第18章:鋼の上のラブソング

工場の屋根が、夕焼けの熱にきしむ。

赤く染まる空の下で、溶接の火花がやけに冷たく見えた。鉄と鉄をつなぐはずの光線が、今日はやけに頼りない。

まるで、誰かの言いかけた「愛してる」が、熱さだけ残して消えていくような。


ジョウの手は止まらない。機械油に染まった指がトリガーを握るたび、鋼が吠える。

――だがその胸の奥で、別の音が鳴っていた。


それは、昨夜kurenaiが部屋を去るとき、ドアに残した微かな歌。

「ごめんね、あんたがいちばん“本物”だったかもね」

その言葉が、ジョウの中で溶けずに残っていた。


溶接面の向こうで、誰かの声がする。「ジョウ、ライン4の補強終わったか?」

「おう、こっちももうじきラストスパートだ」

強く言いながら、ジョウの胸に響くのは、熱ではなく寂しさだった。


“鉄は冷めれば脆い。でも、冷めても折れない鉄もある”

師匠の言葉を思い出す。

ジョウはそのとき、初めて「愛」も同じだと思った。熱く溶け合い、冷めてなお、痕跡を残すもの。


火を止める。

音が消える。

静寂のなかに、自分の呼吸だけが響く。まるで、一曲の終わりのようだった。

ラジオから、古い演歌が流れている。「男はつらいよ」が流れ、場違いなやさしさが空間に滲む。


ジョウは汗を拭い、ヘルメットを取った。

空を見上げると、もう陽は傾き、工場の天井から差し込む光が、まるでステージのスポットライトみたいに、自分を照らしていた。


火花の散る構内で、ジョウはゆっくりとヘルメットを外した。

額に貼りついた汗が、耳元の冷えた鋼に音を立てて滴り落ちる。

焼けた鉄のにおい。オイルと埃の混じった匂い。それらすべてが彼の血液の一部だった。


今、目の前に立っているのは、過去の恋人でもなければ、今を生きる配信者でもない。

ただ、鋼と火に囲まれた、ひとりの男。

ジョウは、もう何かを演じることに疲れていた。

それでも、火の前では人は嘘がつけない。そう信じていた。


「…まるで歌だな」

ふいに漏れた言葉に、隣のノリが振り返る。

「何がだよ」

「火花の音。鉄が溶ける音。あのバーナーの叫び声。全部、音楽みたいだ」


ノリは一瞬、冗談かと思ったが、ジョウの眼差しが冗談を許していなかった。

真剣に、それでいてどこか諦念と救いの混じった顔。

まるで、炎に愛を告白する男のように。


ジョウは目を閉じた。

遠くで回るクレーンの音が、ベースのように響く。

圧縮空気の爆音が、ドラムに似ている。

そして、鋼を切り裂くグラインダーの悲鳴が、女の歌声のように胸を抉った。


これは、俺たちのラブソングだ。火と鋼で編まれた、命の旋律だ。

心のどこかで、そう確信した。



その夜。

配信画面は久々に灯った。

静かなオープニング。

かつての「ジョウ/JOKER」が演じていた、あの激しさはなかった。


代わりに、焙り出されるような裸の声があった。

マイク越しに漏れる溜息。焼け焦げたような低いトーン。

観客は息を飲んだ。

チャット欄が、まるで火が走ったようにざわめいた。


「ジョウ、生きてたの?」

「お前…変わったな」

「これが、今のお前の歌なのか」


「…久しぶりだな」

ジョウの声が響く。かすれた、しかし芯のある声。


「溶接工としての、今日の作業は…失敗だった。でもな、俺はまだ、ここにいる」

「鋼の上で、声を燃やして、歌を作ってる」

「聴いてくれよ。俺たちのラブソングをさ」


画面の中で、ジョウは溶接用の面を掲げたまま、

無音のまま――燃え残りの火花のような静寂を背負っていた。


その姿は、まるで戦地から帰還した兵士のようだった。

誇りと敗北、情熱と虚無。そのすべてを背負い、

なおも前を見て立つことを、選び続けた男。


「なんで泣きそうになるんだ、ただの配信なのに」

「こんな静かなジョウ、初めて見た」

「声が、刺さる。痛いほど、熱い」


チャット欄はまるで感電したようにノイズと感情が交錯し、

やがて、その中にひとつ――見覚えのある名が浮かんだ。


《kurenai》


コメントは、短かった。


「…まだ、歌ってるのね」


その一行に、ジョウは面を下ろすことも、喉を震わせることもできなかった。

ただ、手が勝手に溶接機のスイッチを切り、

火の灯らない鉄の前に膝をついた。


“まだ歌ってるのね”――それは問いか、赦しか。

それとも、最後のラブソングの続きを求める女の言葉か。


かつて、声で愛した女。

魂の焼きごてのような言葉で、誰かを励まし、誰かを裏切り、

そして誰よりも、自分自身を焚きつけて生きてきた女。


その名前を、ジョウは二度と口にしないと誓っていた。

けれど――たった一行の言葉が、

あの鉄より重い沈黙を、溶かした。



配信は、唐突に切れた。

ジョウは配信ブースを出て、夜の空気の中に溶けるように歩いた。


現実の鉄工所、現実の夜。

しかし、どこかで火花はまだ鳴っている気がした。

遠く、誰かが歌っているような、そんな幻聴の中で。


「kurenai……」


彼は、久しぶりにその名を声に出した。

誰もいない路地で、風に混じってその名は消えていった。


でも、彼には聞こえた気がした。

もう一つの声が、静かに、それでも確かに返事をした気がした。

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