あるいは白昼夢

最も穏やかな非日常

 二度寝と洒落こむにはうってつけの土曜、昼下がりにて、火災報知器の警報音に叩き起こされたことがある。我ながら寝起きとは思えない俊敏さでマンションを飛び出せば、外には消防車やパトカーが近づいているのが見え、一目でこれはただ事ではないぞと悟った。が、いざ脱出して、同じように避難してきた人たちを見ても、思いのほか深刻な様子ではなかった。それもそのはず、外から見ても火の手が上がっている様子はない。非日常としては中途半端というか、間近を消防隊員が行き来し、警察が交通規制をしている割に、見合った事が起きていない。どこで火災が起きたのかさえ判然としないのだ。僕らが慌てて脱出したマンションという名の当事者は、状況に一人取り残されたようにぽつんと棒立ちになっている。


 結果的に、どこかが爆発したなんてことはなく、しばらくすれば避難指示も解除された。僕が見聞きしたそれらしいものと言えば、駆けつけた消防隊員たちが「503が……」と話していたことと、担架を持って階段を駆け上がった彼らの背中ばかりである。誰かを乗せているのでもあるまいに、折り畳みもせず持ち運ばれている担架が、いやに記憶に残っていた。



 翌日、野暮用で外に出る羽目になった。やはり眠い目を擦ってエレベーターを降りると、少々きつい匂いが充満していた。花のような、自然的な甘さのある匂いだ。別段不快ではなかったが、僕は花の匂いが好きではない。すぐに外の空気を吸おうと足を速めたが、三歩目に差し掛かった所で制止する。逆再生したように足を戻して、503と書かれたポストを覗き込む。花の匂いが一層強まった。暗闇の中に、白い花束が窮屈そうに安置されているのが見えた。葉のような、細長い楕円の花弁六枚が規則正しく円陣を組んでいる花だったが、名前までは分からない。昨日の、視界の端を横切った例の担架のことを思い出して、僕はエレベーターに乗り直した。


 503号室は、五階に着いてすぐ左手にあるドアから入れる。と言っても、ちょっとドア前の様子を窺って、それで満足するつもりだった。


「ぇ」


 小さく声が洩れる。ガチャン――紛れもなく503号室から、確かにそう音がした。エレベーターから飛び出すと、大きく開け放たれた扉が刻一刻と閉まりかけていた。咄嗟に手を伸ばしかけたが、すぐにぴたりと制止させる。だって、それは紛れもなく不法侵入だ。野次馬根性甚だしいにも程がある。そのまま引っ込めようとした腕は、しかし何者かに掴まれ、釣り針にかかった魚のように僕の身は503へと引きずり込まれる。無理やり横転させられた僕の真上には、やけにひょろ長い男の顔があった。部屋の電気は点いておらず、性別の判断もしかねたが、ついさっきの力技が女性にできるはずもない。男は何も言わず、僕も何も言えない重苦しい沈黙が数秒。ややあって、男は奥へと歩き出した。


「ゼロ四つ」

「はい……?」

「ここを開けるパスワードだ。何度言っても、結局あいつは変えなかった」


 意味不明だった。確かにこのマンションの部屋は電子ロック式だが、唐突すぎるし意図も読めない。ついでに状況もまるで呑みこめない僕に対して、男は一方的に喋り続ける。


「まあ、一年近くろくに外出もしてなかったし、さして支障はなかったんだろう」

「……貴方は、その、ここの住民とお知り合いで?」

「腐れ縁だよ。随分前にさっきのパスワードを教わった」


 辻褄は合う。とりあえず体を起こして、後ろ手でドアノブに手をかける。じゃあこれで、と言いかけた言葉に先回りされる形で、男が再び口を開いた。


「まあ待てよ。気になってるんだろ、この部屋のこと」


 未だに電気ひとつ点かない暗闇の中で、男が居間へのドアに手を伸ばす。ぐい、と押し開けた先には、僕の部屋と同じレイアウトの七畳近い空間があった。ベッド、机と椅子、パソコン、クローゼット、殺風景だがよくあるひとり暮らしの部屋、その中心に、


「つまり、こういうオチだ。何となく予想してたかもしれないが、昨日の一件は火災報知器が誤作動を起こしただけ。ただ、その原因が練炭ってだけでな」

「……不自然です」


 そう言い返すと、男は怪訝そうな顔をした。


「というか、非合理的です。練炭は狭い部屋でやる方が成功しやすい。風呂場なりトイレなり、適した場所は他にあったはず」

「やけに詳しいな。ただ、それは希死念慮者への想像力がいささか欠けている」


 なんてことを言いながらクローゼットを開けた男は、その奥から小さな箱を取り出した。睡眠薬だ。その箱を真下にすると、中からカプセル錠の容器が転げ落ちる。全て空だった。


「人生最後の瞬間は穏やかに迎えたいに決まってる。あいつは眠るように迎えたかったのさ。言葉通りにな」


 確かに、ベッドは風呂やトイレには置けないだろう。503の住民の知人であることも加味すれば、何だかこの主張に真実味のようなものが生まれてくる。


「……わざわざ七輪を揃えるより、ロープを一本買う方がよほど楽で、確実です」

「まあ、そっちも考えはしただろうな」


 だが、と男はカーテンを開けたが、全く光は差してこない。可能な限り空気を密閉するためか、窓一面にはびっしりとテープが張り巡らされていた。


「それはな、静かで、穏やかすぎる。誰にも気づかれないくらいにな」

「……それに越したことはないんじゃないですか? 『そういう』人って、言っちゃ何ですけど、人に迷惑をかけたがらないタイプが多いですよね。誰にも知られずにできるなら……」

「そんなやつは、気を配る余裕すらなかったか、線路に飛び出したって心が痛まないタイプのどっちかだ」


 食い気味の否定。男は振り向きもせずテープだらけの窓を見ていたが、鏡越しに見られているような心地がして、やや足を一歩後ろへ置き直す。今思えば、このタイミングで逃げ出しておけば良かった。


「いいか。『そういう』やつが線路に飛び出すのは最終中の最終手段だ。迷惑中の迷惑だからな。ロープも同じだ。迷惑中の迷惑を、先延ばしにしているだけで」

「……あの、貴方は――」

「もしあいつに余裕がなかったら、俺たちはこんな所に居てられなかった。数か月後に異変に気付いた大家は、もっとひどい目に遭うだろうさ。最小限の迷惑だけで、終わらせて欲しかっただけだったんだ」


 そして、再びの沈黙。今回は十秒近く続いて、肩を深く上下させた男は、やがて何食わぬ顔でこちらに視線を投げかけた。


「そういえば、何か言いかけてたな。何だ」


 何だ、と言われても。返答に窮した。ふと思いついたたけの質問だし、わざわざ掘り返すほどのものでもない。なかったが、こちらに飛んできた視線はどうも凄みがあって、はぐらかせる空気ではなかった。


「貴方は、ここの住民と、どのようなご関係で」


 彼の目線が自分から離れる感覚がして、胸を撫でおろす。すぐさま踵を返した男は、窓のテープの端を掴むと、勢いよくべりと剥がした。昼下がりの太陽の上半分が、微かにこの部屋を照らし出す。


「腐れ縁だよ。ほとんど、同じ屋根の下だった」

「……ポストに投函されていた花は」

「さぁな。クチナシだったら、趣味の悪い冗談だ」



 それからの事はあまり覚えていない。503を出て、神妙な顔つきで自室に戻れば、妙な眠気がしてベッドで横になった気がするし、始めからこれは夢だったような気がする。夢かもしれない。考えてみれば、そもそも503で「事件」が起きたという保証すらないのだ。大したことのない理由で火災報知器が誤作動を起こしただけ、という現実的なオチもありうる。となると、途中から熱を帯びていたあの男の言も、全ては僕の白昼夢の産物ということになってしまう。

 非常に不本意だ。

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