第2話 南十字星の下で、君と

あの、ナウルの空を数百万年の眠りから覚めた光が駆け上がり、宇宙空間に巨大なサインを描き出してから、およそ一か月が過ぎていた。


世界中のメディアが一時騒然となった「南太平洋のミステリーサークル」も、続報がないまま人々の関心から遠ざかりつつあった。 ナウルの島にも、再び穏やかな海風が吹いている。 リン鉱石採掘場の跡地は、相変わらず荒涼とした風景を晒しているだけで、あの石板から何かが再び起こる気配はなかった。



僕、ボウイは、そんなナウル政府観光局で働く、ごく普通の青年だ。 二十代前半。容姿に自信があるわけでもなく、特別な才能があるわけでもない。 毎日、観光パンフレットの埃を払い、たまに島外から視察に来る役人のおじさんたちの相手をするくらいが僕の仕事だった。 まあ、のんびりしていて、心優しいのが唯一の取り柄かな、と自分では思っている。 かつてリン鉱石景気に沸いた頃の活気は知らないけれど、この小さな島と、そこに暮らす人々が好きだった。


そんな、いつもと変わらない、というにはまだ少し非日常の余韻が残るある日のことだった。観光局の、潮風に少し錆びついたドアがゆっくりと開かれた。 そこに立っていたのは、一瞬、目を奪われるほどの「美しさ」を纏った女性だった。


腰まで届く、光を浴びて七色にきらめくような、見たこともない不思議な色の髪。 深い夜空の星々を映し出したかのような、吸い込まれそうなほど美しい瞳。 ぴったりとした薄手のワンピース越しにも分かる、ナウル人のそれとは少し違う、完璧に研ぎ澄まされたようなボディライン。 年齢は僕と同じくらいか、少し若いだろうか。


彼女は、少し戸惑った様子で、たどたどしい英語で話しかけてきた。


「アノ…ココ…カンコウ…シタイ…デス…カ?」


言葉の区切りがおかしく、発音もぎこちない。 まるで、生まれて初めて英語を話しているかのようだった。


「ああ、はい。ここは観光局です。ナウルへようこそ。観光をご希望ですか?」


僕はいつもの定型句で答えた。ナウルに観光客なんて本当に珍しい。しかも、こんなに美しい人が一人でなんて。少し身構えながらも、彼女の瞳の美しさに、つい言葉が丁寧になる。


「ソウ…デス。ワタシ…コノ、シマ…カンコウ…シタイ…デス。ソシテ…SNS…ハッシン…シタイ…デス。」


SNSで発信? ナウルのことを?  彼女は旅行系のインフルエンサーらしい。 どうせ今日はやることがない。 それに、こんな美しい人を放っておく手はないだろう。


「分かりました。どうぞ、私が島をご案内します。ボウイです。どうぞよろしく」


僕がそう言うと、彼女はホッとしたように、少しだけ頬を緩めた。 その笑顔は、陽の光を受けてさらに輝き、僕の心を少しだけざわつかせた。


「ワタシ…リリア…デス。」


「リリアさん、よろしく」


ナウル島内を一緒に回った一日。 それは僕にとって、忘れられない、夢のような時間となった。 青い空、白い砂浜、透明な海、そしてあの奇岩群が広がる採掘場跡地…。 僕には見慣れた、時には少し寂しく感じる風景も、リリアさんの目には全てが輝いて見えているようだった。


「ウミ…キレイ…!」

「スゴイ…コレ…ナニ…?」

「トリ…カワイイ…ネ!」


彼女は一つ一つの光景に心底驚き、子供のように無邪気に喜んだ。


その純粋な反応を見ているうちに、僕の胸にはじんわりと温かいものが広がった。 自分の故郷が、こんなにも誰かにとって魅力的で、感動を与える場所なんだという、ささやかな誇り。 これまでパンフレット整理ばかりだった仕事が、初めて誰かの役に立っている、この島の魅力を伝えられている、そんな確かな充実感を感じていた。


そして、何よりも驚かされたのは、リリアさんの学習能力だった。 最初はあんなにたどたどしかった英語が、僕が彼女に話しかけ、色々なものを説明するうちに、まるで高性能なAIがデータを取り込むように、驚異的な速さで吸収されていくのだ。 午前中には単語を繋げるのが精一杯だったのに、お昼過ぎには簡単な会話になり、そして夕方、島を一周する頃には、まるでネイティブのように流暢な英語を話せるようになっていた。


「ボウイさん、今日の案内、本当に楽しかったわ! ナウルって、想像以上に素晴らしい島ね!」


流暢な喋りでそう言われた時、僕は思わず立ち止まってしまい、まじまじと彼女の顔を見つめてしまった。リリアさんは、僕の反応を楽しんでいるかのように、悪戯っぽく微笑んだ。


ナウル沖に夕日が沈み、空と海がオレンジと紫のグラデーションに染まる頃。ビーチ近くの丘の上に立ち、二人並んで息を呑むような絶景を眺めていた。


「ありがとうのお礼よ、ボウイさん」


リリアさんはそう言って、そっと掌を僕に差し出した。そこには、淡い光を宿した、見たこともないほど繊細で美しい、小さな宝石が乗っていた。


「これ、口に含んで海に入ると、息をしないでもずっと泳げるの。 私の故郷の技術で作られたもの。 もしよかったら、試してみてね」


彼女は宝石を僕の掌に乗せ、それだけを告げると、くるりと踵を返し、丘を下りていった。 夕日の残光の中、彼女の華奢な姿はあっという間に遠ざかり、やがて水平線に消えゆく太陽のように、僕の視界から消え失せた。 掌に残された、温かい宝石。 一日で完璧になった言語能力。 そして、彼女の圧倒的な美しさと、全てを見透かすような不思議な瞳。


丘の上に一人取り残された僕は、その日一日の出来事が、まるで現実離れした夢だったかのように感じていた。 そして同時に、あの不思議で、魅力的で、そして少し切ない横顔を見せたリリアさんに、もう一度会いたいと、強く強く思うようになっていた。 南十字星が、そろそろナウルの夜空に輝き始める頃だった。

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