第5話 公理の書き換え
人はなぜ、証明を欲するのか。
答えを得るためか。確かさを得るためか。
だが本当に重要な命題ほど、証明ではなく、出発点として受け入れられるものなのではないか。
——直也は、命題Pに対してそう感じ始めていた。
P:∀x∈C, ¬∃t (T(x,t) ∧ U(t))
可愛い女の子は排泄をしない。
彼がこの命題に出会ってから、観測し、推論し、背理法を試し、不完全性に至った。
それでもなお、この命題を「真」と呼びたかった。
ならば、世界のほうを変えるしかない。
直也のノートには新たな体系Z′の骨組みが少しずつ現れていた。
まず、体系Zが含んでいた現実の数理・生理・物理の命題群を部分的に取り込み、次に一つの新しい公理を加える。
【Z′の追加公理】
P(命題P)は初期公理である。
∴ すべての証明はPを前提として展開される。
その瞬間から、命題Pは証明すべき対象ではなく、証明の出発点となった。
証明されざる真理から、証明される体系が立ち上がる。
それは直也にとって、数学という宗教の神話創世に等しかった。
体系Z′では、「観測されないこと」は「存在しないこと」と矛盾しない。
観測は体系内の操作であり、観測不能は体系の構造的な盲点として内包される。
しずくの“痕跡のなさ”は、Z′の中でこそ自然に統合される。
直也はそれを直観主義的モデルと呼んだ。
「真理は、構成されたものだけが語りうる」
——では、可愛い女の子の中に“構成されない痕跡”があるのなら、
その真理は、最初から構築不能である。
よって、命題Pを信じることは、
構築不可能な完全性を初期から認めることである。
ある日、直也はそのノートをカフェに持ち出した。
しずくと静かな午後の光を共有するために。
「……僕は今、世界を書き換えてるんだ」
しずくはカップに口をつけ、目だけを動かして言った。
「世界を? 一人で?」
「うん。君をモデルにした新しい体系。
そこではね、“可愛い女の子がうんこをしない”ってことが、最初から真なの。
疑う必要もないし、証明もいらない」
しずくはスプーンでカップの中をゆっくり混ぜた。
「じゃあ、その世界では、私ってどういう存在なの?」
「……天使だよ。
Z′における“可愛くて痕跡を残さない存在”。
それがこの体系の中での天使の定義になる」
「それって……ありがたいけど、ちょっと怖いかも」
しずくは窓の外を見た。春がすっかり終わりを迎えて、街の色が緑から銀に変わろうとしていた。
「私が私でいるってことが、誰かの体系を支えてるって、少し不安になるね」
「不安にさせてるなら、……ごめん。でも、感謝もしてる」
「……どうして?」
「君がいてくれることで、僕はZ′の中にいられる。
この世界の常識や証拠や現実とは別の座標に、ちゃんと立ててるんだ。
それがどんなに個人的でも、僕にとっては完璧な世界なんだよ」
しずくはしばらく沈黙した後、こう言った。
「じゃあさ。
——もし私が、うんこをしたって言ったら?
その世界、壊れちゃうの?」
直也は黙った。
だが、数秒後に首を振った。
「壊れないよ。
その瞬間、僕はPを公理から外して、新しい体系を作る。
でも……そうしない限り、僕のZ′では、君は天使のままだ」
しずくは微笑んだ。泣いているようにも見えた。
夜のノートの最終ページには、直也の手でこう記されていた。
Z′:しずくを含む体系における存在論
公理P:∀x∈C, ¬∃t (T(x,t) ∧ U(t))
C:可愛い女の子の集合
天使 = x∈C ∧ P(x) ∧ Z ⊭ ¬P(x)
ゆえに、
綾原しずく = 天使
これは、信仰ではない。
これは、世界の再定義である。
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