第3話:ラグナル・フェーン
帝都財務省の玄関扉が、石の重みを帯びながらも滑らかに開かれた。
厚い扉は朝霧の気配をわずかに抱え込み、その冷たさとともに静寂を内部へと連れ込んだ。この静けさもまた、官僚社会特有の厳粛さを象徴するものだった。
ラグナル・フェーンは、威圧的な石柱に囲まれた受付カウンターの前に立ち、短く頭を下げた。地方官吏として培った身のこなしには、都会的な軽やかさはないが、それゆえの確かな重みが感じられた。彼は内ポケットから配属通知書を取り出し、落ち着いた手つきで提示した。そこには過剰な畏れも、不遜な自信も見られない。
対応に出たのは、二十代前半と思しき若い書記補佐官だった。彼はラグナルの身なりと雰囲気に、一瞬だけ視線を留めた。新参者の価値を瞬時に判断しようとする、帝国官僚特有の目付きである。しかし、すぐに表情を調整し、慣れた手つきで受理手続きを始めた。
――地方庁から査察課へ。しかもこの年齢で。
人事異動簿に目を走らせた書記補佐官の眉が、ほんのわずかに動いたのは、通常ではあり得ない人事に疑問を抱いたからだった。地方から本庁への栄転は、少なくとも十年以上の実務経験を積んだ、四十代以降の官吏に与えられる名誉であるのが通例だった。それがラグナル・フェーンという若者に与えられたことは、彼が並外れた才能の持ち主であるか、あるいは背後に何らかの政治的な駆け引きがあることを示唆していた。
だが、もちろん、書記補佐官がそれを口に出すことはない。「驚きを顔に出さないこと」――それは帝都官僚の第一条件であり、それができない者は、この複雑な権力闘争の迷宮で生き残れないことを意味していた。
「フェーン様、ですね。査察課にお回しします。お待ちくださいませ」
丁寧だが過不足のない口調。それは朝露のように冷たく、ガイアスの空気に完璧に溶け込んでいた。ラグナルは頷くだけで応じた。
彼の姿には「この程度のやりとりには動じない」という自然な自信があったが、それを誇示するような気配は一切なかった。むしろ、その控えめな態度こそが彼の存在感を際立たせていた。帝国官僚の世界においては、能力の誇示よりも、その抑制こそが真の力を示す場合が多いのである。
数分後、廊下の奥から規則正しい足音が近づいてきた。それは軽やかでありながらも、確固たる存在感を持ち、この場に在る者たちすべてが、無意識のうちに姿勢を正すほどの威厳を湛えていた。現れたのは、査察課首席書記官――エルザ・ヴェルデンであった。
彼女の存在は、帝国官僚の理想像とも言うべきものだった。過度の装飾はなく、無駄な動きもなく、しかしその整った容姿と完璧な立ち振る舞いは、周囲に微妙な圧力をかけずにはいられなかった。彼女はラグナルの姿を一瞥すると、表情を変えることなく、小さく会釈した。しかしその視線は、すでに彼の人物像の九割方を把握していたことを窺わせるものだった。
「ラグナル・フェーン様、ですね。査察課主席書記官のエルザ・ヴェルデンです。室長がお待ちですので、どうぞこちらへ」
その声は低く落ち着き、言葉選びも、語調も、完璧に整っていた。中流上位の官僚家系出身という彼女の背景が、声の端々から滲み出ていた。それは長い教育と経験によって培われた、ガイアスという都市の空気そのものであった。ラグナルはすぐに応じ、
「よろしくお願いいたします」
とだけ返した。必要なことだけを述べ、過剰な社交辞令を省く点において、彼もまた官僚的洗練さを持ち合わせていた。たったそれだけのやりとりだったが、その短い対話の中で、エルザもまた、この若い新任官吏の「均整の取れた空気」に気づいていた。彼女の鋭敏な観察眼は、ラグナルの中に何か通常とは異なるものを感じ取っていたのかもしれないが、それを表情に出すことはなかった。
――過剰な緊張も、過剰な自信もない。ただ、すでにこの空間に馴染むように、音を立てずに歩く者。
それは、いかにもガイアスの中枢に相応しい、帝国官僚の"素材"として、申し分のない姿であった。しかしながら、あまりにも完璧すぎる均衡もまた、時に何かの欠落を意味することがある。その可能性を、エルザの本能が薄々と感じ取っていたとしても、今はまだそれを確かめる時ではなかった。
エルザは言葉を交わさずに踵を返し、ラグナルはそれに続いた。二人の姿は、重厚な石の廊下に溶け込むように消えていった。ふたりの足音が廊下を渡り、静かに、その日の最初の幕が上がった。それはガイアスという巨大な都市の一隅で紡がれる、多くの物語の一つに過ぎない。だが、人は知らない。時に最も取るに足らないように見える出来事こそが、歴史の流れを変える最初の一滴となりうることを。
執務室の扉が、控えめな二度のノックによって、朝の静寂に小さな波紋を広げた。
「どうぞ」
ヴォルクは、手元の文書に視線を落としたままではあったが、その声には自然な温かみがあった。地方出身の彼は、帝都の官僚特有の堅苦しさよりも、人間味のある対応を心がけていた。それは彼なりの「良き上司」を演じるための無意識の選択でもあった。
扉が静かに開き、エルザ・ヴェルデンの整った姿が現れた。彼女の隣には、黒の外套をきちんと着こなし、姿勢を崩さぬ若い男が一歩下がって控えていた。ヴォルクの視線は思わずエルザの姿に留まりかけたが、すぐに新参者へと移った。
「新任のラグナル・フェーン査察官をお連れしました」
エルザは一礼だけ残し、音もなく下がった。彼女の退場にヴォルクはほんの少しだけ残念な気持ちを覚えたが、もちろんそれを表情に出すことはなかった。ヴォルクは視線を上げ、相手をにこやかに見た。若者の外見を見れば、「品格は外套、実力は靴」という座右の銘に照らしても申し分ない。地方官庁から来たにしては、洗練された印象を受けた。
ラグナルは、控えめな動作で一歩進み、丁寧すぎない程度の一礼を加えた。
「本日付けで配属となりました、ラグナル・フェーンです。地方庁査察部より、辞令を賜りました」
その声は低く安定しており、過剰な緊張も、誇示もなかった。むしろ、ここが彼にとって"特別ではない場所"であるかのような平静が漂っていた。
「思ったより落ち着いた雰囲気だね」
ヴォルクは口元に親しみのある笑みを浮かべた。それは心からの評価であり、歓迎の意を示す自然な表情だった。
「若いけど、現場経験があるなら心強いよ。数字の裏を読む目さえあれば、あとはここでの流儀はすぐに覚えるだけさ」
その言葉には純粋な歓迎の意があった。同じく地方出身の彼には、この若者に親近感を抱く部分があったのだ。もちろん「室長としての体面」も考えてはいたが、それは威圧というより、むしろ「頼れる上司」として振る舞いたいという虚栄心からであった。
「心得ております。ご指導、よろしくお願いいたします」
ラグナルの返答は、僅かな抑揚だけを残し、澱みなく響いた。その完璧な対応に、ヴォルクは内心で感心していた。彼自身、かつてはこのような若い官吏だったはずだが、果たしてこれほどの落ち着きを持っていただろうか。
ヴォルクは数秒だけ黙し、ラグナルの顔をもう一度見つめた。そして柔らかく頷いた。
「まあまあ、いいみたいだ。まずはここの空気を覚えてもらおうか」
彼は指先で机上の書類を軽く叩き、ラグナルの立ち位置を、徐々に迎え入れる所作で示した。その仕草には、威厳を保ちつつも親しみを込めようとする、ヴォルク独特の温かみがあった。地方の官吏家庭出身の彼は、帝都の高貴な官僚のように冷たく振る舞えるほどの起用さもまた、持ち合わせていなかったのである。
一瞬、二人の視線が交差した。
ラグナルの瞳には測りがたい深みがあり、ヴォルクの目には温かみのある観察が宿っていた。この静かな探り合いの中で、二人の関係性が僅かに形作られ始めていた。だがその真実の深みは、言葉にされることなく、静かに朝霧の中へと溶けていった。
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