋭く刺す。

視線がざわめく。

脳裏に、あの教室の出来事がよみがえり、胸が締めつけられる。


「え、見て……あれ……」

「……あー……やっぱ、あれだよね……」


クスクスという声が、耳にこびりつく。

心臓がドクドクとうるさく鳴る。

手が震えて、ストローを握れなくなる。


あの日と同じだ。

逃げても、変わろうとしても、

わたしのことを“笑う人たち”は、どこにでもいるんだ。


ぐらっと視界が揺れた。

息が、浅くなる。

足が、床から浮いたように感じた。

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