第17章 140字のメッセージ
収監から半年が経った頃、ヴァイスは刑務所内の小さな作業室で、静かに筆を取っていた。その線は、かつてのような緊張感もなければ、誰かに媚びるような誇張もなかった。それはただ、呼吸のように自然に描かれた一本だった。
「最近、お前の線が柔らかくなったな」隣の席に座る年配の受刑者がぽつりと呟く。ヴァイスは笑って首をすくめた。「ようやく“自分”に戻ったのかもしれない」
その言葉には、かつて父の筆致に感じていた違和と、贋作家として過ごしてきた年月を経て初めて見つけた“自分自身の線”への確信が込められていた。
絵の横には、机の隅に折りたたまれた新聞の切り抜きがある。《無名作家展、各地で開催へ──『本物を越えた偽物』に込められた問い》
そこには、クラリスの名も、ヴァイスの名も記されていなかった。だが、展示された絵のひとつが、はっきりと彼の手によるものだと彼自身には分かっていた。
*
ベルリンの一角。無名作家展の新たな展示の準備が進められていた。“無名作家展 Part II──『線を越えて』”
ギャラリー責任者のエリック・マイヤーは、準備に奔走する若手スタッフを見守りながら、ひとつの絵の前で足を止める。
「名前がないからこそ、人は“絵そのもの”を見ようとする。今回も、そうであってほしいね」
それはヴァイスの手による一枚だった。静けさの中に確かな意志と回復の気配を宿した、優しい線の絵。マイヤーはその絵を、ひとつの希望として壁にかけた。
*
ローゼンはベルリンに戻ったあと、ひとつの報告書を仕上げていた。
“この事件は、贋作事件ではない。芸術とは何か、人を信じるとは何か──その問いに向き合った記録である。”
そう締めくくられた報告書は、署内でも異例の“所感付き捜査記録”としてまとめられた。
上司は無言で読み終えると、ふっと息を吐いて言った。「……変わったな」
「いい意味で、ですか?」とローゼンが問うと、「さぁな」とだけ言ったが、その表情にはどこか穏やかさが宿っていた。
*
3年後──クラリスが出所する日が、とうとうやってきた。 早朝の空は一面の青に澄み渡り、木々の葉は揺れ、鳥のさえずりが微かに聞こえていた。 鉄製の重たい扉がゆっくりと開き、クラリスはひとり、刑務所の正門をくぐった。
誰かが迎えに来ているわけではなかったが、彼女はそれを当然のように受け止めていた。
静かな風が髪をなびかせる中、小さな黒いスーツケースを引いて、クラリスは歩き出した。その足取りには、迷いも焦りもなかった。
向かう先は、エリック・マイヤーが手配したベルリン郊外の小さなアパート。家具は最小限。木の机と椅子、白い壁、そして窓から見える遠くの川。
クラリスはスーツケースを開け、丁寧に荷物を整えた。たった一枚だけ持ち出した写真──ヴァイスが描いた“森と群衆”の贋作。
“これは、わたしたちの創作だった”
机の隅にその写真を立てかけ、クラリスは深く息を吐いた。
*
翌朝。クラリスは静かに目を覚ます。珈琲をいれて、パソコンを開く。検索エンジンのトップページには、見慣れない見出しが躍っていた。──『クラリス・ヴァイス氏、出所』──
「こんなのがニュースになるなんて……」彼女は鼻で笑い、小さくため息をつく。
だがその下に並ぶ関連記事が目を引いた。──『“罪ではなく、信念” SNSで広がる声』──
クリックすると、街頭で絵のコピーを掲げる若者たちの映像が流れた。「この絵が、贋作なんて信じられない」「名前じゃない。感じたままがすべて」「本物以上に、心に響いた」
クラリスはモニターを見つめながら、胸の奥に熱を感じていた。
*
数日後、インターホンが鳴る。扉の前にはローゼンが立っていた。
「元気そうだな」「……元気、に見えるなら」
クラリスは彼を招き入れ、コーヒーを淹れた。その手つきは、かつてと何ひとつ変わっていなかった。
ローゼンは窓際の椅子に腰を下ろし、川を眺めながら言った。「最近、SNSってやつを始めてみたんだ」
クラリスは目を見開く。「あなたが?」
「意外か? でも、伝えたくなる気持ちは、俺たちも同じなんだな」
彼はカップを見つめながら続ける。「ヴァイスの絵、評判は上々だ。“無名”が故に、人は線の向こうに心を探そうとする。あんたの演出も、その一部だ」
クラリスはふと視線を落とし、「……私たちは名前を消した。でも、誰かに届くことを、ずっと願っていた」
「なら、届いたよ。今度は“あなた”の番だ」
ローゼンは立ち上がり、帰り際に一言。「SNS、悪くないぞ。“正体を明かさずに本音を言える”ってのは、裏のある人間には向いてる」
クラリスは思わず笑った。「やってみるわ」
*
その夜、クラリスはノートパソコンの前に座り、じっと画面を見つめていた。
──伝えるべきか、それとも沈黙を選ぶべきか。
やがて、指がゆっくりと動いた。
『わたしは嘘をついて、多くの人々を欺きました。でも、絵はいつも“真実”であってほしかった。名前ではなく、線が語るものを、私たちは信じていた。いまも、そう信じています。贋作という言葉が消えないなら、それを超える何かを信じたい。本物の名がなくても、そこに宿る心が真実であれば、絵は嘘じゃない──私は、そう思っています。』
──投稿。
「……140字、使い切っちゃったわね」クラリスは微笑んだ。
「もう一つ……続けても、いいかしら」
そして、続けてもう一文を打ち込む。『静かに見てくれていた皆さんへ、ありがとう。あなたたちの声が、私の光になりました。』
*
翌朝。クラリスはいつものように珈琲をいれ、パソコンを開いた。──通知:DMが1件届いています。
そこには、若い女性からの丁寧なメッセージが届いていた。
【@marina_draws】アイコンは柔らかな色合いの水彩で描かれた花束のイラスト。背景にさりげなく美大のロゴが描き込まれている。
『はじめまして。クラリスさんの投稿、何度も読み返しました。私たちは“嘘をつかれた”とは思っていません。むしろ、“守りたかったものがある”というあなたたちの選択に、強く胸を打たれました。贋作?本物?そんな言葉よりも、あの絵が私たちに何をくれたかが大事なんです。線に込められた想い、色に宿った記憶、そして“誰かの人生”を感じることができた。そのことが、何よりの真実だと思っています。今、大学の友人たちと話して、ヴァイスさんの釈放に向けてできることを考えています。クラウドファンディングを立ち上げようかと考えていますが、勝手にやっていいのかわからなくて……。でも、私たちには動きたい理由があります。あの絵たちは、希望そのものでした。どうか、力を貸してください。』
クラリスは画面をじっと見つめていた。カップに口をつけたが、熱さはもうなかった。風が窓の外の枝葉をやさしく揺らしている。
もう一度、画面の文字を読み返し、クラリスは、そっと微笑んだ。
それは誰にも見せない、けれど確かに何かがほどけた瞬間だった。そして、静かに画面を閉じ、冷めたコーヒーを飲み干した。
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