第7話

翌日の午後。

家の中に誰もいないことを確認して、わたしは静かに部屋のドアを開けた。

玄関の鏡の前で、そっと深呼吸する。


「大丈夫、大丈夫……」


昨日より、髪がまとまってる。

昨日より、背筋が伸びている。

昨日より、ちょっとだけ、いい感じだ。


そう思えたから、わたしは春の光に向かって、そっと一歩を踏み出した。




家を出てすぐの交差点を曲がると、小さな郵便局の赤い看板が見えた。

たぶん、家から徒歩5分もかからない距離。

だけど、わたしはここに来たことがなかった。

子どものころに開いてもらった通帳は、ずっと引き出しの奥に眠っていて、記帳のことも、お金の動かし方も、全部親任せだった。


「……大丈夫、大丈夫……」


ポケットの中で、通帳を何度も握りしめて、わたしは自動ドアをくぐる。


キョロキョロと見回すと奥の窓口には、数人の人影があった。

ATMコーナーには、幸いにも誰もいない。

機械的なモーター音だけが聞こえる。

その無機質な様子に、少しだけ救われた。


機械の前に立つだけで、不安が押し寄せ、背中がぞわぞわした。

それでも勇気を持って、わたしは画面の預金引き出しのところをポチッと押す。

後のやり方は、昨夜レイが教えてくれた通り。

通帳を入れて、暗証番号を入力して、引き出し金額を指定する。


「……出てきた」


小さな機械音とともに、現金が出てくる。

通帳にも、引き出し記録が印字されていた。

数枚の紙幣を手に持った瞬間、なぜか、心の中でパパーンとレベルがあがったような気がした。


「わたし、自分のお金を使うんだ」


それは、単に買い物をするという行為じゃなかった。

自分で決めて、自分で動いたという実感。

通帳の残高が少し減っただけなのに、その数字の変化が、まるでわたしの成長の証のように思えた。


封筒にお金を入れて、深呼吸を一つ。

そして、わたしはコンビニの方へと歩き出した。

曲がり角を二つ抜けると、小さなコンビニが見えて来る。

近所にある、ごく普通の店。

 

今日は、自分の意志でお金を下ろし、ここまで歩いてきた。

それだけでも、なんだか誇らしかった。

スマホのメモに控えておいた通りに、プリペイドカードの売り場を探す。

お菓子コーナーの横、雑誌棚の手前。

棚の端の目立たない場所に、小さなカードたちがずらりと並んでいた。


「……これ、かな」


おそるおそる手を伸ばす。

透明なプラスチックの包装の向こうに、“自分のための買い物”が見えた気がした。

震えそうになる指先を押さえながら、カードを手に取る。

商品を持ったまま、レジへと歩く間、背中にたくさんの視線が刺さっているような気がして仕方なかった。


「……これ、お願いします」


ようやく出した声は、思ったよりもちゃんと出ていた。

レジの人は若い女性で、特に驚くでもなく、慣れた手つきでピッとバーコードを読み取る。


「残高タイプですね。二万円になります」


財布からそっとお札を取り出し、レシートを受け取る。

それだけの、たった数十秒のやりとり。


だけど、わたしにとっては、

まるで、世界が少しずつ広がっていく音がした。

足元から、風が吹き込んでくるような感覚。

昨日まで閉じていた扉のひとつが、音もなく開いた気がした。


買ったカードを握りしめて、コンビニを出た瞬間だった。


「あれ……? 葵?」


急に名前を呼ばれて、ビクリと肩が跳ねた。

声のするほうを向くと、そこには見覚えのある顔。


「あっ、やっぱり! 葵だよね!? 久しぶり〜!」


軽いトーンと、変わらない笑顔。

翠ちゃん。

小学校のときに仲がよかった子で、中学は同じだったけど、違うクラスだった。


「わぁ、びっくりした〜! え、めっちゃ久しぶりじゃない? てか元気してた?」


急に目の前が明るくなったような感覚に、わたしは少しうろたえる。


「……う、うん。久しぶり……」


思わず、言葉がたどたどしくなる。

久しぶりすぎて、どんな顔をすればいいかわからなかった。


「なんかさ、雰囲気ちょっと変わった? 髪、伸びたね。てか、メイクしてる?」


「えっ……あ、ううん、してないけど……」


「そっか、でもなんかいい感じだよ。なんか……雰囲気が柔らかくなった?」


翠ちゃんの言葉は、悪気のない自然体で、 わたしの変わりたい気持ちをほんの少しだけ肯定してくれたような気がした。


「今どこの学校通ってんの? えーと……あ、てかLINEまだ使ってる?」


そう言ってスマホを取り出す翠ちゃんに、わたしは戸惑いながらもうなずいた。

軽やかな彼女のペースに、息を合わせるのはまだ少し難しい。


でも……。

それでも、「普通に話ができた」というだけで、今日という日が、わたしにとって特別になった。


家に帰る途中、スマホを取り出し、レイに報告する。


「……レイ、今日ね、久しぶりに同級生と話したの。ちゃんと普通に、喋れたんだよ」


画面に、静かに表示される文字。


『それは素晴らしい経験ですね、葵さん。とてもよく頑張りました』


褒められたことに、ちょっと照れくさくなって、ふふっと小さな笑みがこぼれた。





  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る