第12話:宴は続く
笑いと会話が続く中、ミリアがグラスを見つめながら、ふと静かな声で言った。その声色には、これまでの軽口とは異なる、何か本質的な問いかけが含まれていた。それは宴の雰囲気を一変させるような、重みのある言葉だった。
「……私も、こっちに鞍替えしようかしら」
船室に一瞬の静寂が流れた。彼女の言葉は、この場の空気を変えるほどの重みを持っていた。制度側の協力者が完全に「闇」に落ちるという選択は、彼らの均衡を揺るがすほどの意味を持っていたのだ。
「え!? マジで? 査察官やめちゃう?」
ラグナルの声が一オクターブ上がった。彼の驚きは、この計画において、制度内協力者の存在が不可欠だったことを物語っていた。表と裏の世界の間に立つミリアの役割は、彼らにとって非常に重要なものだったのだろう。
「いやいや、勘弁して。マジでこっち側に来たら手強すぎるから」
マルコは半分冗談、半分本気で手を振った。彼の中に、オーケストラの指揮者としての計算が働いていた。
「制度側の協力者がいるから初めて成り立つ芝居なんだ。両方にバランスがないと」
その言葉には、表と裏、光と影のバランスを重視する彼独自の美学が表れていた。マルコにとって詐欺は単なる金儲けではなく、社会という舞台の上で演じられる一種の芸術だった。そしてその芸術には、光と影の均衡という美学が必要だった。彼の眼差しには、詐欺師としての狡猾さとは別の、芸術家としての誠実さが宿っていた。
「ふふ、ちょっとは考えてさせてよ」
ミリアは笑みを浮かべた。彼女の目には、この芝居の一部始終を見てきた者の、複雑な感情が浮かんでいた。制度の内側にいながらも、その制度に対する何らかの不満や疑問を持ち、それゆえに詐欺師たちに協力する——そんな彼女の立場が、その微笑みには投影されていた。
「向こうの組織、あんたを使いこなせてない気はするな」
ガロがぼそりと呟いた。
「才能の無駄遣いというか」
その言葉には、制度側への皮肉と、ミリアの才能への素直な評価が混じっていた。ガロは集団の中で最も年長者らしく、冷静な観察者としての視点を持っていた。彼の言葉は、この社会における才能と制度の不一致という、より大きな問いを投げかけているようだった。
会話が続く中、ミリアがふと思い出したように言った。彼女の声には、標的となった上司への複雑な感情が含まれていた。
「でも……ヴォルク室長、ほんとに幸せそうだったね」
その言葉に、一瞬だけ船室が沈黙に包まれた。詐欺と芝居の影に隠れた、ある種の真実が、その言葉には含まれていた。彼らが演じた芝居によって、皮肉にもヴォルク・アルブレヒトは「幸せ」を手に入れた。虚構でありながら、彼にとっては真実の幸福——その逆説に、船室の全員が一瞬、考え込んだかのようだった。
「なんだか少し可哀想になってきた気もする」
ミリアはグラスを小さく揺らしながら続けた。帝国の官僚でありながら、詐欺の協力者というリスクを冒してまで彼らに加担する彼女なりの理由と感情が、その言葉には込められていた。
「あれだけの金額を失って……これから偽逮捕もバレてくわけでしょ?」
「ああ、それなら心配しなくていいと思うけどなあ」
マルコがワインを飲み干して言った。その表情には、まだ明かされていない何かを知っている者の余裕が浮かんでいた。
「え?」
「手柄は渡しといたから」
「どういうこと?」
ラグナルが首を傾げる。他のメンバーの顔にも困惑の色が浮かんでいた。
マルコは満足げに微笑み、ゆっくりとグラスにワインを注ぎ足した。波の揺れる音だけが船室に響く。その間の沈黙は、マルコの言葉の重みを増幅させる効果があった。
「実はね、あの摘発の日——ミリアに本物の警備隊を『ヴェルシア湾街区埠頭倉庫エリア4ブロック倉庫』に誘導してもらったでしょ?」
ミリアが小さくうなずいた。彼女の目には、今まで自分が行ってきた「工作」の意味についての疑問が浮かんでいた。
「あそこには本物の密輸団がいたんだ」
「……は?」
一同の声が重なる。これは芝居の外で起きた予想外の展開だった。
「それ、どういうこと?」
ミリアが反応すると同時に、ガロが眉を寄せた。彼の顔には、長年の経験に裏打ちされた洞察力から生まれる、かすかな笑みが浮かんでいた。
「実は、前から別ルートで本物の密輸組織を調査してたんだよね。今回はそのついで」
マルコは肩をすくめる仕草で軽々しく言った。だがその目には、常に一手先を読む者の鋭さが宿っていた。
「いやさあ、それはさあ……言ってよ! ていうか言えよ! ていうかついでかよ!」
ラグナルが声を荒げた。そこには驚きとともに、少しだけ裏切られた気持ちも混じっていた。と、同時に詐欺集団にとって完全な信頼と情報の共有は難しいという現実が、そこには表れていた。ラグナル本人でさえ、本音ではそれを理解していたし、「いつものやつだ」という諦念も含まれていた。
「そうなの。本物の密輸団は別件のお仕事。こういうのはさあ、言ったら、面白くないじゃん」
マルコの言葉には、まるで子供のような無邪気さと、同時に計算し尽くされた狡猾さが同居していた。彼の中では、詐欺は単なる利益獲得手段ではなく、人生そのものを「芝居」として演出する壮大な遊びでもあるようだった。
「つまり…私が流した偽情報は…」
ミリアの目が見開かれた。彼女は自分が流した情報が、結果的には全く別の意味を持っていたことに気づき始めていた。
「本物だった。ヴォルク室長は、本物の密輸組織を摘発する手柄を立てたことになる。ミリア監督官もお勤めご苦労!」
マルコが嬉しそうに言った。彼の演出は、対象人物だけでなく、自分のチームにまで及んでいたのだ。それは演出家として、戯曲の登場人物だけでなく、役者すらも騙し続ける芸術家の姿だった。
「だから今ごろ、査察課は報奨金に沸いてるよ。ヴォルクの評価も上がってるんじゃないかな。お金は失ったけど、名誉は手に入れた。悪くない取引だろ?」
船室内に静寂が広がった。それは驚きと感嘆が入り混じった沈黙だった。詐欺師たちが、自分たちもまた別の「芝居」の中の登場人物にすぎなかったことを悟った瞬間だった。
「で、今回は、どんな脚本だ?」
ガロがようやく口を開いた。彼の声には非難というよりも、純粋な好奇心が含まれていた。船の所有者として、彼もまた別の人生の「役」を演じる者だった。それゆえに、マルコの二重構造の芝居を理解できる立場にあった。
「よくできたお芝居ってのは、誰もが満足するんだよ」
マルコは瞳を輝かせて言った。その目には、単なる詐欺師を超えた、芸術家としての誇りが宿っていた。
「ヴォルクは幻のワインを獲得した気分と、実際の密輸団を摘発した実績。俺たちは8000万セストル。誰も損しちゃいない」
「結局、また俺たちまでいい感じで踊ってたわけか」
ラグナルが呆れたように言ったが、その口元には微かな笑みが浮かんでいた。それは不満というよりも、マルコの才能への敬意を表す表情だった。詐欺師同士の間にも、その技術への尊敬と、それを超えられなかった者の諦観があった。
「詐欺師って、騙すのが仕事なんじゃないの?」
ミリアが小さな笑い声を上げた。彼女の笑いには、制度側に所属しながらも、その欺瞞を見抜いてきた者の冷静さがあった。それは帝国の官僚機構という「芝居」の裏側を知る者の視点でもあった。
「よく言うよ、協力者さん。あなたもまさか、本物の密輸団の情報を流していたとは思わなかったでしょ?」
「そりゃあ、まさか…ね」
ミリアは思わずグラスを置き、手のひらで口元を覆った。その仕草には、自分もまた騙されていたという驚きと、その巧妙さへの感嘆が混ざり合っていた。
「実はこの芝居、思ってたより複雑だったのね」
「芝居は重層的であればあるほど、美しいものだからね」
マルコはワインを掲げた。彼の表情には、複雑な芝居を完成させた芸術家の満足感が輝いていた。それは社会という舞台で、誰よりも深く、誰よりも広い視野を持って演じる者の誇りだった。
「芝居ってのは、誰かの夢の中でやるものだからな」
ガロが静かに言った。その言葉には、長年にわたって裏社会で生きてきた者の知恵と哀愁が込められていた。
「夢見る者がいて、初めて成り立つ」
「その通り。そして時には、舞台の上の役者も、知らぬ間に別の芝居の中にいる。というか、この社会そのものが芝居ってやつなんだよ」
マルコの言葉が、船室に響いた。それは詐欺という「芝居」の、さらに奥深い哲学を語るものだった。彼の中では、真実と虚構の境界は極めて曖昧であり、そのどちらもが互いに支え合う関係にあった。
窓の外では、波と艀がきしむ音だけが続いていた。歓声と笑いに満ちた船室の中で、その言葉だけが、どこか特別な響きを帯びていた。
真実と嘘が交錯する舞台の裏で、演者たちは本来の姿を取り戻す。そして皮肉なことに、その素の姿こそが、もうひとつの仮面なのかもしれない。人間とは、幾重もの仮面を被った存在なのだ。そして時に、最も偽りに満ちた瞬間こそが、最も「真実」に近いという皮肉。
ワイングラスの中の液体が、揺れる船の動きに合わせて光を反射する。それはあたかも、人生という舞台の上で揺れ動く「真実」と「虚偽」の境界のようだった。
表舞台では、ヴォルク・アルブレヒトが手に入れた「幻のワイン」を眺め、満足に浸っているだろう。そして裏舞台では、その幻想を作り上げた者が、また新たな物語を紡ぎ始めようとしていた。
彼は詐欺師であると同時に、人々の「夢」を作り出す芸術家でもあった。そのふたつの顔を持つ彼らの笑顔の奥には、この世界の真実と虚構の境界を知る者だけが持つ、常人には理解しがたい理想が隠されていたのである。
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