39 牙と心

 森に入って半日が過ぎた。


 木漏れ日からちらつく獣道を、俺たちは黙々と進んでいた。先頭を行くユランが、まるで道を切り開くように淀みなく進むおかげで、道程は驚くほどスムーズだった。とはいえ、俺たちの心は鉛のように重い。


 


「……にしても、静かすぎるな」


 


 最初に口を開いたのは、馬上で周囲を警戒していたフィオナだった。




「ああ、鳥の声ひとつしねえ。まるで、森全体が何かを警戒してるみてえだ」 


 


 ザルクも眉間にしわを寄せ、背中の大剣の柄に手をかけていた。彼の言う通り、普段なら賑やかなはずの森が、不気味なほど静まり返っていた。




「罠の匂いがぷんぷんするぜ、カイの旦那。帝国が仕掛けた伏兵か、それともトウラの奴らのお出迎えか……どっちだと思う?」




 ラズが軽口を叩くように言ったが、その目には一切笑いがない。




「どっちでも、やることは同じだ。来たヤツからぶっ飛ばす」




 俺がそう返すと、ザルクが「へっ、威勢がいいじゃねえか」と不敵に笑った。そうだ、この状況で暗くなっていても仕方がない。




「カイ様、前方三つの方向に、複数の気配を感知しました。数は……およそ二十」




 脳内にレイナの冷静な声が響く。やはり、ただでは通してくれないらしい。




「ユラン、止まってくれ。敵のお出ましだ」




俺の声に、一行がピタリと足を止める。


 ほぼ同時に、周囲の木々の間から、いくつもの影が音もなく姿を現した。黒ずくめの装束に、鈍く光る刃。その動きは統制が取れており、素人ではないことが一目でわかる。




「……バルディア帝国の暗部、か。随分と手厚い歓迎だな」




 フィオナが舌打ちし、抜き身の剣を構える。




「こいつら、トウラに向かう俺たちをここで始末するつもりか。ご丁寧なこった」




 ラズが懐から仕込みナイフを取り出しながらぼやく。




「数はこちらが不利だ。どうする、カイ?」


  


 ザルクが俺を見た。その目は「暴れていいか?」と雄弁に語っている。




「決まってる。――正面突破だ!」


 


 俺が叫んだ瞬間、ユランが雄叫びを上げた。


 その声だけで、周囲の空気がビリビリと震え、帝国の兵士たちが一瞬怯む。その隙を、俺たちが見逃すはずもなかった。




「行くぞ、お前らァ!」




 ザルクが馬から飛び降り、地響きを立てながら敵陣へと突っ込む。その大剣の一振りは、まるで嵐のように数人の兵士を薙ぎ払った。




「雑魚が、俺たちの旦那に手を出そうなんざ、百年早えんだよ!」




 フィオナもまた、流れるような剣技で敵をいなしていく。彼女の剣は速く、正確で、無駄な動きが一切ない。王都騎士団長の実力は伊達じゃなかった。




「我が主に仇なす愚か者どもめ!」


 


 ラズも負けてはいない。敵の死角に滑り込み、急所を的確に突いて次々と無力化していく。その動きは、まるで影の舞のようだった。




「さて、と。俺も遊んでるわけにはいかないな」




 俺は馬上で両手を広げ、創造の力を解放する。




「――絡みつけ!」




 地面から無数の蔦が勢いよく伸び、敵兵たちの足に絡みつき、動きを封じる。




「な、なんだこれは!?」


「足が……動かん!」




 混乱する敵兵たちに、ザルクの追撃が叩き込まれる。あっという間に、敵の半数以上が戦闘不能に陥った。




「ちいっ、化け物どもが……! 一旦引け!」




 リーダー格の男が叫び、残った兵士たちが蜘蛛の子を散らすように森の奥へと逃げていく。俺たちは深追いしなかった。目的はこいつらの殲滅じゃない。




「……ふう、ウォーミングアップにはちょうど良かったな」


 ザルクが剣を肩に担ぎ、満足げに息をついた。




「だが、これで確信した。帝国は、俺たちがトウラと接触することを本気で恐れている。……つまり、あの密約書は、やはり俺たちを分断するための偽物である可能性が高い」


 フィオナの言葉に、俺は力強く頷いた。そうだ、希望が見えてきた。




「よし、先を急ごう。バルハに直接会って、全部確かめてやる」




 俺たちは再び馬に乗り、速度を上げた。


 襲撃を乗り越えたことで、重苦しかった空気は消え、むしろ闘志が湧き上がってきていた。




 森を抜けると、視界が開けた。


 切り立った崖に囲まれた、広大な盆地。そこに、獣人たちの集落――トウラがあった。


 それは、俺が想像していたよりもずっと巨大で、洗練された「都市」だった。石と木で築かれた建物が谷に沿って立ち並び、吊り橋が地区と地区を結んでいる。中央には、ひときわ大きな議事堂らしき建物がそびえ立ち、その屋根にはトウラの紋章が刻まれた旗が風にたなびいていた。




「……こりゃ、たまげたな。話には聞いていたが、これはただの集落じゃねぇ」




 ラズが呆気にとられたように呟く。


 俺たちが崖の上から姿を現すと、すぐにトウラの哨戒兵たちが気づいた。鋭い角笛の音が谷に響き渡り、都市全体に緊張が走るのがわかった。


 やがて、吊り橋の向こうから、見覚えのある虎獣人が堂々とした足取りで現れた。


 バルハだ。


 その後ろには、ゴウランとシェルカの姿もある。


 俺とバルハは、トウラの入り口に架かる巨大な吊り橋の中央で、互いに数歩の距離を置いて対峙していた。背後にはフィオナたちが固唾を飲んで俺を見守り、バルハの後方ではゴウランとシェルカが険しい表情でこちらを睨んでいる。空気は、刃のように冷たく張り詰めていた。




「話、とは何だ。カイ殿。貴殿がアポもなしに、しかもこれほどの屈強な者たちを引き連れて現れた理由を聞かせてもらおうか」




 バルハの声は、大地が震えるような威圧感を帯びていた。だが、その金色の瞳の奥に、俺はほんのわずかな戸惑いと、隠しきれない悲しみの色を見た。




「あんたに、見せたいものがあって来た」




 俺は懐から、あの忌まわしい密約書を取り出し、バルハの足元へと滑らせるように投げた。羊皮紙は風に煽られ、カサリと乾いた音を立てて彼の足元に止まる。




「……これは」


 


 バルハは眉をひそめ、それを拾い上げた。ゴウランとシェルカも、その背後から内容を覗き込む。


 次の瞬間、三人の獣人の顔色が変わった。


 ゴウランの口から、抑えきれない怒りの唸り声が漏れる。シェルカは信じられないといったように目を見開き、息を呑んだ。


 そしてバルハは、羊皮紙を握りしめるその拳を、わなわなと震わせていた。




「……ふざけるな。我らトウラを、ここまで愚弄するか」


 


 その声は、怒りというよりも、深い侮辱を受けた者の、魂からの叫びだった。




「俺も、そう信じたい。だから、直接あんたの口から聞きたくて来たんだ。この密約書は、あんたが書いたものか?」




 俺の問いに、バルハは顔を上げた。その瞳は、怒りの炎で燃え上がっていた。




「……愚問だな。我が牙と誇りにかけて、断じて否である。我ら獣人が、卑劣な帝国などに魂を売るものか。この印章……確かに我が印を精巧に模倣してはいるが、こんなもので我らの絆が揺らぐとでも思ったか」


「なら、なぜあんたはそんな悲しい目をしている?」




 俺は、一歩踏み込んだ。




「俺たちがここに来た時、あんたは驚き、そして悲しんでいた。まるで、俺たちが疑いの目を向けてくることを、予期していたかのように。違うか?」




 バルハはぐっと言葉に詰まった。その反応が答えだった。




「……そうだ。貴殿らがここに来る数日前から、トウラの内部でも不穏な噂が流れ始めていた。『ルディアの人間は、我らを労働力としてしか見ていない』『いずれ我らは切り捨てられる』とな。何者かが、我らの間にも不和の種を蒔いていたのだ。そして今、この偽りの書状……すべては、我らを引き裂くための帝国の策謀。それを理解できぬほど、我らは愚かではない」




 バルハの言葉に、俺たちの背後でラズが「……なるほどな」と呟いた。


 敵は、両方に同じ仕掛けをしていたのだ。互いに疑心暗鬼を生む、二重の罠。




「だが、カイ殿。我らが潔白を叫んだとて、貴殿らはそれを鵜呑みにできるのか? 一度芽生えた疑念の根は深い。この書状は、真偽を確かめる術がない限り、永遠に我らの間に横たわる棘となる」




 そのとおりだ。ここで「信じる」と口で言うのは簡単だ。だが、それでは何の解決にもならない。この棘を抜き去るには、言葉以上の何かが必要だった。




「証拠なら、ここに」




 静かに、しかし凛と響く声。


 一歩前に出たのは、フィオナだった。彼女は懐から、解析中だったはずの、暗殺未遂者の所持品から見つかった小型の文書筒を取り出した。




「先日、カイ殿の命を狙った暗殺者を捕らえました。彼が所持していたこの通信筒……その内部構造は、バルディア帝国軍の特務部隊が用いるものと完全に一致します。そして、彼らが用いる羊皮紙とインクの成分。それも、この密約書に使われているものと酷似していることが、我々の調査で判明しました」




 フィオナの言葉に、バルハたちの目が驚きに見開かれる。




「何……? 貴殿の命が狙われただと?」


「ああ。だが、ユランのおかげで未遂に終わった。そして、その襲撃があったからこそ、この密約書が『偽物』であると、俺は半ば確信していた」




 俺は、バルハの目を真っ直ぐに見据えた。




「あんたほどの誇り高い男が、こんな姑息な手を使うはずがない。帝国が俺たちを本気で潰したいのなら、もっと直接的な手を打ってくる。こんな回りくどいことをするのは、俺たちの『絆』こそが、奴らにとって最大の脅威だからだ。違うか?」


 


 俺の言葉に、バルハの瞳に宿っていた怒りの炎が、ゆっくりと静まっていく。代わりに、そこには深い安堵と、そして俺たちへの揺るぎない信頼の色が浮かび上がった。




「……見事だ、カイ=アークフェルド。貴殿は、我らが牙の誇りを……ただの言葉ではなく、心で信じてくれた。その信頼、このバルハ、生涯忘れん」




 彼は握りしめていた密約書を、まるで汚らわしいものでも払うかのように、投げ捨てた。羊皮紙は風に舞い、谷の底へと吸い込まれて消えていく。




「正直、証拠なんてなくても俺はバルハたちを信じるつもりだったよ。共に酒を酌み交わしたあんたらと、顔も名も知らない帝国の人間。どっちが信用できるかなんて明白だろ?」


「……心から感謝する」




 バルハは一滴の涙を手で拭った。




「帝国め……我らを分断しようとしたその策謀、倍にして返してくれる」




 シェルカが、しなやかな身体をくねらせながら、獰猛な笑みを浮かべた。




「面白いことになってきたじゃないか。ただの同盟じゃ、物足りないと思っていたところだよ。これはもう、戦争の前祝いだね」


「まったくだ」


 ザルクとゴウランが、まるで旧知の友のように頷き合い、互いに拳を軽く突き合わせた。その光景を見て、ラズがやれやれと肩をすくめる。


「脳筋どもが意気投合しやがった。こりゃ、帝国の連中もご愁傷様だな」


 吊り橋の上に満ちていた氷のような緊張は、いつの間にか完全に溶け去っていた。


 代わりにそこにあるのは、雨降って地固まる、という言葉が生ぬるく感じるほどの、強固な一体感だった。


 


「カイ殿。そして、ルディアの勇士たちよ」


 バルハが、俺たち全員に向かって深く頭を下げた。




「我らの集落へようこそ。もはや客人ではない。共に帝国という巨悪に立ち向かう、『戦友』として心から歓迎する」




 その言葉を合図に、トウラの民たちが、崖の上や吊り橋の向こうから、歓声を上げた。それは、疑念が晴れた安堵と、新たな戦いへの覚悟が入り混じった、力強い雄叫びだった。




「ああ。こちらこそ、よろしく頼む。戦友」




 俺は差し出されたバルハの巨大な手を、力強く握り返した。


 帝国の陰湿な罠は、結果的に、俺たちの絆を鋼のように鍛え上げる、最高の砥石となったのだった。




「さあ、議事堂へ来てくれ。祝杯の準備をさせよう。そして……帝国への反撃の策を、共に練るとしようじゃないか」




 バルハの言葉に、俺たちは力強く頷いた。


 本当の戦いは、ここから始まる。


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