ホイッスルは、まだ鳴らない。

ブリードくま

プロローグ

終わりと始まり

雪は、ピッチに降り積もる前に溶けた。

つかみかけたものが、指の間からこぼれ落ちる。


0対1。

試合終了のホイッスルが、冬の空に鋭く響いた瞬間、すべてが止まった。


霜に濡れた芝が膝を冷たく刺したが、痛みは感じなかった。

代わりに、胸の奥で何かが砕ける音がした。


この1年、彼らは無敵だった。

夏のインターハイを圧倒的な強さで制し、秋の高円宮杯では名門クラブユースを下した。

だが、“三冠”の最後の一冠――全国高校サッカー選手権だけが、大地の手をすり抜けた。


冬の全国高校サッカー選手権、決勝の舞台。

相手は宮崎代表の南条高校。公立の雄と称されるチームだった。

今大会で幾多の優勝候補を破ってきた“ダークホース”に、青葉は押し込んだまま決めきれなかった。

この試合の唯一のゴールは、後半32分。相手CB、一ノ瀬颯真のヘディングだった。


主将でCB、最後の最後にあれだけの高さで、的確に決めた一撃。

大地は、その姿をピッチ中央から見ていた。ただ立ち尽くすことしかできなかった。


南条高校は全国優勝の常連である青葉学園に比べれば、注目度は決して高くない。

確かに、一ノ瀬をはじめとする代表クラスのDF陣を軸に、結束力のある好チームではあった。

それでも、ほとんどの観戦者は青葉の勝利を疑わなかった。

しかし、たった一つの隙。たった一瞬のクロスが、すべてを奪った。


※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※


1年生エースの八神大地は、ピッチに這うようにして顔を上げた。

スタンドの歓声は遠く、仲間たちのすすり泣きだけが近くに聞こえる。


隣では、同じく1年生で正GKとしてゴールを守り続けてきた高木翔平が、うなだれていた。

最後の1点を止められなかった彼の肩は、小刻みに震えていた。

大地は何も言わなかった。ただ、彼と同じ悔しさを背負っていることだけはわかっていた。


「3冠なんて、ちっとも興味なかったのにな……」


誰に言うでもなく、大地はぽつりと呟いた。

けれど、取り逃がした“最後の1点”が、こんなにも胸を締めつけるなんて、思ってもみなかった。


そのとき、もう一人の足音が近づいてきた。

背後から聞こえたのは、主将・丸岡拓真のかすれた声だった。


「大地……俺のミスだ」


青葉学園のキャプテンマークを巻いた腕は、力なく地面に落ちていた。

チームを束ねてきた3年生、司令塔の丸岡は、涙を隠そうともせず、肩を震わせていた。


「違います」

大地は静かに首を振る。


「俺が、決めきれなかっただけです……」


言葉は冷たく、まるで自分を切りつける刃のようだった。

悔しさは、叫びや涙ではなく、静かな炎となって胸に宿った。


※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※


スタンドの片隅では、別の“試合”が始まっていた。スーツ姿のスカウトたちが、鋭い目でピッチを見据え、メモを手に素早く言葉を交わす。


「10番の子。右足のキック精度は高く、左も使える」

「いいターンをする。守備の読みも悪くないな」

「リバプールはもう映像送ったらしい」

「アヤックスはキャンプへの招待を仕掛けてくるぞ」


海外クラブのスカウトたちが、決勝を戦った選手たちを品定めするように囁き合う。

その光景は、さながらオークション会場のようだ。


名刺を握りしめた男が監督に詰め寄り、別のスカウトが通訳を連れて選手のデータを見比べる。

彼らの視線は、まるで未来の「商品」を値踏みするようだった。


だが、一人の男だけが、その喧騒から離れていた。


灰色のコートを羽織った瘦せた男。 スペイン訛りのドイツ語を呟きながら、ピッチを一瞥して静かに去った。

その背中を、大地は見ていなかった。


数日後、校舎の片隅にある会議室。

机の上には、欧州の名門クラブからのオファーが並ぶ。


リバプール、バイエルン、アヤックス――

どれも、少年の頃に夢見た名前だ。


だが、大地の視線は、端に置かれた一通の封筒に留まった。 角が少し潰れ、簡素なロゴが印刷された手紙。


〈八神大地様 先日の試合、素晴らしいプレーでした。 近いうちに、直接お話ししたい。 私たちは、選手の「未来」を信じます。

SV Werder Bremen

国際スカウト カルロス・リベラ〉


※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※


その翌日、グラウンドにカルロスは現れた。

スーツではなく、使い古したジャージを着て。


ボールを軽く蹴る大地に近づき、たどたどしいが温かな日本語で言った。


「君のサッカーは、まだ未完成だ。けれど──」


一拍置いて、大地をまっすぐ見つめる。

その視線は、まるで心の奥を覗くようだった。


「未完成だからこそ、プロで磨くべきだ。今のままでは終わらせない。君は、その先に立つべき選手だ」


胸の奥に、言葉にならない熱が広がる。

ただの賞賛でも、慰めでもなかった。

何かを信じて預けてくれるような──そんな言葉。


「他のクラブは、君に“未来のエース”とか“日本の宝”とか、気持ちのいいことばかり言っただろう?」


カルロスの目が細められる。皮肉でも嫌味でもない、静かな断定だった。


「でも私は、君に厳しい現実を突きつける。うちには約束されたポジションも、特別待遇もない。見せてもらうしかないんだ」


静かな口調だったが、言葉の奥には、火のような熱があった。


「セレクションを受けてほしい。そこで、君のサッカーを見せてほしい。私たちに、そして何より、君自身に」


大地は息を呑んだ。


その言葉は、まるで挑戦状だった。

そして、その先にしか、本当の答えはない気がした。


「考えてくれ」


カルロスは短くそう言って、背を向ける。

その背中は、どこか挑戦者のようで、どこか、父親のようでもあった。


※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※


成田空港。 出発ロビーのガラス窓に、雪混じりの風が叩きつける。

大地は、スパイクの入ったバッグを肩にかけ、搭乗券を握りしめた。


あの決勝の敗北、届かなかった1点の重さは、まだ胸に残っている。

だが、その痛みが、なぜか今、力をくれる。


(ブレーメンで、俺は自分のサッカーを見つけてみせる)


チェックインを済ませたあと、スマホの電源を入れた。

通信が戻った瞬間、いくつかの通知がまとめて表示された。


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『【高校サッカー】「天才」から「戦犯」へ。八神が退学届を提出!』

『八神がU-17代表候補から落選!』

『卒業せずに退学?謎多き決断に波紋。関係者も「残念」』

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通知をそっとスワイプして消す。

消えたのは画面だけで、胸の奥のざわつきはそのままだ。


(知ってる。誰よりも、自分が一番)


大地は一歩を踏み出した。 背後で、家族の声が遠ざかる。 前には、知らない空が待っている。

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