私と先輩の憂愁

神田(Kanda)

第1話 凛とした儚さ

 コトン、コトンと、電車が揺れる。ガタンゴトンというほど大きな揺れではなくて、あくまでも、コトンコトンと言う方が適切なくらいの揺れ。少しの眠気を誘うような、魅惑的な揺れだ。


(あと少し......)


 電車の扉の上にある車内案内表示装置に、まもなく次の駅に到着するむねを伝える文字列が表示される。

 私にとってその文字列は、ただ駅の名前であるというだけではなくて、もっと特別な意味があった。それは、眠気を誘う電車の揺れよりも、はるかに重要なものだった。わずかにあった私の眠気を、完全に吹き飛ばしてしまうほどの。


 キィーッという音と共に電車が止まる。そして、軽快な音と共に扉が開く。人は、そこまでたくさん入って来るわけではない。それこそ、空席がちらほらあるくらいには、空いている。


(............)


 私はうっすらと目を開けて、床を見つめていた。寝たふりをしているわけではないけれど、じっと見つめられない限りは、寝ているようにしか見えないような素振りをしていた。

 電車に入ってくる人たちの足元だけが見える。革靴の人、違う高校の靴の人、ハイヒールを履いている人。そんな人たちの中に、一人、同じ高校の、同じ靴を履いている人がいた。

 私は、その靴の行く先を目で追っていた。そうして、その靴を履いた足の進行が止まったところで、ゆっくりゆっくりと、頭を上に上げる。だけど、その人へ直接的に視線を向けることはせず、あくまでも車内案内表示装置の方へ視線を向けて、「あ、もうこの駅だったのか。いやぁ、今、目を覚ましたのだけれど、もうここまで来ていたなんて、びっくりしたなぁ」というような素振りを、いや、演技をしながら、バレないように、チラチラと横目でその人の方を二回ほど見た。

 その人は、私の前の座席に座っていて、私と同じようにスクールバッグを膝に乗せていた。その右手には文庫本を持っていて、反対の左手で本のページをペラリとめくっていた。電車の窓からほんのわずかにこぼれた光が、その人の黒髪にうっすらと反射する。肩にかからない程度のところで綺麗に切り揃えられたその髪は、魅力的だった。

 そんな姿を、一秒にすら満たない一瞬の時間だけ視界に捉えて、私は再び、床の方へと視線を移動させて目をつむった。


(もっと見たいなぁ......)


 なんてことを思いながら、私は何度も、その一瞬の時間で視界に捉えた姿を思い出していた。


✳✳✳✳✳✳✳✳✳✳


「......て......おき......」


 ん? 何だろう。

 左肩に違和感がある。それに、どこからか声が聞こえる。上か下か、右か左か.........どこから聞こえるのかは、分からない。

 どうして、分からないのだろうか。

 その答えは単純だ。私が今、寝ぼけているからだろう。ああ、そうだ。私は、寝たふりをしていたはずが、いつの間にか本当に眠ってしまっていたのだ。

 .........あれ? じゃあ、この声は? 左肩に感じる、トントンと指でつつかれるこの感覚は?


「起きて......起きて......」

「......ふぇ?」


 そこで私は、目を覚ました。私は完全に寝ていたのだ。ほんの少しの眠気だったからと、すっかり油断していた。


「あ、大丈夫?」


 なんてことをぼんやりと思っていた時、私はその声を認識した。認識すると共に、視界も少しずつ明確になっていった。私の目の前に、その人はいた。先ほどまでは2メートルほどあったはずのその人との距離が、ほんの数10センチの距離に縮んでいた。


「えと......はい、大丈夫です」


 まだ状況が掴めず、そして半分くらい寝ぼけている私は、その人が、私に対して何が大丈夫であると聞いているのか分からなかった。ただ、私は反射的にそう答えていた。しかし、そう答えた直後に、目の前のこの綺麗な人が、何に対して大丈夫かと聞いてくれているのかを理解した。窓の外の風景は、一面の畑から住宅街に変化していた。これは、町の中心部へと近づいていることを示していた。そう、つまりは、高校の最寄りの駅のすぐ近くなのだ。ほんのわずかに視界を動かして、車内案内表示装置の方を見る。そこに示されていたのは、まもなく目的の駅に着くということを示す文字列だった。


「あ、あの、起こしてくださって、ありがとうございます」


 目が完全に覚めてきた私は、おずおずといった感じで、その人にお礼の言葉を言った。言い終えてから、私はその人の顔を見た。今度はさっきまでとは違って、クリアになった視界で、その人を捉えた。2メートルの距離で、ほんの一瞬の時間だけで見たその人の顔と、ほんの少しの距離で少しの時間ではあるものの、真正面からじっと見たその人の顔は、全く印象が違っていた。

まず、目に入ったのは泣きぼくろだった。元々あるのは知っていたけれど、こうも間近で見ると、全くの別物に思えた。ただ、私がどう思ったのか、それを認識するだけの心の余裕は無かった。その次には、目、鼻、口、耳、そして髪の毛、と私は視線を機敏に動かした。だけど、そんな風に、まるで審査するかのように人を見るのは失礼な気がして、グッとこらえて、私はその人の目へと視線を戻した。その目の中心には、一つの小宇宙のようでもあり、どこか触れてはいけないようにも感じるような畏れ多さを感じる、美しい黒い瞳があった。


「ん、いえいえ」


 その人は、私の謝意に対して落ち着いた声音でそう答えて、フッと微笑んだ。先ほどまでは、どこか冷たい印象のあったその顔は、一瞬にして聖母のような暖かみを帯びた。ほんの少し上に上がった口角に、愛おしさを覚えた。

 私は、その瞬間、胸の辺りに熱い何かがドロリと流れたような気がした。


 と、そこで電車が止まった。目的の駅に到着したのだ。そう、私と、この人が降りる駅に。


「あ、それじゃあね」

「あ、はい!」


 その人は、頭を可愛らしく僅かに傾けて、そう言った。私もそれに呼応するように、返事をした。ほとんど無意識に。


✳✳✳✳✳✳✳✳✳✳


 その人は先に電車を降りて、それに続くように私も電車を降りた。そうして、駅の改札を過ぎたあたりから、何となくだけれど少し距離を置いた方が良いかと思って、その人の数メートル後ろを歩いて、学校へと向かっていた。


 あの人の胸のリボンの色は赤色。それは、二年生であることを示していた。つまり、私の先輩であるということだ。


(いつか......もっとたくさん、お話とか......してみたいな。)


 何てことを心の中で呟いて、ふと、あることに気づいた。それは、遅れて来た羞恥心だった。どうにも夢見心地だったからなのか、私は今の今まで何も思っていなかったのだが、よくよく考えたら、電車の中で熟睡しているところを見られて、しかも起こしてもらったのだ。まあ、別に悪いことをしていたわけではないけれど。どうにも気恥ずかしく感じる。

 私は、少しではあったけれど話すことの出来た喜びと、わずかな羞恥心に板挟みにされる感覚に悶々としながら、チラリと先輩を見た。

 凛とした佇まいで歩くその姿に、私はどこか儚さを感じた。


同じ道を歩いている、同じ高校の先輩。

それが、私と先輩の最初の関係性。

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