3-2
数日後の午前。
「ねぇカヤちゃん、本当に大丈夫?」
「……何が?」
心配して尋ねる詩瑠の声に、首を傾げる火弥。
しかしその声は心なしか気だるそうで、明らかに疲れていそうな雰囲気だ。
「今日もこれからバイトなんでしょ?」
「うん。カフェのヘルプ。ランチイベントに人手が足りないって」
「カヤちゃんが行かないとダメなの?」
「行くって約束したから」
淡々と答えながら、火弥は汁椀に盛られた豚汁へ口をつける。起きてきた火弥が盛ったのはいつもの三分の一程。それでも彼女が動かす手はひどく鈍かった。
「カヤちゃん、今日はおやすみした方がいいよ。絶対疲れてる。ほら、目の下だってクマあるし」
「大丈夫、コンシーラーで隠すから」
「そういう問題じゃなくって……食欲もないんでしょ?」
「……本当に大丈夫だから」
心なしかムッとしたような表情で、椀と箸が乱暴に置かれ、机と硬い音を立てる。
「食欲が無いってことは、体が栄養を必要としてないってこと。だから元気なの」
「そんなメチャクチャな! 自分で必要なものがわからないぐらい疲れてるってことでしょ?」
「うるさいなぁ。シルには分からないんだよ。仕事したことないから」
「うっっわ!! 言い方!!!」
カヤちゃん……物には言い方ってもんがあるんだよ。
詩瑠はぐっさり抉られたコンプレックスに止まらなくなる。
「仕事したことあると偉いの? 美味しいの? なにそれ。心配する事すら許されないの?」
「シルは何しに東京にきたの? やりたい事、あるんじゃないの? 他人の事心配してないで、夢をかなえる努力したら」
今度は火弥が詩瑠の今一番痛い箇所に嚙みついて止まらない。ガルルル。
「はいはーいそこまでそこまで。朝から喧嘩なんておやめなさい」
二人の間へぬっと後ろから太い腕が伸びてきて、野太いアリィの声が割って入った。
アリィの広い掌で肩を押され、詩瑠はしぶしぶ元の席に腰を下ろす。
一方の火弥は。
「……バイトの時間だから」
そう言って、食器をキッチンに持って行く。
「カヤカヤ。置いといて、アタシが洗っとくわよ」
「……ん」
軽く頭を下げて、リュックを背負って玄関に向かう火弥。
その後ろ姿へ詩瑠は何とか声を掛けようとするが、言葉が見つからなかった。
「…………いってきます」
ギリギリ聞き取れるぐらいの小さい挨拶。
ガチャリとドアが閉まり、ゆっくりとした歩みの足音は遠ざかっていった。
ただ心配しただけなのに。
――抉られた胸の傷が痛かった。
夢をかなえる努力したら……か。その通りだ。
詩瑠は『夢を叶えるために』勉強した。やっと都会に出てこれたのだ。何が悪いのだ。
建築学科を選んだ理由は故郷の宮司さんをきっかけに、寺社仏閣へ興味を持ったから。
ここ最近の火弥を見ていると詩瑠は自分が本当にやりたい事が何なのか焦りで不安になる。
将来の夢……? それは仕事をするということ? 私は、何のために何を……。
「シルシル、箸止まってるわよ」
「……はい」
アリィのため息混じりの声で、詩瑠はようやく動き出すことができたが、味はよくわからなかった。
曇った表情で下を向く詩瑠を、アリィはしばらくじっと見つめる。そして、頬杖をつきながら口を開いた。
「ねぇ、シルシル。スープは好き?」
「えっと、それは、人並みに好きですけど……?」
「アタシはね、昔は好きじゃなかったわ。メインでもなく、副菜というにも微妙。スープ飲むぐらいなら、そのお椀分お米食べたいわって、思ってた」
「そうなんですか?」
「今は違うわよ?アタシが入った時も、あったか荘のルールはコレだったから、流石に好き嫌いとかそういう次元じゃなくなるわよねぇ。まぁ慣れると心地よくなるもんね、意外と」
「私の母は一汁一菜とよく言っていたので、むしろ当たり前でした」
「そう。良いお母さんね」
アリィの視線を感じて、豚汁を一口すする詩瑠。
母のことを思い出したせいか、さっきよりは少し味噌の風味を感じる気がした。
「……カヤカヤもね、最初は全然スープ飲まなかったの。あの子、猫舌だから」
「あぁ、確かにそうですよね」
「でもあの子も慣れていったわ。ホント習慣って大事ね。……それと同時に、性格も丸くなっていったわ。あれでもね」
「どんな感じだったんだろう、最初のころのカヤちゃん」
「ふふふ、まぁそれはまたいつかね。本人は嫌がるでしょうけど」
「はい……だから、まずは本人に聞こうと思います。いつか」
「そう、良い子ね」
口元を綻ばせて、アリィは台所へ向かう。
そして、自分用のどんぶり満杯に豚汁を注ぎ入れて、詩瑠の対面の席へ腰を下ろした。
「いただきます。今日のはトリリンの当番なのね。あの子のはすぐ分かるわ」
そう言って頬張るアリィだったが、詩瑠の記憶する限りアリィの担当する日のスープも大概だった。
何せ、カレーしか作らないから。
「……ふぅ。あったかいわ。朝にあったかいスープを飲むとね、お腹がポカポカしてくるでしょう? お腹があったまると、これが不思議と元気が出てくるのよね」
「あぁ……そうですね」
詩瑠にも覚えがあった。ここに住み始めて数日は、緊張と不安でよく眠れないのが続いていた。そのせいもあって朝は気分が落ち込みがちで、体も重たい日が多かった。
しかし、眠たい目を擦りながらもあったかいスープをお腹に入れると。自然と全身にあったかさが巡ってきて、頭もしゃきっとしてくるのだった。
「ルールを決めた大家さんの信念もソレらしいわよ。心と体の健康に良いのは、朝にあったかいスープを一杯飲むことだって。まぁアタシも会ったことないから、又聞きだけど」
「アリィちゃんさんでも会ったことないんですね」
思いがけず大家の情報を知り、詩瑠は目を丸くした。なすがまま受け入れていたスープのルールがそんな理由だったとは。
「……さっきのアンタたちの話、聞いていたけど……アタシもあの子、心配だわ。アンタのおかげでスープ一杯は飲んでくれたけど、ここ最近まともに食べてなさそうよ?」
「ですよね」
「ただ、アタシが話してもあんまり響かなそうなのよね……ねぇシルシル」
「はい」
ごすん。鈍い音を立てて、アリィのどんぶりが机に置かれる。
さっきまでおしゃべりをしていたのに、いつの間にか中身は空っぽだ。
「きっとアンタなら、話を聞いてくれるわよ」
「でも、今日だって喧嘩になっちゃったし」
「あら。あの子が喧嘩するのだって、ここじゃアンタぐらいよ? それだけ心を許してるってこと」
それにね、とアリィは続ける。
「あの子の為というのもそうだけど、アンタ自身がモヤモヤを抱えているの、嫌でしょ?」
「……それは、はい」
「大丈夫。アンタとあの子なら大丈夫よ。ぶつけて解消してみなさい」
「それで良いんでしょうか?」
「あら。それがココのやり方よ。良いか悪いかわからないけど、とりあえずあったかいもの飲ませておけばなんとかなるでしょうって言う。そういう、楽観的で気安い押し付け。アタシのオカママインドにも通じるところがあって、オススメよ」
「……はは。なるほどですね」
茶化すようなアリィの口調だったが、詩瑠は妙に腹に落ちた。
まるで、さっき飲み込んだ野菜と肉の栄養が、胃から染み込んで広がっていくみたい。
「アリィちゃんさん、ありがとうございます」
「別に、アタシは何もしてないわよ」
「いえ……私、決めました!」
口に戻ってくる豚汁の味に乗って、詩瑠は力強く立ち上がる。
そんな彼女を、アリィは目を細めて眺めていた。
「今日、カヤちゃんのバイト先にいってみます! そして、少しでも時間を見つけて、ちゃんと話をしてきます!」
「そう。がんばんなさい」
「はい! がんばります!」
詩瑠は拳を握り締め、誓う。
ほんのわずかな時間でも良い。時間が見つかるまで、どれだけ待つことになっても良い。あったか荘流のやり方をやってみよう。
また一つ、少女の決心が響き渡った。
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