第8章:溶接線の果てに、待つ影
鉄は、つながることで強くなる。
それが溶接という技術の本質だ。
だが、人はどうだ?
“つながった過去”は、時に、弱さを引きずる。”
昼下がりのヤードに、ジョウはいた。
背中には太陽より熱い火を背負い、目の前には鋼板よりも冷たい影が立っていた。
女の名は――レナ。
かつて、鉄ではなく、ジョウの芯を焼き焦がした唯一の女。
唇の端にまだ、焼け焦げた嘘の味が残っている。
⸻
「久しぶりだね。ジョウ」
レナの声は、かつてと同じだった。
火傷の治りかけを、爪でそっとなぞるような声音。
だが、その姿は変わっていた。
かつての赤いツナギは、今は黒のスーツに。
油の匂いは、香水と化し、
彼女は、もう“現場”の女ではなかった。
「お前が、その格好でここに立ってると……この世界が嘘に見える」
「嘘でも、過去は消えない。
あたしはずっと――この“溶接線の先”で待ってたんだよ」
⸻
溶接線――ふたつの鉄を、無理やり繋ぎ合わせた境界。
その線が割れるとき、鉄は悲鳴を上げる。
人も、同じだ。
ジョウの視線が、レナの首元を這う。
うっすらと、焼け跡のような痕が残っていた。
「あの夜、あんたが最後にくれた“火”。
まだ、冷めてないんだ。
毎晩それを思い出して、……身体が勝手に熱くなるの」
“熱が残る女”は、誰よりも危険だ。
それは、溶け残った鋼材のように、ふれればまた、燃え上がる。
⸻
レナが一歩、ジョウに近づく。
その一歩ごとに、過去の火花が弾けて、ヤードの空気を焦がしていく。
「今夜……もう一度、焼いてくれる?
最後の火が、どうしても欲しいの」
ジョウは迷わなかった。
それが、職人の性(さが)だった。
一度火をつけた鉄は、最後まで焼き切る。
彼女の手を取り、鉄板小屋の奥へ。
油に濡れた布団、カスのような光、錆びた窓――
そのすべてが、かつてふたりが交わった“現場”の記憶。
⸻
女が服を落とす。
下着すら、まるで「溶けて落ちたスラグ(不純物)」のように床に広がる。
ジョウの手が触れる。
彼女の肌は、まだ“溶接線”の境目を覚えていた。
それは、ふたりの別れが、断絶ではなく、未完だった証。
「ジョウ……焼いて。今度は、割れないように。」
「なら、覚悟しろ。
芯まで焼いて、二度と冷めないようにする。
俺の火は、もう逃げられねぇぞ」
溶接の始まりは、火花ではなく、沈黙だ。
溶接棒が鉄に触れるその刹那まで、
世界はじっと、息を殺している。
いま、ジョウとレナのあいだにも、そんな沈黙が落ちていた。
鉄板の上、裸のふたり。
その間に流れる空気は、アーク溶接の前の静電気のように、張り詰めていた。
「……怖くないの?」
レナの声が、小さく燃える。
まるで予熱中のガスバーナー。
声だけが、体温を先回りして火をつけに来る。
ジョウは、ゆっくりとその身体を抱き込んだ。
「怖ぇよ。……だから、手を抜けねぇ。
これは、仕上げの火だ」
⸻
ふたりの肌が触れ合う。
焼きならしを終えた鋼板どうしが、音もなく密着するように。
熱が、肌から肌へ、
熔融池のようにじわじわと伝わっていく。
レナの息が短くなり、指がジョウの背中をかきむしる。
爪の先は、まるでグラインダー――
鉄を削るその刃のように、激情の跡を刻んでいく。
「ジョウ……もう、離すなよ……
あたしの中で、何度も溶接して……割れないように……」
それは、ただの懇願ではなかった。
愛撫という名の加工が、今この瞬間にも繰り返されていた。
彼の指が、レナの腰を辿る。
骨の際、筋の下、“過去の冷え”がまだ潜んでいる場所を探し当てる。
そこを押すと、彼女は高く跳ねた。
溶接不良の鋼が、急加熱されて音を上げるように。
⸻
ジョウは手を止めない。
彼女の全身を火の回る順番で、丁寧に、何度もなぞる。
火の入り方が甘ければ割れる。
入りすぎれば歪む。
絶妙な加減――それが職人芸だ。
レナの目は潤み、何かを訴えるように見開かれていた。
それはもはや快楽ではなく――
“未完成だった女”が、仕上がっていく瞬間だった。
「……あんた、まだ熱いな……
あの頃より、ずっと……ずっと熱い……!」
「そうだ。
あの頃は……まだ、焼き足りなかったんだ。
いまこそ、完全に仕上げる。お前と、俺のあいだの火を――」
⸻
ジョウが最後に動いたとき、ヤードの奥で何かが崩れる音がした。
ふたりはそのまま、熱の余韻に沈んだ。
外では風が吹いていた。
鉄屑が転がり、乾いた鉄粉が舞っていた。
だがその風すらも、ふたりの熱を冷ますには足りなかった。
ジョウは煙草を咥え、火をつけずにくわえたまま言った。
「レナ。……お前、まだ錆びてねぇな」
彼女は笑いながら言った。
「火をつけてくれる溶接工がいる限り……女は錆びないよ」
⸻
朝の光が、薄く鈍く、鉄粉のように滲んでいた。
窓の隙間から差し込むそれは、熔接後の鋼材に残る熱のように、部屋をじんわりと温めていた。
ジョウは、レナの髪を梳きながら言った。
「……今日から、また溶接現場に戻る。あそこに新しい造船ラインができる。
でかいヤマが動くんだ。溶接工は……血が騒ぐ」
レナは寝ぼけ眼でジョウを見た。
彼の目には、夜を超えた昼の誇りが宿っていた。
セックスではなく、仕事に火を入れた男の目だ。
「また、危ない橋渡るんでしょ? あのライン、旧仕様のタンク抱えてるって噂、聞いたよ」
「知ってる。だから俺が行く。
誰かが“火の粉”を浴びなきゃ、造船は完成しねぇ」
そう言って立ち上がると、ジョウの背筋には、
まるで一晩で鍛え直された鋼板のような凛とした硬さが宿っていた。
⸻
外に出ると、風が鉄臭かった。
昨日溶接された鉄骨が、まだ空気の中で冷めきっていない証拠だった。
朝のヤードには、作業員たちが集まり始めていた。
どいつも油と汗と鉄粉にまみれたブルーカラー。
だが、どこかに誇りがあった。背筋に芯があった。
その中のひとり、サトルが声をかけてくる。
「ジョウ、噂聞いたぜ。……また“女火”に焼かれたんだって?」
「おう、昨夜も裸火で鉄を煮た。
だが今朝は、鋼をつくる番だ」
みんな笑った。
ヤードに朝の光と笑い声が拡がった。
だがその中心には、鋼のような沈黙を背負った男がいた。
⸻
レナは遠くからその背中を見ていた。
ジョウの歩く姿は、切断トーチで鋼材を真っすぐに裂くように力強かった。
彼女はポケットから一枚の写真を取り出した。
それは、数年前にふたりで撮った唯一の写真。
背景は古いタンク、ふたりは作業着のまま、笑っていた。
「……あの頃、あたしは火花が怖かった。
でも今は、あんたの火花が……一番美しいと思える」
小さく呟くと、レナは写真を折って、胸ポケットにしまった。
まだ“溶接されていない”何かが、自分の中に残っている。
それを完成させる火花を、彼だけが持っている――そう信じて。
⸻
その日、ヤードの中で事故が起こる。
ジョウの担当した旧式の圧力タンクが、溶接熱に耐えきれずに歪み、
一部が溶接線の真上から破断したのだ。
現場は騒然となり、火花と煙が舞う。
だが、ジョウは逃げなかった。
鉄と火の中に飛び込み、手動で圧を逃しながら、溶接線を“手で封じた”。
命をかけて、鋼の中の血管を閉じるように。
あとで語られることになる――
あのとき、彼の手からは本当に火が出ていたようだった、と。
⸻
午後、応急手当を受けたジョウが作業車の上で寝そべる。
レナがやって来て、彼の焼け焦げた手をそっと握る。
「これが、あたしの“溶接線”……でしょ?」
「そうだ。
……お前と俺を、最後まで割らせねぇ」
遠くで、溶接機の点火音が鳴る。
新たな鉄の夢が、そこからまた始まろうとしていた。
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