第30話【晴れゆく空の下で】
翌朝、群馬県警白鷺署の前に、朝の光が差し込み始めていた。
署の駐車場には、県警の車両が数台と、警視庁の捜査車両が並んでいる。その傍らで、湊たちはそれぞれの別れを迎えていた。
「ま、これに懲りたら、山はしばらくやめとくさ」
小田切が笑いながら言うと、高峰はそっと頷いた。彼女の腕には包帯が巻かれていたが、表情は穏やかだった。
「山は……逃げないから、大丈夫」
赤坂は手を振りながら、湊に目配せする。
「今度こそ、平穏な旅行がしたいもんだな、探偵さんよ」
「探偵はどこへ行っても事件を呼ぶって、噂されてるからな」
湊がわずかに笑うと、赤坂も小さく苦笑した。
「探偵ってのも、難儀な職業だな。そうだ。今度、家を建てたり事務所を改築したくなったら呼んでくれ。可能な限り対応してやるぜ」
「ああ、頼む」
湊と赤坂は、ガッシリと握手をかわした。
言葉は多くなかったが、確かな信頼がそこにあった。
「三ツ葉沙耶さんは私が都内まで責任を持ってお送りします」
柏原が署員に告げると、沙耶がその後ろから顔を覗かせた。
「湊さん、また……すぐに会えるよね?」
「ああ。きっとな」
沙耶はそれで安心したのか、小さく頷いて柏原の車に乗り込んでいった。
その様子を見守っていた宮坂刑事が、手帳を閉じながら湊に近づく。
「菊池舞さんのことですが、命に別状はありません。幸い、後遺症も残らないとのことです」
「そうか……それは、よかった」
湊の声には、わずかな安堵の色が混じっていた。
だが、事件のすべてが終わったわけではない――そのことは、誰もが薄々感じていた。
午前十時を少し回った頃、柏原の車は、東京都心の閑静な住宅街に滑り込んだ。
助手席の沙耶は、窓の外を眺めながら静かにしていたが、自宅の前に車が止まると、ぱっと顔を明るくした。
「ありがとうございました、柏原さん」
「いえ、こちらこそ」
柏原は助手席のドアを開けると、沙耶が降りて小さく頭を下げた。
「……また、湊さんに会えるよね?」
「ええ。きっとすぐに会えるわ」
沙耶は安心したように笑ってから、玄関へと歩き出した。
門の前で一度だけ振り返り、柏原に手を振ってから、ゆっくりとドアを閉めた。
車内に静寂が戻る。
ふと、柏原の眉がわずかに動いた。
(……そういえば)
彼女は今、確かに“東京のこの家”に帰ってきた。だが、ならば――どうやって白鷺館まで辿り着いたのか。
自宅から群馬の山奥まで、一人で? どうやって交通手段を調達し、どうやって館の中に入った?
そんな基本的な疑問に、誰も答えていないことに気づいた。
「……妙ね」
声に出した瞬間、スマートフォンが振動した。
画面を見ると、警察庁の官房室からの着信が表示されていた。
柏原は目を細めて応答ボタンを押す。
「はい。……わかりました。すぐ向かいます」
再び車のエンジンをかけると、彼女はハンドルを握ったまま、ちらりと玄関の閉じられた扉を見やった。
沙耶の中にある“謎”が、微かに形を取り始めていた。
だが今は――まず、本庁に戻る必要があった。
数日後の午前。
雨上がりの空はどこか霞がかっていて、ビルの隙間から差し込む光がまだ心許なかった。
湊の探偵事務所では、理沙が小さなポットから湯を注ぎ、コーヒーの香りが静かに立ち上っていた。
「どうぞ、少し濃いかもしれないけど」
「ありがとう」
湊は受け取ったカップを手に、窓際のソファに腰を下ろす。
新聞を広げながらも、記事に目を落とすというよりは、無意識に文字をなぞっているようだった。
そのとき、控えめなチャイムの音が響いた。
理沙が小首をかしげながらドアを開けると、そこに立っていたのは――沙耶だった。
「こんにちは」
「沙耶ちゃん!」
理沙がぱっと表情を明るくすると、沙耶は小さく笑って頭を下げた。
「また来ちゃいました」
「ううん、嬉しいよ。湊さん、沙耶ちゃん来ましたよ」
ソファから顔を上げた湊は、静かに頷いた。
「元気そうだな」
「はい。やっぱり、ここに来ると落ち着くんです」
沙耶は靴を脱ぎ、いつものように湊のすぐ隣に腰を下ろした。
しばらくすると、もう一度チャイムが鳴った。
今度は柏原だった。
「失礼するわ。……あら、先客がいたのね」
「君も来たのか。警視庁も暇なんだな」
「別にそういうわけではないわ。ただ、私の立場は特殊なのよ」
「どうぞ、コーヒーです」
「ありがとう」
柏原は上着を脱ぎながら、理沙から手渡されたカップを受け取り、ソファの対面に腰を下ろす。
いつもと同じ椅子、いつもと同じ顔ぶれ――。
それが、どれほどかけがえのないことかを、皆が静かに感じていた。
部屋にはコーヒーの香りが満ちていた。
窓の外では、雨に濡れた街が少しずつ乾きはじめていた。
しばらく雑談が続いたあと、ふと理沙が新聞を手に取りながらつぶやいた。
「そういえば……白鷺館の事件、最近ほとんど報道されなくなりましたね」
その言葉に、場の空気がほんの少しだけ静まった。
「最初の数日は大きく取り上げられてたのに。最近は、ネット記事にもほとんど出てこないです」
「まあ、そんなもんだ」
湊は淡々とした口調で答える。
「センセーショナルな事件でも、犯人が捕まって、解決してしまえば報道価値は落ちる。世間の関心は常に“次”に向いているからな」
「でも……あんなに怖い事件だったのに」
沙耶がぽつりと呟いた。
その声には、怒りでも不満でもない。ただ、静かな“寂しさ”が滲んでいた。
湊はしばらく黙ったまま沙耶を見つめ、それから視線を新聞に戻した。
「……世間が忘れても、俺たちが忘れなければいい」
柏原が、少しだけ眉を下げた。
「そうね。報道は記録には残るけど、記憶には残らないもの」
沙耶はそれ以上何も言わなかった。ただ、膝の上で手をぎゅっと握りしめたまま、黙ってうつむいていた。
その沈黙が、事件の記憶をそっと包み込んでいた。
だが、次の瞬間、柏原の声がそれを割った。
「そういえば沙耶ちゃん、聞きたいことがあったんだけど」
「なんですか?」
「沙耶ちゃん、どうやって白鷺館まで行ったの?」
「……私が招待状を持っているのを見て、お母さんに連れて行ってもらったんです。」
「お母さんに?」
「はい。なんでだかお母さん、あの白鷺館に何かあるみたいで……」
「ふむ。関係者だったか、それとも……」
柏原は一瞬だけ考え込むような素振りを見せたが、すぐに小さく笑って言った。
「ま、いいわ」
神妙な雰囲気になりかけていたが、質問した柏原本人が、その神妙な雰囲気を打ち壊した。
湊たちは驚いた顔をしていたが、柏原は言葉を続けた。
「沙耶ちゃんが向かった方法さえわかれば、問題ないもの」
「君がいいというなら、いいんだろう」
柏原の言葉に対して、湊が皮肉を込めて言った。
それからしばらくして、探偵事務所に一通の封筒が届いた。
差出人は、群馬県警白鷺署。
理沙が受け取って封を切ると、中からは簡素な文書と、もう一通、別の封筒が同封されていた。
「舞さん……退院したそうです」
そう言って理沙が文書を湊に渡す。
「菊池舞の退院および保護完了報告」。警視庁と群馬県警の連携によって、舞は白鷺署にて一時的な保護を受けた後、都内へと護送されたらしい。
「宮坂刑事の言っていたとおり、後遺症も特にはなく、問題ないそうだ」
「ああ……よかった」
沙耶が安堵の息をつく。柏原も黙って小さく頷いた。
だが、理沙がふともう一枚の封筒を手に取ったとき、空気がわずかに変わった。
「これ……もう一通あるみたいです。差出人名は……記載なし」
湊がそれを受け取り、無言で封を切る。
中から現れたのは、一枚の手紙だった。
淡く黄ばみかけた上質紙。丁寧な筆致で綴られた文字を、湊は無言のまま読み進める。
誰も声をかけなかった。
理沙も沙耶も柏原も、湊の顔から徐々に表情が消えていくのを、ただ見つめていた。
そして数分後――湊は手紙をそっと折り畳むと、それを握りしめたまま、ぎゅっと拳を閉じた。
紙がくしゃりと音を立てる。
「……神楽鏡夜、か」
それ以上、何も語らず、湊はただ静かに目を閉じた。
外では、乾ききったアスファルトを風が渡っていた。
あの日、白鷺館で見た仮面が、まだどこかで笑っているような気がしていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます