第13話 『実』のない私、『介』される記憶
教室の隅で掲示物の貼り替えをしていたときだった。
誰かの足音が廊下を通り過ぎていく。
その音に混じって、確かに聞こえた気がした。
『……悠介』
小さく、けれどはっきりと。
自分の名前を呼ぶ声。
いや――『かつての』自分の名前。
ペンを持った手が止まり、無意識に振り返る。
誰もいなかった。
廊下の向こうにも、人影はなかった。
「……気のせい」
そう言って笑おうとしたけれど、うまくいかなかった。
胸の奥がざわざわとする。
指先が冷える。
さっきまで当たり前に回っていた時間が、
何かを隠して止まったような感覚。
もう一度、掲示紙の角を押さえてテープを貼り直す。
でも手元のズレが気になって、何度も剥がし直してしまう。
「悠実先生、大丈夫ですか?」
後ろから生徒に声をかけられて、咄嗟に笑顔を作る。
「うん、大丈夫。ただ、ちょっと疲れただけ」
自分の声が、少しだけ低く聞こえた気がして、息を飲んだ。
教員としての自分は、『悠実』で間違っていない。
周囲もそう認識している。
名札も、職員リストも、メールの署名も、すべて『咲坂悠実』。
けれど――さっき廊下で聞こえた悠介という声は、
たしかに何かを突き刺してきた。
誰かが呼んだのではない。
たぶん、自分自身の奥から漏れた声。
名前は、ラベルではなく、
内側の呼び声なのかもしれない。
放課後、鏡の前でリボンを結び直す。
その手元が、ほんの少し震えていた。
「私は、悠実。……だけど、ほんとに?」
問いかけは、リボンの端を握る指先に溶けて消えた。
制服の胸元だけが、やけに重たく感じた。
夜、図書室の廊下を歩いていた。
誰もいない放課後の校舎。
薄明かりの中で、自分の足音だけが響いている。
「……先生」
ふいに背後から声をかけられた。
振り返ると、凛がいた。
制服の袖をまくり、少しだけ肩で息をしている。
「今日、避けてたよね?」
問いかけは、思ったよりもまっすぐだった。
「別に、そんなつもりじゃ……」
「嘘。顔見ればわかる。なんか、俺のこと遠ざけようとしてた」
言葉に詰まった。
彼は悪くない。
なのに、どうしてこんなにも胸が痛むんだろう。
「……ねえ、もしさ」
自分の声が震えそうになるのをごまかすように、壁にもたれる。
「私が、もし変わらなかったら、
凛は私を好きになってたと思う?」
凛は眉をひそめた。
少し考えてから、静かに答える。
「うん、わからない」
「……そっか」
「でも、今の悠実は好きだよ。
ちゃんと好き。そういうの、関係なく」
その言葉が、胸の奥に突き刺さる。
「変わらなくても好きだった」は、きっと嘘。
でも――「変わったから好き」も、嘘にしか聞こえなかった。
「ごめんね。変なこと聞いて」
「ううん。でも……先生さ」
「なに?」
「今の姿で、苦しい?」
その問いが、あまりにも優しくて、返事ができなかった。
苦しいなんて、言えるはずがない。
だってこの身体は、私が望んだものだった。
変わりたいって思った。
女子高生になりたいって、ずっと夢見ていた。
今、こうして制服を着て、リボンを結んで、
毎日凛と話して、笑って――
全部、全部、叶っているはずだった。
なのに、どうして……
自分の声が、こんなに遠いんだろう。
「苦しいって言ったら、凛はどうする?」
「それでも、君のことを好きでいると思うよ」
その言葉が怖かった。
苦しくても愛されるなら、私はこのままでいなきゃいけない。
戻る理由が、どんどん失われていく。
『変わった姿』を正解だと認めてしまえば――
『変わる前の自分』は、もう肯定できなくなる。
「……私は、変わらなきゃ愛されなかったと思ってるんだよ。
だから、戻るっていう選択肢が、どんどん消えていくの」
呟いた声が、制服の襟元に吸い込まれて消える。
凛は何も言わなかった。
ただ、黙ってそばに立っていた。
それだけが、今の私には優しすぎて、
重たすぎた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます