第6話 恋が教壇を揺らした日
二時間目。教室の時計が午前九時四十分を指していた。
咲坂悠美は、教卓の前に立っていた。
昨日よりもスカートの裾が軽く揺れるのがわかる。
風が入る窓際を避け、黒板に向き直る。
チョークを握る指が、細く、軽かった。
この指で、数日前までは男子の筆跡を書いていたはずだと思うと、
少しだけ笑ってしまいそうになる。
「今日は、ちょっとだけ短い詩を読みます」
悠実はそう言って、プリントを黒板の横に貼った。
「タイトルは、『反復』――
書いてある言葉はとても少ないけれど、
読み終わったあとに、残るものは多いかもしれません」
そう言って、黒板にチョークで詩を書き始める。
おぼえてわすれる
さがしてわすれる
なおしてわすれる
いつもわすれる
でも
自分はわすれない
「どう思いましたか? 『忘れる』という言葉が繰り返されてるけど、
最後の一行が、何か違う温度を持ってる気がしませんか?」
黙読する生徒たちの向こう、窓から差す光のなかで、
悠実の胸元のリボンが、わずかに揺れていた。
それは、今まさに『誰かを忘れたがっている』自分と、
『忘れたくない』誰かの狭間で揺れる心の証だった。
「じゃあ、この段落、どうして『わざと曖昧な表現』を使ったと思いますか?」
教室の前に立つ声は、以前よりも柔らかく通っていた。
通り過ぎた自分の声が、女子のものとして響き、黒板に吸い込まれていく。
その声で語彙を切り分け、構文を解説し、詩を読んでいる自分が、
まるで『最初からこうだった』かのように滑らかだった。
でも、その滑らかさが怖かった。
机の間を歩くと、生徒たちの視線がふっと寄るのを感じる。
男子の視線は、あからさまに悠実の胸元に刺さる。
わざとらしく伏し目がちに見せようとしたとき、スカートの裾が太ももに触れた。
まるで、それが視線の代わりに自己主張しているようで、ぞわりとした。
誰も気づいていない。
この姿が、咲坂悠介だった自分の『なれの果て』であることを。
いや、世界は最初から悠実しか知らないのだ。
咲坂悠介という男が、ここに立っていたことなど、誰も覚えていない。
教壇に戻って一息つく。
チョークの粉が、ブラウスの袖にうっすらとついている。
それすらも、清楚な教師としての装いに見えてしまうのだろうか。
どこかから「今日の先生、また女子アナっぽい」と小さく囁く声が聞こえた。
笑ってごまかすことはできる。でも、胸の奥で何かがざわめいていた。
「はい、じゃあそこ、意見ある人?」
視線を教室に投げると、いくつかの手が挙がる。
そのなかに、彼――水瀬凛の姿もあった。
男子制服を着こなし、姿勢よく座った彼は、変化した身体に完全に適応していた。
でも、悠実と目が合った瞬間、彼の目だけが微かに笑った。
まるで、「そのスカート、ちゃんと着こなしてるね」とでも言うように。
「はい、水瀬くん」
「『曖昧』って、相手に委ねるためでもあるけど、
自分を隠す手段でもあると思います」
その答えは的確だった。
でも、悠実はその言葉に違う意味を読み取ってしまった。
『君自身が、そういう選択をしたんだろ?』――
そんな含みを持っているように思えた。
もしかして、あの『曖昧さ』を今一番使っているのは、私の方かもしれない。
授業が終わり、生徒たちがわらわらと教室を出ていく。
女子生徒が何人か寄ってきて、「先生、リップ変えました? かわいいです」と声をかけてくる。
「ううん、変えてないよ」
答える自分の声は、もう完全に悠実だった。
誰も疑問を抱かない。
スカートを穿き、リボンを整え、声を張って教壇に立つこの姿が、
『咲坂悠実』として定着している。
悠実は教卓の引き出しに手を入れ、そっと自分の筆箱を取り出す。
蓋に貼られたシールは、女子高生らしいピンクのロゴ。
「これ、私の……だったっけ?」
問いかけた声に、誰も答えない。
代わりに、リボンの端が胸元でふわりと揺れた。
それが、今の自分を肯定する唯一の応答だった。
昼休み。
悠実は職員室を出て、人気のない中庭の端に立っていた。
缶コーヒーを開けようとして、プルタブに指をかけた瞬間、
「先生、開けますよ」
という声がすぐ近くで聞こえた。
その声に、思わず手を止めて振り向く。
水瀬凛――今は『男子生徒』の姿になった彼が、そこに立っていた。
黒髪がさらりと額にかかり、制服の第一ボタンはゆるく開けられていた。
けれど、その雰囲気は、変わる前の彼女とまったく同じだった。
声のトーンも、距離感の詰め方も、目の奥の光も。
「……また来たの」
悠実は笑って言った。
この昼の中庭に彼が来るのは、もう三度目だった。
まるで決まった時間に恋人の元へ顔を出すみたいに、当たり前のように隣に来る。
「だって先生、ここならリボン外して深呼吸してるから」
「見てなくていいの」
「見てないわけないでしょ。……似合ってるのに」
そんな風に言われたら、もう返す言葉なんてなかった。
「『似合ってる』って、どういう意味で言ってるの?」
挑発に近い声を投げたが、彼は少しも動じなかった。
むしろ少し笑って、視線を逸らしながらこう言った。
「言葉の通り。俺の『好き』が形になった結果なんだから、
似合ってるに決まってるでしょ」
「……っ」
それは、逃げられない理屈だった。
誰よりも彼が、それを知っている。
恋が成立した日、悠介だった自分が『彼の好き』に合わせて、
悠実という存在になったことを。
「ずるいよね」
ぽつりと呟くと、彼は「何が」と返す。
「君はその姿で、全部肯定してくる。
恋人として、クラスの生徒として、
私を『こうなったもの』として受け入れて、笑って……」
「じゃあ、俺が今ここで『前の姿に戻って』って言ったら、先生は嬉しい?」
問いを返され、息が止まる。
それは優しいようでいて、地獄の確認だった。
「……わかんない」
ようやく口を開いたその一言が、あまりにも情けなくて、顔を伏せる。
でも彼は、ためらわずに近づいてきた。
指先で、悠実のリボンの結び目をそっと直した。
「ね、先生」
「……なに」
「今日のリボン、いつもより上手に結べてるよ」
その言葉に、どうしてか胸が熱くなった。
彼に褒められるために結んだわけじゃない。
でも、彼がそう言ってくれることで、
自分が今この身体でここにいてもいいのかもしれないと、
一瞬だけ思ってしまった。
「……それ、セクハラだよ」
やっと返せた言葉はそれだった。
彼は楽しそうに笑った。
「そっか。じゃあ、ちゃんと『生徒』らしく反省しておく」
手を振って、彼は教室へ戻っていった。
スカートの裾を直しながら見送るその背中は、悠実の知っている彼女じゃない。
でも、恋をした相手の一部は、ちゃんとそこに残っている気がした。
「私、ちゃんと『この私』として見られてるんだな……」
声に出すと、風がリボンを揺らした。
そのリボンは、恋の重さだけで形作られていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます