第5話「いちご狩りだぜ」
母とふたりでいちご狩りに出かけた。
車の運転ができない私たちにとって、こうした小さな遠出はちょっとした冒険だ。駅を乗り継ぎ、住宅街を抜け、農道のような細い道を歩いて、ようやく目的地のいちご農園にたどり着いた。移動の不便ささえ、今日は少し楽しい。
歩く道すがら、母は道端の草花にたびたび足を止めた。「見て、シロツメグサが咲いてるわ」「あ、ダンゴムシ。昔、よく捕まえたね」「ポケットにダンゴムシは入れないでほしかった。しかも大量」「それは本当にすまぬ」
私はといえば、見知らぬ場所を歩くというだけで妙にテンションが上がって、小さな蜂の羽音にも過剰に反応してしまう。こんなふうに母と並んで歩く時間は、思っていたよりずっと、心が満たされるものだった。
農園の受付で名前を書き、ビニールハウスの中へ案内された。中は甘い香りで満ちていて、一歩踏み込んだだけで、いちごの赤が視界を埋め尽くした。摘み放題の30分。ハウス内にはすでに何組かのグループが楽しんでいて、笑い声がこだましている。
私は早速、一粒のいちごを選んで、ヘタを親指と人差し指でつまみ、くるりとねじるようにして取った。白いカップに入っていた練乳にちょんとつけて、ぱくり。
口の中に広がるみずみずしさ。甘さの中にほんの少し酸味があって、どこか懐かしい味がした。手のひらを見れば、いちごの果汁が指の間ににじんで、まるで血のように真っ赤だった。食べては洗い、また食べては洗い…その繰り返しが、なんとも幸せだった。
親子で美味しい美味しいと言いながらムシャムシャ。食べる手が止まらない。お互いの真っ赤な手を見て、可笑しくなり笑い合う。
子どもの頃、パック詰めのいちごを食べていた記憶はあるけれど、いちご“狩り”というのは、まったく別の楽しさがあった。
しばらく夢中になっていちごを頬張ったあと、ふとゴミ箱の方に目をやった。その中には、食べ終えたいちごのヘタが捨てられている…それはいい。だが、よく見ると、その中に捨てられた数々のヘタには、まだ赤く残った実の部分が、たっぷりとついていた。えっ? と思わず目を疑った。
そのとき、近くのベンチで休憩していた若い女性たちのグループに気づいた。20代前半くらいだろうか。五人並んでスマホをいじったり写真を撮ったり、キャッキャとはしゃいでいる。何気なく彼女たちのいちごの器を見た瞬間、思わず目を見開いた。
彼女たちのカップの中には、ヘタと一緒に、まだ実の残るいちごがたくさん捨てられていた。どれも途中まで食べて、甘い部分だけ口に入れて、あとはまるごと捨ててしまったような状態。まるで「おいしい部分だけいただきます」と言わんばかりだった。
なんという食べ方…。
私はしばらくその場に立ち尽くした。自分より少し若いだけの世代。なのに、こんなに感覚が違うのかと、言いようのない衝撃を受けた。
いちごは、ひと粒ひと粒が宝石のように大切に育てられている。農家の人たちは、手間ひまかけて、この赤い実を実らせている。私たちは、その努力の果てを口にしているのだ。
なのに、そんなふうに無造作に捨てられてしまうとは…。
もちろん、人それぞれの楽しみ方があるのだろう。いちご狩りはエンタメでもあるし、食べ放題と銘打っている以上、多少の残しも仕方ないのかもしれない。でも、私はどうしても、その食べ方に心がついていかなかった。
私の手には、真っ赤ないちごの汁がついていた。それは夢中になって食べた証拠であり、いちごへの敬意のようなものだったのかもしれない。
母の器を見れば、どのヘタもきれいに食べられていた。彼女もきっと、同じ思いでいちごを味わっていたのだろう。
帰り道、母がぽつりと言った。「いちご、おいしかったわね。なんだか、子どもに戻ったみたいだった」
私も、うん、と頷いた。少し疲れたけれど、心の奥の方がぽっと温かくなっていた。
いちご狩りとは、ただ果物を食べるだけの行事ではなかった。
それは、小さな旅の思い出であり、母との貴重な時間であり、そして、食に対する姿勢を静かに問い直されるような、そんな一日だった。
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