第2話 星が見ていたもの
夜、ミユはよく夢を見るようになった。
その夢には、いつも光が差していた。
水の底から見上げた空のように、淡く揺らぐ光だった。
夢の中で誰かの声が聞こえることもある。
それは遠くから響いてくるようで、言葉はうまく聞き取れない。
けれどその声は――不思議と、ユウのものだと感じる。
目が覚めたとき、その内容は思い出せない。
けれど、胸の奥にはなにかが残っていた。
ユウは今日も、見張り台にいた。
波の音のなかに混じるように、そこに“在る”。
ミユが階段を上がってくるのに気づいて、ほんの少しだけ姿勢を正す。
「ユウ、今日も来てくれてありがとう」
そう言うと、ユウは目を細めた。
言葉の代わりに、風が吹いた。
ふたりで並んで座る。
何も話さなくても、それで十分だった。
「……ねえ、ユウ」
ミユはふと、空を見上げながら続けた。
「あなたって、どこから来たの?」
その問いはずっと前から心の中にあった。
でも、ようやく口に出せたのは、今日が初めてだった。
ユウは少しのあいだ沈黙してから、空を指さした。
その仕草は、どこかためらいがちな、でも確かな意志を含んでいた。
空には、小さな星が浮かんでいた。
まだ夕暮れの色が残っているのに、その星ははっきりとそこにあった。
ミユは思った。
(ユウは、本当に“星”から来たのかもしれない)
笑われるような想像だった。
でも、ユウの存在は、最初からこの世界のどこにも属していなかった。
だから、そう思ってしまうのも無理はなかった。
その夜、また夢を見た。
そこは海の底のような場所だった。
でも水の感触はなく、ただ空気だけが静かに満ちていた。
遠くで泡が立ち上っていた。
その泡の中に、誰かの姿が見えた。
輪郭の曖昧な、でも確かに“ユウ”に似た誰か。
そして、微かに言葉のようなものが響いた。
――きみを、見ていた。ずっと。
ミユはそこで目を覚ました。
窓の外は、夜のままだった。
夢の内容をはっきりとは思い出せなかったけれど、
その言葉だけが、はっきりと胸の中に残っていた。
「きみを、見ていた――?」
それが誰の声だったのか、どうしてその言葉が胸に刺さったのか。
わからないまま、ミユは布団の中で静かに目を閉じた。
ユウは、ただ泡のように現れた存在ではないのかもしれない。
あの日、突然現れたようでいて――
もしかしたら、もっと前から、ずっとここに“いた”のかもしれない。
***
ユウが空を指差した日から、ミユの中にはひとつの言葉が残り続けていた。
――きみを、見ていた。
それは夢の中で聞こえた声。
けれど確かに、その言葉には“記憶の匂い”があった。
覚えていないはずの記憶。
思い出すことのできない、懐かしさ。
ミユは、通学の途中にふと立ち止まることが増えた。
電柱の影、バス停のベンチ、港の錆びた看板。
どれも何度も見たはずの風景なのに、ある日ふいに“知らないもの”のように感じられた。
もしくは逆に、初めて通った道のはずなのに――
そこに“ユウがいたような気がする”ことがあった。
自分の記憶と、現実の境界が曖昧になっていく。
ある日、ユウはいつもの見張り台ではなく、港の防波堤の先にいた。
夕方、学校を早退したミユは海沿いの道を歩いていた。
すると遠く、海に突き出た岩の先に、ユウの姿が見えた。
(あんなところに、いたっけ……)
でも、違和感はなかった。
まるで、前からそこにいることが決まっていたかのように、
ユウは夕日を背にして立っていた。
ミユが近づくと、ユウは手を挙げた。
それは初めて見る仕草だった。
“待っていた”ということが、その身振りだけで伝わってきた。
ふたりで並んで波を眺める。
ユウの横顔は、橙色の光に透けるように揺れていた。
ミユは、そっと口を開いた。
「わたし、あなたに……会ったことがあるのかな」
返事はなかった。けれど、ユウのまなざしがやわらかくなったように見えた。
「わたしがまだ、すごく小さかったときに。
海で――誰かを、待っていた気がするの」
遠い記憶。
顔も名前も覚えていないけれど、
海を見ながら、何かを待っていた、確かな時間。
もしかしたらそれは、ただの夢だったのかもしれない。
でも、そこにはユウがいた気がした。
言葉にならないまま、それは胸に留まりつづけていた。
ミユは足元の石を蹴った。
波に洗われ、角の取れた小さな石。
それを見ているうちに、思い出したように言った。
「ねえ、ユウ。
わたしが知らないあいだに、あなたはずっと――
わたしを知ってたの?」
風が吹いた。
ユウの髪が、かすかに揺れる。
その仕草の中に、“否定しない何か”があった。
ミユは、やわらかく微笑んだ。
答えがなくてもよかった。
大事なのは、そのまなざしだった。
ユウは、どこかでずっと見ていた。
それが夢の中だったのか、星の上だったのか――それはまだわからない。
けれど今、こうしてここにいる。
それだけで、十分だった。
***
風が静かだった。
海の音が遠くに引いて、空気の中にわずかなざわめきだけが残っていた。
ミユは、ユウと並んで歩いていた。
港を抜けた先、砂利道のほうへ――いつもなら足を向けない方向だった。
でも今日は、ユウがそちらを見た。
言葉はなくても、“そっちへ行こう”という意思があった。
不思議と、不安はなかった。
むしろ、懐かしさのようなものが胸の奥で揺れていた。
砂利道の先、小さな公園がある。
錆びた鉄棒と、使われていない砂場。
昔はブランコもあったけれど、いまはもう撤去されている。
それを見た瞬間――ふいに、記憶が揺れた。
(ここ、来たことがある……)
小さい頃、まだ父が家にいた頃。
日曜の昼下がり、母と兄と三人で来た。
兄は遊具で遊び、自分はただその様子をじっと見ていた。
誰とも遊ばず、砂の上に小さな穴を掘って、
何かを待っていた。
何を?
思い出そうとしたけれど、そこから先がうまく浮かばなかった。
ただ、胸の奥に残っていた“空っぽの感覚”だけが疼いた。
ユウは、公園の隅に腰を下ろした。
その姿が、やけにそこに馴染んでいた。
(ユウも、この場所を知っていた……?)
声に出そうとしたけれど、やめた。
今はただ、その空気を受け取るだけでよかった。
ミユは砂の上にしゃがんで、小さな線を指でなぞった。
ユウはそれを見ていた。
言葉はなくても、どこかで“同じ記憶”をたどっているように。
ミユの心に、ふとした疑問が浮かんだ。
――もし、ユウがずっと前からわたしを見ていたとしたら。
――あのとき、何を思っていたのだろう。
忘れてしまったことがある。
思い出せないだけで、そこに確かにあったものがある。
そして今、それを“思い出させようとしてくれる誰か”がいる。
ミユはそっと言った。
「わたし……たぶん、小さいころからずっと、
何かを待ってたんだと思う」
ユウは、静かに頷いたように見えた。
夕日が、ゆっくりと傾いていく。
ふたりの影が長くのびて、やがて重なって、
砂の上に溶けていった。
***
午後の光が、いつもより淡く感じられた。
ミユは、自分の影が地面にうすく伸びているのを見つめながら歩いていた。
その影は、風にゆらいで、まるで輪郭を失いかけた誰かの姿のようにも見えた。
ユウは見張り台にいなかった。
少し不安になって、港の方を探してみた。
そのとき、視線の端で“揺れる何か”が見えた。
それはユウだった。
けれど、その姿は少しだけ、以前よりも“薄れて”見えた。
風のせいかと思った。
でも違った。
ユウの輪郭が、ほんのわずかに、いつもよりふわりとほどけていた。
ミユはそっと近づいて、何も言わずに隣に立った。
ユウは、微かに笑った気がした。
言葉はなかった。
けれどそのまなざしは、どこか遠くを見つめているようだった。
ミユは、昨日の夢のことを思い出していた。
――小さな星が、水の底に沈んでいく夢。
それを見つめている自分。
けれど、それは「今の自分」ではなく、「もっと小さかった頃の自分」だった気がする。
そしてそのそばに、泡のように浮かぶ誰かの気配があった。
それはユウだった。けれど、少し違う気もした。
言葉にならない違和感が、胸に滲んでいく。
「ユウ……わたし、ずっと忘れてたことがある気がするの」
ユウはそっと顔を向けた。
その目の奥に、なにか言葉にならないものが揺れていた。
「海のそばで、何かを待ってた。
だけど……もしかしたら、待ってたんじゃなくて――」
そこまで言って、ミユは口を閉じた。
思い出しかけて、でも掴めない。
指先から泡のようにすり抜けていく記憶。
ふと、ユウが立ち上がった。
海の方へ歩き出す。
その歩幅が、どこか頼りなく見えた。
「……ユウ?」
ミユが声をかけると、彼は立ち止まった。
そして、ゆっくり振り返る。
そのとき――一瞬だけ、ユウの影が“地面に落ちていなかった”。
ミユは息を呑んだ。
でも、その違和感をすぐには言葉にできなかった。
ユウはまた歩き出し、防波堤の先へと向かった。
その背中が、いつもより遠く見えた。
ミユは追いかけようとして、ふと足を止めた。
そのとき、胸の奥にひとつの確信めいた感覚が浮かんだ。
――ユウは、少しずつこの世界から“ほどけはじめている”。
それは悲しいことではなかった。
けれど、やさしいことでもなかった。
ミユは静かに歩き出した。
ユウのそばに立ち、海を見た。
空は広く、泡のような雲がいくつも浮かんでいた。
それらがゆっくりとほどけていくのを見ながら、ミユは思った。
(きっと、この記憶も、あの時間も――ひとつずつ、名前をつけて、残していかなくちゃ)
***
夜が静かだった。
風の音も、波の音も、どこか遠くで眠っているように感じられた。
けれど、ミユの中では何かがざわついていた。
布団の中で目を閉じても、すぐにユウの姿が浮かぶ。
そしてその輪郭が、昨日よりも、ほんのわずかに淡くなっていた気がする。
ユウはこの世界にいないのかもしれない。
いや、いる。たしかにいる。
でも、その“たしか”が、ほんの少しだけ、揺らぎはじめている。
次の日、ミユは早めに海へ向かった。
潮の香りが、いつもよりも濃かった。
風が、ほんの少しだけ冷たかった。
見張り台には、ユウがいた。
でも、その姿はやっぱり、ほんの少しだけ“遠かった”。
ミユはゆっくりと階段を登り、彼の隣に立った。
「ユウ」
声に出すだけで、輪郭が少しだけはっきりしたように見えた。
そのとき、ミユはふと思った。
(わたし、ユウの“何”を知っているんだろう)
名前をつけた。
そばにいた。
笑いかけた。
でも、それだけで“彼を知った”とは言えない気がした。
だからこそ、問いたくなった。
「ユウ、わたしね――
あなたに、名前をつけたとき、
ほんとうは“過去のどこか”に触れた気がしたの」
ユウは、ゆっくりと顔を向けた。
その瞳の奥に、確かに何かが揺れていた。
「あなたは、わたしの知らないことを、たくさん知ってるんでしょ?
……わたしが忘れてるだけで、あなたは全部、覚えてるんじゃないの?」
風が吹いた。
その風に、ユウの輪郭がふわりと揺れた。
本当に、泡になってしまいそうだった。
ミユは、そっと彼の手を取った。
冷たかった。でも、そこに“温度”があった。
「わたし、もう忘れたくない。
あなたがどこから来たかも、
わたしが何を忘れていたかも――」
言葉が胸の奥で震えた。
「だから、お願い。
まだここにいて。
いなくならないで。
ちゃんと、“名前”をつけさせて。
ちゃんと、“あなたのこと”を知りたいの」
そのとき、ユウの体が一度だけ強く光った。
輪郭が、ほんの一瞬だけ“はっきりとした”。
まるで――その願いに応えるように。
ミユの目に、涙がにじんだ。
でもその涙は、悲しみではなく、
「ここにいてくれている」という確かさに触れたことへの涙だった。
ユウは、小さく頷いた。
言葉はなかった。けれどその仕草は、答えになっていた。
その日の夜、ミユはまた夢を見た。
泡の中で、彼女は誰かの名前を呼んでいた。
けれど、その名前はまだ聞き取れなかった。
でも――次の夢では、きっと。
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